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僕が僕を捨てた日、鏡が笑った ~鏡の中の僕に居場所を奪われる話~  作者: 都桜ゆう


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第六章:鏡階段の現在

 翌日の朝、結城はこれまでにないほど清々しく、透明な気分で目を覚ました。

 意識が浮上した瞬間から、心身が羽が生えたように軽い。これまでの人生を支配していた、泥のように重く粘りつくような倦怠感は、細胞のひとつひとつから跡形もなく洗い流されていた。


 カーテンの隙間から差し込む朝日は、かつての彼が感じていたような、一日が始まることへの重圧や、どこにも逃げ場のない焦燥感を一切含んでいない。

 ただ純粋に、新しい世界の到来を祝福する無垢な光として、部屋の隅々までを優しく、それでいて残酷なほど鮮やかに照らし出している。


 彼は迷いのない動作でベッドから起き上がり、シワひとつなく完璧に整えられた制服に袖を通した。

 鏡の前でネクタイを締める指先は、難解な旋律を奏でるピアニストのように滑らかで、正確だ。


 鏡の中に映る結城は、微塵の不安も、一滴の淀みも、自己嫌悪の影すら感じさせない。そこには、周囲の期待を一身に背負い、それを知性と余裕で軽々とこなしてみせる理想的な少年の姿が、非の打ち所のない完成度で立っていた。

 

「おはよう、母さん」

 

 ダイニングキッチンへ下りると、母親が楽しそうに鼻歌を歌いながら、湯気の立つ朝食を並べていた。


 かつての結城を内側からじわじわと苛んでいた、あの腫れ物に触るような、あるいは過剰な期待と深い諦めが混ざり合ったような母親の視線は、今やどこにもない。

 彼女の澄んだ瞳に映っているのは、自慢の息子に対する全幅の信頼と、満ち足りた愛情、そして一点の曇りもない幸福だけだ。

 

「おはよう、結城。今日は早いのね。昨日の夜、あんなに遅くまで勉強を頑張っていたのに、疲れは残っていない? あんまり根を詰めすぎちゃダメよ」


「全然。むしろ、これまでで一番調子がいいくらいだよ。霧が晴れたみたいに、頭が冴え渡っているんだ」

 

 あいつ――今や結城という記号と肉体を完全に乗りこなし、最適化している存在は、母親が焼いたトーストを一口食べ、満足そうに微笑んだ。


 食卓を囲む空気は、春の午後のように穏やかで、幸福に満ちている。

 かつてこの場所で、重苦しい沈黙に耐え忍び、皿の上の料理さえ砂を噛むような味に感じていた、あの灰色の少年など、最初から存在しなかったかのようだ。

 世界の歯車は、あいつが結城として入り込んだ瞬間に、最も効率的で心地よい回転を始めたのである。

 

 家を出て学校へ向かう道すがら、結城は彼を取り巻く世界が、わずかに、しかし決定的に改善されていることを確信していた。


 通学路ですれ違う近所の人々が、以前は会釈すら交わさず、無意識に目を逸らしていたのに、今朝は向こうから「おはよう、今日も頑張ってね」と朗らかに声をかけてくる。

 街路樹の緑はより深みを増し、空の青は網膜に刺さるほど鮮やかだ。

 まるで世界というシステムそのものが、優秀な管理者である結城という存在を熱烈に歓迎し、その居心地を良くするために、現実の細部をひとつずつ丁寧に、リアルタイムで調整し直しているかのようだった。

 

 学校に着くと、クラスの空気は劇的な変化を遂げていた。

 教室の扉を開けた瞬間、いくつもの視線が結城に集まった。それは親しみのこもった、心地よい、羨望と好意の混ざった視線だった。


 彼が足を踏み入れるだけで、教室内の温度がわずかに上がったかのような、熱を帯びた歓迎の気配がそこにはあった。


「よお、結城! おはよう!」


 田中が満面の笑みで駆け寄ってきて、親しげに、それでいて少しの敬意を込めて肩を叩いた。今や結城となったあいつは、友人としての完璧な表情と声音で、淀みなくそれに応える。


「おはよう、田中。今日は早いな。珍しく予習か?」


「へへ、まあな。お前があんまりキラキラして登校してくるからさ、俺も少しはシャキッとしないと置いていかれそうな気がしてさ」


 その後ろでは、佐々木が友人たちと楽しそうに笑いながら、こちらをチラリと見て、頬を染めながら小さく手を振った。


 昨日までの彼女が抱いていたはずの迷いや違和感は、その眩い輝きの中に跡形もなく溶けて消えている。

 今の彼女の瞳に宿っているのは、一人の魅力的な、手が届かないほど眩しい異性に対する、確かな憧憬と好意だけだった。


 本物の結城が、胃を焼くような思いで憧れ、血を吐くような努力をしても決して届かなかったすべてが、今や呼吸をするのと同じくらい自然に、あいつの手元に転がり込んでいた。


 世界は、正しい主を迎え入れたことを祝うかのように、結城という存在がかつて流した涙の跡さえも、光で塗り潰していく。 

 あいつは、そのまばゆい光景を網膜に焼き付けながら、自らの完全な勝利を確信した。もはや、この世界のどこにも以前の結城を繋ぎ止める楔などは残っていない。それを証明し、完全に断ち切るための仕上げが必要だった。


 あいつは、傍らで上機嫌に笑っている田中へ、まるで今思い出したかのような気軽さで、ふと、思い出話をするふりをして問いかけた。


「そういえばさ、例の鏡階段の噂。最近どうなったんだ? 掲示板とか、まだ盛り上がっているのか?」


 あえて振ったその問いに、田中は心底不思議そうな顔をして首を傾げた。


「……鏡階段? 何だそれ。鏡の幽霊か? 出るわけないじゃん、そんなの。この学校、変な怪談なんてひとつもないのが売りなんだから。お前、寝ぼけてるのか? それとも新しいジョークかよ」


 二人の会話が耳に入ったのか、友人たちといたはずの佐々木が、弾んだ足取りでこちらに歩み寄ってきた。

 彼女は不思議そうに、しかし軽やかに鈴を転がすような声で笑う。


「そうだよ、結城君。何それ、聞いたこともない。うちの学校、七不思議すらないくらい平和なのが退屈なくらいなのに。変なこと言うのね」


 数日前の放課後、あんなに熱心にスマホの画面を見せ、怯えたような表情で噂を共有していた彼らの瞳には、嘘をついている気配など微塵もなかった。

 あいつが完璧な結城としてこの現実に深く、強固に根を下ろした瞬間に、本物の結城が怯え、翻弄されていたあの噂は、最初から存在しなかったことに書き換えられているのだ。


 もはや、無自覚な一般生徒の中に、鏡階段を意識する者など一人もいない。怪異の入り口は、新たな主である結城の手によって、内側から完全に閉ざされ、不可視化されたのである。


 だが、それは終わりを意味してはいなかった。むしろ、かつての結城という澱を排し、あいつという完成された個体を定着させるための、一つの儀式が完了したに過ぎない。


 あいつは知っている。

 この世界という巨大な生き物が、その美しさを保ち続けるためには、歪みを抱えた存在を定期的に間引き、より鮮やかな生を補充し続けなければならないことを。


 事実、あいつがこの世界に馴染むにつれ、かつての結城が彷徨った場所は、まるで最初から忌まわしい場所であったかのように変貌を遂げていた。

 つい先日まで誰もが通り抜けられたはずの階段は、今や老朽化を理由に固く閉ざされ、立ち入り禁止の看板が掲げられた死に体の空間となっている。


 昼休み。

 あいつは中庭のベンチで、誰からも一目置かれる完璧な優等生として昼食を摂りながら、その世界の修正が正しく行われたことを確認するように、静かに視線を走らせた。

 

 眩い陽光の下、賑わう生徒たちの喧騒を、まるで精巧な模型を眺めるような心地で聞き流す。その穏やかな風景の端に、あいつの瞳は、ある一つの不純物を捉えた。


 一人の下級生――佐伯という名の、どこか影のある、伏せ目がちな男子生徒が、所在なげに旧校舎の方を眺めている。


 彼は、かつての結城が持っていたものと同じ、世界に対する強い疎外感と、自分を消し去ってしまいたいという切実な渇望、そして、ここではないどこかへ縋りたいという危うい願望を瞳に宿している。

 彼は周囲を何度も、怯えるように気にしながら、立ち入り禁止の看板が立てられた古い階段の方へと、何かに吸い寄せられるようにフラフラと足を進めていく。


 あいつは、その光景を遠くから、冷徹な観測者のような、あるいは工場のラインを眺める技師のような瞳で、静かに見つめていた。

 次に誰が選ばれ、誰がシステムから排除されるのかを、あいつはすべて知っている。

 

 佐伯が旧校舎の二階から三階へと続く踊り場、もはや陽の光も届かず、カビと静寂に支配されたその空間に辿り着いたとき。

 そこには、本来あるはずのない巨大な姿見が、踊り場の壁を背にして二枚、正確に向かい合わせの状態で置かれていた。


 埃にまみれたはずの場所で、その青白く光る鏡面だけが、周囲の闇を際限なく吸い込み、互いを映し合うことで無限の奥行きを作り出している。 


「なんだ、これ……こんな場所に、こんなに大きな鏡なんて……」


 佐伯は、自分の意志とは無関係に震える足に導かれるように、鏡の正面へと歩み寄った。

 鏡の中に映る、自分自身の姿。しかし、その背後に広がる風景は、現実の薄暗い廊下とは何かが決定的に違っていた。

 鏡の中の世界は、現実よりもずっと鮮やかな色彩に溢れ、希望に満ちた暖かい夕刻の光に満たされていたのだ。


 佐伯が息を呑んで鏡を覗き込むと、鏡面のすぐ裏側――現実と最も近い一等席には、一人の灰色の人影がへばりついていた。

 それは、あいつに追い出され、この場所から消えかけながらも必死に縋り付いていた本物の結城の成れの果てだった。彼はもはや顔の凹凸さえも鏡の破片に同化しかかった、半透明な残骸に過ぎない。


 その時、残骸の背後から、非の打ち所のない笑顔を浮かべた鏡の中の佐伯が音もなく現れた。

 この偽物の佐伯は、場所を空けろと言わんばかりに、目障りなゴミを払うような乱暴な仕草で、結城の残骸を一等席から突き飛ばした。


 無惨に突き飛ばされた結城と入れ替わり、鏡の表層(ひょうそう)を占拠した鏡の中の佐伯。そいつは、外で呆然と立ち尽くす佐伯をじっと見つめ、優雅に、慈愛に満ちた聖者のような仕草で手を差し伸べた。


「……君も、僕と同じになれるよ。君なら、もっとうまくやれる。君が持て余しているその人生を、僕なら正しく管理してあげられる。さあ、こちらへおいで」


 その瞬間のことだ。鏡の奥の空間が、光さえも飲み込む底なしの深淵へと変貌し、佐伯の視界がぐにゃりと万華鏡のように歪んだ。


 反射が幾重にも重なり、時間さえも凍結した奈落の果てへ、先ほど弾き出された結城の残骸が、今度こそ深く引きずり込まれていく。

 もはや誰にも認識されず、世界から完全に消去された少年の、無惨な可能性の死骸だ。

 鏡の表層を鏡の中の佐伯の像が占拠し、その背後の深い闇へと、結城の姿は塗りつぶされるように、急速に遠ざかっていく。


 血の涙を流し、爪が剥がれた指で虚空を掻く結城は、音も立てず、ただ必死に何かに抗うように、あるいは叫びを上げようとするように唇を震わせ続けていた。

 助けを求めているのか。鏡を覗く新たな犠牲者に、逃げろと警告しているのか。あるいは、自分を捨てた世界を呪っているのか。

 

 しかし、彼の喉から漏れ出たはずの言葉は、分厚い、物理法則さえも無視した鏡の隔壁に阻まれ、一音たりとも現実の世界へは届かない。

 現実の世界では、偽物の佐伯が、鏡の外にいる本物の佐伯の手を、温かい感触を持って優しく握りしめていた。


 その光景の背後、もはや誰の視界にも入らぬほど遠く、暗く、冷たい鏡の底で、奥に沈んでいくかつての結城は、最後に、自分と入れ替わるようにして奈落へ引きずり込まれてくる現実の佐伯を、濁った瞳で見上げた。


 自分と同じように、自分を捨てた世界に絶望し、甘い偽物の誘いに乗ってしまった哀れな犠牲者。

 結城は、今まさに自分と場所を入れ替えて消去される男に向かって、声にならない言葉を投げかけた。


「……次は、お前の番だ」


(お前も、僕と同じように、誰にも気づかれず、永遠の闇に沈むんだ)


 その唇の動きが止まった瞬間、すべてを飲み込み終えた鏡は、役目を終えたかのように音もなく消失した。

 旧校舎の踊り場には、ただ、埃を被った立ち入り禁止の看板と、虚無的な静寂だけが残された。


 同時刻。中庭のベンチで、あいつは空を仰ぎ、満足げに目を細めた。

 遠く旧校舎の方から届いた微かな空気の震えが、新たな入れ替えの完了を告げていた。

 かつての自分を完全に消し去り、この世界を偽物たちで埋め尽くしていく、連鎖の確信。


 今日から始まる、自分の、いや結城としての輝かしい未来。

 彼が手に入れた完璧な人生という名の舞台の上で、偽物は本物よりも美しく、誰よりも本物らしく、踊り続ける。


 鏡階段の噂は消え、世界は正しく、美しく、そして致命的に上書きされた。


 ――僕が僕を捨てた日、世界は初めて、正しく回り始めたのだ。


(C),2026 都桜ゆう(Yuu Sakura).


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