第10話 隣のギャルが、俺の隣を指定席にしてくる
昼休みの教室は、今日もリリカを中心に回っていた。
「リリカー、昨日の写真見せて!」
「いいよー。ちょっと待ってね」
「あ、彩藤さん! この前教えてもらった髪の巻き方、やってみたんですけど!」
「え、めっちゃいいじゃん。毛先だけもう少し外に流すともっと可愛いかも」
「彩藤、放課後ちょっとだけ時間ある? バスケ部で紅白戦やるんだけど部員がひとり休んでて……」
「んー、放課後はちょっと微妙かも。明日でも大丈夫?」
リリカは、相変わらず人気者だった。
姫乃、心春、未羽と笑いながら弁当を食べていたかと思えば、別クラスの女子に声をかけられる。後輩に髪型の相談をされる。男子に頼まれごとをされる。先生からも、何かと声をかけられる。
それを嫌な顔ひとつせず、軽いノリで受け止める。
誰かに頼られることが、リリカにとっては日常なのだろう。笑って、返して、場の空気を明るくして、気づけばまた会話の中心に戻っている。
俺は弁当の白米を箸で崩しながら、その様子を見ていた。
やっぱり、住む世界が違う。
昨日までなら、たぶんそこで終わっていた。
学年一のギャル。
教室の中心。
俺とは別の世界にいる人間。
そう思って、いつものように少し距離を置いて眺めていたはずだ。
でも、今日は違った。
リリカが笑うたびに、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
後輩に「可愛い」と言って笑う横顔。心春に写真を見せている指先。未羽の何気ないツッコミに吹き出す声。姫乃に肩を揺さぶられて困ったように笑う顔。
その全部が、妙に目に入る。
昨日、図書室でリリカが俺の作品を語っていた顔を思い出す。
好きなものを、本当に好きだと言う顔。
それを見て、俺はまずいと思った。
俺はたぶん、少しずつリリカに惹かれ始めている。
認めたくはない。
認めたくはないが、認めないと説明がつかない。
耳元で囁かれて動揺するのは、距離が近いからだと思っていた。食べかけのアイスを食べさせられて意識したのは、状況が特殊すぎたからだと思っていた。写真を渡されて落ち着かなくなったのは、黒歴史ラノベの台詞を絡められたせいだと思っていた。
でも、違う。
たぶん、もうそれだけではない。
俺がリリカを見る目が、少し変わっている。
それが怖かった。
リリカは俺の作品が好きなのだ。
天玻璃奏月の書いた、あの黒歴史ラノベが好きなのだ。俺にセリフを囁くのだって、作者本人の反応が面白いからに決まっている。
なのに、俺が勝手に勘違いして、勝手に近づいて、勝手に傷つくのは違う。
住む世界が違う。
そう思っていた方が、たぶん安全だった。
「依澄くん」
そんなことを考えていると、リリカが俺の机の横に立っていた。
いつの間に来た。
いや、最近こればかりだ。俺が考え込んでいると、リリカは当然のように距離を詰めてくる。
ベージュのカーディガンの袖が机の端に触れる。ふわっと甘い匂いがして、反射的に息を浅くしてしまう。
「今日も図書室行こ」
「……またか」
「まただよ」
「最近、毎日じゃないか」
「うん」
「否定しろ」
「事実だし」
リリカは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、胸が少しだけ跳ねる。
まずい。
そう思った瞬間だった。
「彩藤さん、今いい?」
教室の入り口から、別クラスの女子が声をかけてきた。
見覚えはある。名前までは知らない。たしか隣のクラスの女子で、新聞部の子だ。
「今度の学校新聞のデザイン、ちょっと相談したくて。昼休みしか時間なくてさ」
「あ、うん」
リリカは一瞬だけその子を見て、それから俺を見る。
「ごめん。今日は予定があって」
「予定?」
その女子が首を傾げる。
リリカは、ほんの少しだけ言葉に詰まった。
予定。
たぶん、俺と図書室に行くことをそう言おうとしたのだろう。
その瞬間、俺は妙にいたたまれなくなった。
リリカは人気者だ。
いろんな人から頼られている。
俺と図書室で黒歴史ラノベの話をするより、そちらの方がずっと自然だ。そちらの方が、リリカらしい。
俺なんかのために断る必要はない。
「予定なんてないだろ」
気づけば、そう言っていた。
リリカが目を丸くする。
「依澄くん?」
「行ってこいよ。頼まれてるんだろ」
「でも」
「俺は一人で行くから」
そう言って、俺は弁当箱を片付けた。
リリカの表情が、少しだけ固まった気がした。
笑顔が消えたわけではない。けれど、さっきまで俺に向いていた明るさが、ふっと弱くなったように見えた。
「……そっか」
リリカは小さく言った。
「じゃあ、ちょっとだけ行ってくるね」
「ああ」
俺はリリカの顔を見なかった。
見ると、余計なことを言いそうだったからだ。
リリカは新聞部の女子に呼ばれて、教室の入り口の方へ向かう。すぐに周囲の空気に溶け込んでいく。笑顔で話を聞いて、相手の持ってきたプリントを覗き込み、何かアドバイスをしている。
やっぱり、あっちの方が自然だ。
俺はそう自分に言い聞かせて、ひとりで教室を出た。
図書室には行かなかった。
* * *
午後の授業は、妙に長かった。
リリカは隣の席にいる。
それなのに、いつもより遠く感じた。
教科書を開く音。シャーペンがノートを走る音。先生の声。窓の外を通る風の気配。いつもなら気にならないものが、いちいち耳に残る。
リリカは何度かこちらを見た。
気配でわかった。
でも、俺は気づかないふりをした。黒板を見て、ノートを取って、必要以上に真面目な顔をした。
隣にいるのに、会話がない。
たったそれだけで、こんなに気まずいものなのかと思った。
放課後のホームルームが終わると、教室の中が一気にざわついた。部活へ向かう生徒、帰り支度をする生徒、友達同士で予定を確認する生徒。いつもの放課後の騒がしさだ。
「依澄くん」
リリカの声がした。
俺は鞄を肩にかける。
「悪い。今日は帰る」
リリカが何か言いかける前に、俺は席を立った。
無視した。
ほとんど、そう言っていい。
背中にリリカの視線を感じる。呼び止められるかと思ったが、声は続かなかった。
胸の奥が少し痛む。
自分で距離を取っているくせに、なぜ痛むのか。
面倒くさい。
自分のことなのに、面倒くさい。
俺はそのまま教室を出た。
* * *
気晴らしのつもりで、駅前のカフェに入った。
チェーン店の、そこそこ賑やかな店だ。木目調のテーブルと、ガラス越しに見える駅前の通り。放課後の時間帯だからか、制服姿の高校生や大学生らしき客も多い。
俺はカウンターでモカフラペチーノを注文し、窓際の席に座った。
甘くて冷たい。
上に乗ったクリームをストローで混ぜながら、一口飲む。
昔から、これが好きだった。
中学の頃、俺はたまにこの店に来て、小説を書いていた。ノートパソコンを開いて、イヤホンをつけて、いかにも作業している人間みたいな顔をして、ひたすら文章を打っていた。
今思い返すと、かなり背伸びしていたと思う。
カフェでノートパソコンを広げて小説を書く。
それだけで、少しだけ大人になった気がしていた。
飲み物も最初はいろいろ試した。苦いコーヒーを頼んで、全然飲めなかったこともある。名前がかっこいいからという理由で頼んで、甘すぎて後悔したこともある。
その結果、落ち着いたのがモカフラペチーノだった。
甘くて、冷たくて、少しだけ苦い。
当時の俺には、それがちょうどよかった。
画面の中では、朝凪悠生と小花衣千沙登が、恥ずかしいくらい真っ直ぐに恋をしていた。書いている俺は、まだ誰かと付き合ったこともない中学生だったのに。
思い出すと、顔が熱くなる。
でも、あの頃の俺は本気だった。
本気で、甘い恋を書こうとしていた。
だからこそ、今はきつい。
「モカフラペチーノ、好きなんだ」
急に声がして、ストローを噛みそうになった。
顔を上げると、リリカが立っていた。
ベージュのカーディガンに、ラベンダーグレージュの髪。学校帰りの制服姿のまま、片手に透明なカップを持っている。中身は黒いアイスコーヒーだった。
「……なんでいる」
「姫乃たちと来たの」
リリカは少しだけ後ろを見る。
店の奥の方で、姫乃が手を振っていた。心春も何か言っている。未羽は席を確保して、静かにこちらを見ていた。
いたのか。
気づかなかった。
「あたしもモカフラペチーノ好きなんだけどね」
リリカは自分のカップを軽く持ち上げる。
「今月、お金ないから今日はこれ。いちばん安いやつ」
アイスのアメリカン。この店でいちばん安いメニュー。
ミルクもシロップもなし。
「……せめてミルクやシロップでも入れたら?」
「いいの。ブラックで飲むの。……大人っぽいでしょ?」
リリカは少し笑った。
いつもの調子に見えた。
でも、少しだけ違う。
昼休みのことを引きずっているのが、俺にもわかった。
「依澄くん」
「なんだ」
「お昼、邪魔しちゃってごめんね」
リリカがそう言った。
俺は思わず眉を寄せる。
「謝られることなんてない」
「でも、あたしが図書室行こって言ったから、依澄くん困ったんでしょ」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「またそれか」
「依澄くん、顔に出るもん」
リリカは困ったように笑った。
俺はモカフラペチーノのカップを見下ろす。氷が溶けかけて、カップの外側に水滴がついていた。
「本当に謝ることじゃない。リリカは頼まれてたんだから、そっちに行けばいい」
「……そういう言い方、ちょっと寂しい」
小さな声だった。
カフェの中はざわついている。注文を呼ぶ声。カップを置く音。周囲の会話。いろんな音があるはずなのに、その声だけは妙にはっきり聞こえた。
「寂しいって」
「だって、追い払われたみたいだった」
「そんなつもりじゃ」
ない。
そう言いかけて、止まる。
そんなつもりじゃなかった。
でも、結果的にはそうだった。
リリカが俺の方を選ぼうとしたから、俺はわざと突き放した。自分が意識し始めたことを誤魔化すために、住む世界が違うのだと確認するために。
最低だな、と思った。
けれど、素直に謝る言葉が出てこない。
「……俺といるより、ああいう頼まれごとをしてる方がリリカらしいだろ」
代わりに出てきたのは、そんな言葉だった。
リリカは少しだけ目を細める。
「依澄くんが、あたしの“らしい”を決めるの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「……」
答えられない。
リリカは少しだけ黙ったあと、ふっと息を吐いた。
そして、俺の隣に一歩近づく。
近い。
カフェのテーブル席の横。人目もある。姫乃たちも奥の席にいる。なのに、リリカはいつものように距離を詰めてくる。
「依澄くん」
「なんだ」
「ちょっとだけ、耳貸して」
「嫌な予感しかしない」
「いいから」
「よくない」
「いいの」
リリカはそう言って、少しだけ身をかがめた。
耳元に、彼女の髪が近づく。
カフェの甘い匂いと、リリカの香りが混ざる。冷たい飲み物を持っていたはずなのに、耳にかかる吐息は温かかった。
「……悠生が嫌って言っても」
小さな声だった。
「私は、隣にいるよ」
心臓が止まりそうになった。
「だって、そこが私の指定席だから」
耳元で囁かれた言葉が、ゆっくり沈んでいく。
知っている。
第三巻の文化祭準備回。悠生が自分の失敗を気にして千沙登を遠ざけようとしたとき、千沙登が言った台詞だ。正確には、少し違う。リリカが、今の状況に合わせて少し変えている。
引用。
でも、ただの引用ではないように聞こえた。
俺はストローを握ったまま固まった。
「……それ」
「うん」
「また改変しただろ」
「した」
「だから、するなって」
「やだ」
即答だった。
リリカは俺の耳元から少しだけ離れ、悪戯っぽく笑う。
「今の依澄くんには、こっちの方が効くかなって」
「効かせるな」
「効いた?」
「……効いてない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「耳、赤いよ」
「元からだ」
「またそれ?」
リリカがくすっと笑う。
その笑顔を見て、胸がまた痛んだ。
可愛いと思ってしまった。
まずい。
やっぱり、まずい。
「リリカー、こっち席取ったよー!」
店の奥から、姫乃の声が飛んできた。
リリカは顔を上げる。
「はーい、今行く!」
そう返事をしてから、なぜか俺の方へ向き直った。
「じゃ、あたし行くね」
「ああ」
「でも、その前に」
「なんだ」
リリカは俺のモカフラペチーノをちらりと見た。
「ちょっとだけ」
「は?」
止める間もなかった。
リリカは俺のカップに顔を近づけ、ストローに唇をつけた。
そのまま、ほんの少しだけ飲む。
ストローから唇が離れる瞬間、彼女の口元にクリームの甘さが残ったように見えた。俺は完全に固まる。
今、何をした。
いや、見ればわかる。
俺の飲み物を飲んだ。
俺がさっきまで使っていたストローで。
「……甘い」
リリカは満足そうに笑った。
「やっぱ、モカフラペチーノいいなぁ」
「お前」
「なに?」
「それ」
「ん?」
「ストロー」
「あ」
リリカは今さら気づいたみたいに目を丸くした。
絶対に嘘だ。
この顔は、気づいていてやった顔だ。
「ごめん。飲んじゃった」
「軽いな」
「だって、依澄くんのならいいかなって」
「よくない」
「ほんとに?」
「……」
答えられなかった。
答えられない自分が、本当にまずい。
リリカは楽しそうに笑う。それから、少しだけ身を引いた。
「明日のお昼も、図書室でね」
「勝手に決めるな」
「来ないの?」
「……」
来ない。
そう言えばいい。
言えば、少しは距離を取れる。
けれど、リリカはまっすぐ俺を見ている。からかうようで、でも少しだけ不安そうな目だった。
「……行く」
結局、そう答えてしまった。
リリカはぱっと笑った。
「うん」
その笑顔を見ただけで、昼休みに自分が突き放したことを、少しだけ後悔した。
リリカは姫乃たちの席へ戻っていく。
奥の席では姫乃がにやにやしている。心春が両手で口元を押さえて騒ぎ、未羽は俺のモカフラペチーノを見て、何かを察したように目を細めていた。
俺はカップを見下ろす。
ストロー。
さっき、リリカが口をつけたストロー。
飲めるわけがない。
そう思った。
思ったのに、カップを捨てることもできない。
俺は窓の外へ視線を逃がす。駅前の通りを、制服姿の生徒たちが歩いていく。リリカは奥の席で、姫乃たちに囲まれて笑っている。
やっぱり、住む世界が違う。
そう思う。
でも、耳元に残った声が消えない。
私は、隣にいるよ。
そこが私の指定席だから。
あれは千沙登の台詞だ。
俺が書いた、恥ずかしいくらい甘い黒歴史ラノベの台詞だ。
それなのに。
リリカの声で囁かれると、どうしてこんなに苦しくなるのだろう。
俺はカップを持ち上げた。
ストローには、まだリリカの気配が残っている気がした。
飲むべきではない。
絶対に飲むべきではない。
そう思いながら、俺はほんの少しだけ、モカフラペチーノを口にした。
甘かった。
さっきよりも、ずっと。
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リリカと依澄のやり取りを楽しんでいただけましたら、
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また次回、二人の放課後にお付き合いください。
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