其之貮 因縁の対決、五行を操り雪辱を果たせ 之巻
俺の名前は武蔵。だが今日の俺は一味違う。いや、確かに違うんだけど、悪い意味で。
「おいこのダラ。今出雲が寝込んでるのは誰の所為だ?」
「俺の所為デス」
「殊勝な答えじゃな。んじゃ、そのダラは何をしたんだべさ?」
「地主の家の兵糧を盗んで来ました。報酬に納得がいかなかったので」
「ちんちんかいて土下座せんかオラァ!」
「すんませんでしたー!」
日向の渾身の踵落としが、俺の頭を直撃し、物理的に土下座させた。その背中に種子島が乗っかり、両手で肩たたきでもするかのように殴りつけてくる。
「五獣呼び出すのって、すっごい大変なんだぞ! しつこい忍までいて、この越佐州まで逃げて来るのにどれだけ出雲が消耗したと思ってんだよー!」
「わ、悪かったって! でもどうしても精進料理とか山菜とかじゃ駄目だったんだよ! いくら春先だからって山菜だけとか無理! 寺にある饅頭だけでも食いたかったんだ!」
「仏さまに奉げる神聖な食いモン盗む罰当たりがどこにおんじゃこのボケナス!」
「ふががががっ! やめれ、鼻血が……」
「おめさんの鼻の骨折って取り出して骨髄でもしゃぶってみるか? ああん?」
「止めて死ぬ」
と、言う訳で、今日から一週間、俺は絶食することになった。
===
粟だの稗だの蕎麦掻きだのと言っても、飯食ってる場所や匂いがあったら腹が益々減ると言うものだ。そんなわけで、俺は出雲が寝込んでいる山小屋より、少し深まった所まで行って滝行だ。この滝は冷たすぎて魚が棲んでいない。ちぇっ。まあ、修行の邪魔になるんだからいいんだけどよ。行着なんざ持ってねえから、取りあえず褌一丁になって、滝に手を合わせ、深々と礼をする。そう言えば、随分やってなかった気がするな。
「唵阿毘羅吽欠蘇婆訶、聞き給え為し給え見届け給え。我はその威に従うもの、我はその威を携えるもの。この身この腕この肉体の気が枯れ果てたらば我に与えたまえ授けたまえ賜り給う。この身この腕この肉体に邪鬼悪鬼巣食いたらば祓い給え清めたまえ救わせ給う。我は阿毘羅吽欠の威を借り正邪を定めるもの。聞き入れ給え為させ給え看取り給え。我は摩訶毘盧遮那の名の下に阿毘羅吽欠の威を借り此を行使する者なりや」
バチィン!
「熱ゃちゃちゃちゃー! な、なんだぁ?」
突然、あんなに冷たかった水が、一気に熱くなった。硫黄でも流れ込んでんのか? あー、あっついあっつい、こりゃ禿げちまうぞ。取りあえず土を塗り込めて、頭を冷やす。んで、そのまま前のめりにつんのめって、頭っから川の中にどぼん。俺の座っていた場所を斬りつける老骨がいた。腕の立つ武者と分かるが、無駄に事を構えることもねえな。
「あいっててて、お侍ぇさん、鍛錬に精が出てんなあ。俺ァ駄目だ、居眠りして川にすっとんとんだ。んじゃ、鍛錬頑張ってなー」
…………で、誤魔化してくれるような爺さんじゃないことくらい分かってんだけどな。
雷光丸の鞘をちょいと動かして、背中から斬りかかる爺さんの刃を弾く。爺さんは、人間とは思えないような軽やかさで、細い川の対岸に飛び降りた。
「お前。……何故、生きている?」
「あん?」
なんだこの爺さん。耄碌してる割には動きにキレがある。何だってンだ? でもまあ、誰かと勘違いしてんだろ。狐に化かされたに決まってら。だってよ、年柄年中腹を空かしてる化生なんざいる訳ねえだろ? 俺が腹減るのは、何より生きてるってぇ証拠よ。
「悪いけど爺さん、俺、刀使えねえんだよ。この下げてるのはお飾りでね。決闘なら余所でやってくれや。俺は単なる根無し草の旅人さ。んじゃ、気張れよー」
こんな面倒くさい輩とは、とっととおさらばに限る。伊達に日向と種子島に追いかけられてねえんでね。俺はさっさとそこからトンズラさせてもらった。
……と、思ったんだけど、この爺、伊達に刀振ってねえ。足腰も丈夫だ。距離こそ縮まねえが、離れもしねえ。カサカサ草履の音を立てて、森を駆ける俺についてくる。どうせ切り結ぶなら、師範の姉さんが良いってもんよ。でも不味いな、その内種子島辺りがひょっこりと出て来ちまいそう――。
「あ! 武蔵! 日向ー! 武蔵が戻って来たよ! 食べ物隠して!」
「馬鹿! 逃げろ種子島!」
あの猿、俺の後ろに人が居んの気付かねえとか、それでも田力かよ! きょとんとしている種子島を脇に抱え、とにかく走る。種子島そこで漸く、俺を追いかけてくる爺の存在に気付いたようだった。鈍間め。
「うわ! 何あの爺さん、すっごい速さで追いかけてくる! 距離がどんどん縮まるよ!」
「そりゃテメーを抱えてるからだこのアホ! 分かったら自分で走れ! あの爺、耄碌通り越してイカれてやがる! まともに戦り合ったら首が吹っ飛ぶぞ!」
「ぎゃー! おいら走る! 走る走る走る!」
するんっと小脇から抜け出して、二人で全速力で走る。あああ、ったく、しつけえ! とうとう峠の滝の上まで来ちまったじゃねえか! そんなに俺と斬り結びてえか、上等上等、なら相手になってやる! 後悔したって遅いぜ!
「種子島。あの爺の相手は俺がする。念のため日向と出雲を避難させてくれ」
「分かった!」
種子島は臆する事も無く、崖を飛び下りた。俺が振り向くと、爺は少し息を乱しながらも、居合の構えを取っていた。でも正直、人間と斬り合うの、好きじゃねえんだよなぁ……。
「爺さんよぉ、何を勘違いしてるか知らねえが、そんなに足腰丈夫なら、家で畑仕事でもしてた方が絶対有意義だって。腹も膨れるしな。さ、帰った帰った」
って言って、帰ってくれンなら、何もこんな滝の崖っぷちまで来ねえんだよなぁ……。
問答無用で斬りかかってくる居合切りを、雷光丸の鞘で往なす。爺はその勢いを殺さず、振り向き様に首を狙ってきた。後ろに足踏みをしてそれを避ける。爺は俺を急流に落とそうと斬りかかって来るが、そんなもん、一々相手にしてられっか。ひょいと躱して、背中を蹴り飛ばす。爺は寸での所で踏みとどまり、また斬りかかって来た。速い。咄嗟に抜刀して、鍔と鍔を合わせて競り合う。この爺、一体いくつだ? すげえ力だ! このままだと鍔が斬りおとされる……っ! 妖刀の雷光丸の鍔がガタガタいってやがる。何モンだこの爺! こんな感覚は久しぶりだぜ! 滾るじゃねえか! 俺にケンカ売るだけ――。
「…………っ!」
ハッと驚いて、思わず鎬を削り上げ、一瞬の隙を突き鞘で爺を滝壺に叩き落とした。気が抜けて、ついでに腰も抜ける。そんなに大した時間じゃねえ。ほんの蕎麦掻き一杯食うくらいの時間だ。だけどそれだけ消耗した。とんでもねえ爺だ。多分、滝壺に落ちても泳いで俺を追いかけてくる…………。
――あの時。雷光丸の鍔が軋んだとき、俺は確かに見たんだ。爺の刀、下の方からどんどん霜が生えて行った。花冷えならもう過ぎたと言うのに、まして雷光丸の雷の熱を持ってしても溶けない氷…………。あの爺も妖刀使い、なのか?
そう言えば、あの爺、俺に見覚えがあるみたいだったな。確かに切り結んだ時、何となく既視感はあったんだ。どこだったかな。でもたしかに戦りあった、それは間違いない。
でも俺、ここ数年、人と戦りあっちゃいねえぞ。盗人は人のお命まで――あ、あれ?
「武蔵!」
あまりのことに震えそうになっていると、矢のような日向の呼ぶ声がして振り向いた。物凄い勢いでこっちに迫って来るが、怒ってはいない。
「加勢に来たんが――もう終わったにき、大丈夫そやな」
「ビックリしたんだよ! あのお爺ちゃん、眼がイっちゃってたもん!」
「あ……ああ、ありがと……よ…………」
声が震える。何だろう、何だか足が冷てぇ。それに、何だか目の前がくらくらと…………。
その時、日向が胸に刃物を持ってるのに気が付いた。自害用の刃か! ふざけんなッ!
「何持ってやがんだ!」
「きゃっ!」
「自害なんて許さねえぞ……。俺が護るって言って出てったんだ! 自害なんざ許さねえ! 俺は『参る』なんて今まで一言も言ったこたねえんだ! 待ってろ、あの爺を殺してやる!」
今までにないくらいに血が滾っていた。あの女が何か言ってる。何か叫んでる。全部全部ぜんぶぜんぶゼンブゼンブあの爺が戦なんざ吹っかけて来たからだ! 刀と首を圧し折って、耳を削いでやる! ガキが一人脚に纏わりついていた。
「邪魔すんなクソガキ!」
鞘でガキの頭を薙ぎ飛ばして、爺を追って滝壺に飛び込む。真っ直ぐに飛び込めば、腕を痛めねえんだ。
――んっ?
「雷光丸ッ! 『金雷』!」
雷光丸を突き出し、使命を与えると、雷光丸は雷で目の前の水面を叩き割った。途端に、凄まじい蒸気が吹き上がる。危なかった、水面が凍ってたんだ! あの爺の刀、霜が降りてた…………。あの爺の仕業だな。極寒の滝壺に落ち、氷によじ登って鼻を鳴らす。あの爺の刀の匂いがするんだ。近くに居て、俺と事を構える為に殺気を放っている。
そんなに死に急ぎてえなら、ここから消し飛ばしてやる!
「行くぞ雷光丸、最ッ高の『金雷』をお見舞いしてやれーェッ!」
俺が振り上げ、振り下ろしたその一撃は、真っ直ぐ稲光を放ち、大地を抉り、木々を薙倒し、川の流れを変えた。鷹のようになった俺の眼は、闘志を絶やすことなく、寧ろ何か使命感すら覚えて此方に突撃してくる爺を捉えた。自分でも不思議なくらいに、足に力が入り、砂を蹴り飛ばしてそいつに向かっていく。バリバリと煩い細かい雷が、風を吸い込んで大きくなっていく。爺が迫る。抜刀に合わせて雷光丸を振り下ろすと、細かい雷は爺の刀を絡め取り、弾き飛ばして砕いた。だが爺はまだ刀を隠している。こいつが、さっき凍り付いていた刀だ……!
「この太刀の重み……。お前、やっぱり生きていたんだな?」
「耄碌してんじゃねえ爺!」
何だか知ったふりをした爺に、もう一度雷光丸を振り落とそうとすると、爺は素早く俺の親指と首筋を切り上げた。だがそんな殺気のない攻撃は当たらない。力尽くで雷光丸を振り下ろそうとすると、鎬と鎬の間に、バリン、と、何か固い音がした。まずい、と、離れると、雷の熱の中でも溶けない氷が張りついていた。
「きちんと殺して絶やしたつもりだったが……。これも因果か、もう一度お前とは切り結びたいと常々思っていたからな。物の怪の類であろうと、お前が相手なら不足はない」
「何をガタガタ抜かしてやがる! テメェ何モンだ!」
決闘の場で相手が誰だか分からない事に苛々して、雷光丸を突き付けた。爺は笑った。
「『氷点丸』…………。人はそう呼んでいたし、今も呼ばれているよ」
グラリと頭が揺さぶられる。何だ? 動揺することも眩暈を起こす事のほどでもない。腕に覚えのある人間に通り名があるのは当たり前だ。俺だってそんな名前を持っていた。
なんだ? 身体が動かねえ。爺が一気に間合いを詰めて、雷光丸に垂直に刃を当て、薙ごうとした。刀の雷と氷が拮抗し、俺が力を籠め、競り勝とうとすると、刃が砕けた。
「うわあああっ!」
砕けたのは俺の刀だった。反動で吹き飛ばされる。バカな、何で? 紛い物じゃねえ、キチンと俺の知ったカミさんに名づけられた妖刀なのに! 唯の妖刀に負けた……?
「持ち主を護れない刀など、妖刀だろうと名刀だろうと怖くはない……。あの時も、私はそう言った。……ミヤモトノヤミノカゲタカ殿」
「うるせぇ……! このクソガキが……っ! 粋がってんじゃ……ねえぞ!」
とは言ったものの、反動で体が動かない。全身を強く打ちつけたみたいだ。胸が苦しい。
「残念……とても残念。昔より弱くもなっている。ミヤモトが潰れたのは天命だったんだな」
うるせえ、うるせえうるせえうるせえ! こんなガキに良いように言われてたまるか! ああだけどだけど、身体が動かねえ。畜生、刀が折れたなら奪えばいい、それなのに動かねえんだよ。動けねえんだよ。畜生、畜生、畜生!
「今度こそ、貴方を討って、ミヤモトを潰させてもらおう。城下の平安を担うのは、ミヤモトのような呪い頼りの剣じゃない。己を磨き、腕に肉を付けた本物の剣術だ」
爺がそう言って刀を振り上げたその時、刀を何かが弾いた。石だ。森の中から、女が走ってくる。女が何か言ってる。子連れか? こんな場所で何してるんだ? 爺の娘か何かか? 否違う、爺は刀を女と子供に向けた。女が小さな刃物を構える。
馬鹿じゃねえの、俺。何やってんの、俺。そこにいるの、日向と種子島じゃねえか!
「おい、クソガキ、勘違いするんじゃねえぞ……」
関節は殆ど動かない。それでも利き腕をどうにか伸ばした。
「その首を先に落としておいた方がよさそうだ……」
クソガキが近づいてくる。俺は構わず口にした。
俺がカミさんに認められた武士なら。俺の言霊が本物なら。俺の道場が確かなものなら。
「唵阿毘羅吽欠蘇婆訶、我が名我が身を憑代に、摩訶毘盧遮那の名の下に命じる。我は摂理を従える者なりや。然るに我が腕我が手中にその万象を与えよ! 来い! 『雷光丸』!」
俺の掌に雷が落ちた。俺はそれを握る。金属をも融かすような灼熱を握りしめると、全身に力が漲って来た。クソガキの刀が、空に高く弾かれる。その刀を奪い、握りしめる。ミシミシと音を立て、刃が伸びる。氷の刃だ。俺は両手に焼けつく妖刀を携え、走った。
「刀ってのは、武士が護るべきものを護るためにあるんだクソガキがぁぁぁぁぁーっ!」
バッサリと、二本の妖刀がクソガキの身体を真っ二つにした。走った勢いを殺せず、俺は刀を投げ捨て転がる。クソガキは絶命するわずかな間、高らかに笑った。俺の手の中からすっぽ抜けたのは、柄だけになった雷光丸。それから、皹の入った打ち刀だけだった。その刀も、ボロリと折れてしまった。けれどもその刀身は、ビキビキと氷が生えて行った。大した妖刀らしい。戦利品に貰っとくか。これは氷の刀か。なら持ち主との戦いを忘れないように、こいつは氷点丸と名付けよう。俺は落ちた鞘にそれを納め、脇に挿した。
「武蔵! おい武蔵! 大丈夫か!」
「あん………ああ、日向か、……へへへ、結構格好良かったろ? ……ちょっと、疲れた……」
なんか、マジでドッと疲れた。身体に力が入らねえ。情けねえなあ、と、思っていると、日向はよいしょと俺を抱き起こして、ぎゅっと抱きしめた。
「格好いかったけれどげんか、無理するわーうなこつだけはしなんな。体大事にして。わいはわやに元気でいてほしい。いつもんごつにバカやってほしい」
「え……ひゅ、日向?」
おい、おいおいおい、何で泣いてるんだよ。俺、今結構頑張って二人を助けた心算だったんだけど? え? 何で泣いてるの?
その時、日向の背中の向こうで、真っ二つになった筈の爺の上半身が立ち上がり、刃毀れした刀を構えて襲い掛かって来た。慌てて日向を突き飛ばし、白刃取りで刀を奪う。その刀でもう一度真っ二つにすると、そこからむくむくと肉が湧いて、爺が二人になった。
「斬っちゃダメ武蔵! 斬一倍だ!」
森の中から種子島が叫んで、何か鳥を捕まえて走って来る。鶏だ。嘴を押さえて、小脇に抱えて走って来る。一度目に切った爺の下半身が森に入るのと入れ違いに、種子島が鶏の口を開く。鶏は暴れて激しく鳴いた。それを聞くと、爺はぐにゃぐにゃと身体を曲げて、煙になって消えちまった。よいしょ、と、種子島は鶏を押さえつけて潰し、血抜きをする。
「ついさっき、出雲がやっと目が覚めて、あのじーさんの話をしたら、ニワトリを鳴かせればいいって、教えてくれたんだ。で、麓の武家屋敷から一羽分けて貰ったの。こっそり」
「お、おう……。やっぱりあン爺、唯の耄碌爺じゃなかったんだな」
「出雲は、なんか不思議そうな顔してたけど、今回はよく働いたし、武蔵にはニワトリくらい食べさせてあげようよ。ね、日向?」
「んだな。武蔵、ようやったけ――」
その時、バサッと大きな翼が俺達の上を通った。朱雀に出雲が乗っているらしい。それから何人かの足音がやって来る。…………嫌な予感。
「おい種子島、お前、鶏どっから持って来たっつったっけ?」
「麓の武家屋敷」
「ちなみにどこから入った?」
「塀の上から」
「ちなみにどんなふうに持って来たんだっけ?」
「こっそり」
慌てて三人で朱雀の背中に飛び乗り、その場を舞い上がる。森から忍だか浪人だかが、きょろきょろして、弓矢を番える奴もいたけど、矢は途中で燃え尽きちまった。
「ばっきゃろうこの猿! なんでこうなるんだよ! どーしてお前っつーのはこう、何でもかんでも足跡残して勝手に失敬とか言って盗んで来んだよ情報でも食いモンでも!」
「お寺の食べ物盗んだ奴に言われたかないやいっ!」
「おみゃーら同罪じゃボケ!」
「皆……。お願いだから静かにして……。僕まだ辛い……」
出雲はそう言うと、朱雀の項に小さくなって眠りこんじまった。俺は日向に、種子島と額をガツガツぶつけられて、もう頭はくらくらだ。あー、もう駄目、疲れたし痛ぇし、あー、気絶しちまう……。まあいいや、俺も寝よう。
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「うわあああっ!」
剣を弾かれて、思わず尻餅を付く。目の前で真剣を握った女が、凄い形相で睨み下ろしてくる。この人の剣と兵法は実に優れているが、それだけにその道は厳しい。
「貴様! それでもミヤモトを名乗る男か! 前回と変わらんではないか。フケンインから来るウネと吾への敬意が足りん!」
「申し訳ありません、飯篠様」
「今日はここまでにしよう。……時にヒエイマルよ。桐姫に聞いたが、貴様、先だっての茶の席で、わざと作法を破り茶の席を騒がせたとか?」
「はい。若様を侮辱する輩がおりましたので、その場で決闘を申し込もうとしたのですが、飯篠様の平和の兵法を思い出しまして、その者を一方的に怒らせて退席させました」
すると女はゲラゲラ笑い、自分の肩をバシバシと叩いた。
「はっはっは! 剣は立たなかったが兵法は覚えておったか! よろしい、そろそろウネも限界だ。吾も戻るとしよう。鍛錬と勉学を怠けてはならんぞ!」
「はい、飯篠様」
女はすっと目を閉じ、そのまま腕に頽れた。彼女を横抱きにし、進み出て来た下男に世話を任せる。汗を流し、ついでに滝行をやって来ようと、行着に着替えに行った。その時廊下で、先程話題に出た『若様』が、彼の妻になったばかりの姫を伴って歩いてきた。
「ヒエイマル、もう鍛錬は終わったのか? いつもは夕方まで稽古をつけていように」
「産褥が明けてすぐにいらして頂いたので、あまり時間が取れなかったのです」
「そうか、跡継ぎが生まれたんだったな。イガ流の中でも最も力のあるアズマウミ家さえ我々ヤミ家に味方してくれていれば、ミヤモトも安泰だ」
「作用にございます。……それに、ヤミ家には、このヒエイマルがおります故、このヤミ家と、お仕えするヒカリ家の弥栄をお約束いたします」
「実に頼もしい。最近この東山道の各地で、反乱の種が撒かれていると草から聞いている」
「ご安心くださいませ。このヒエイマルが身命を賭して御守り申し上げます」
「だが無理はするな。お前のことを、私は軽んじたことはないと言うことを忘れるな」
「有難きお言葉にございます。……では、滝行に行ってきます」
終始黙っていた姫は、小さく会釈して、夫と共に城の中を歩いて行った。雪国の僅かな夏の日差しが眩しいあの頃が、一番平和だったのだろう。まだお互い本当のことは、何も知らなかった。
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くしゃみをして目が覚めた。大分眠っていたらしい。周りはもう暗く、獣避けの火が焚かれていた。どこか山の中に逃げ込めたようだ。日向が顔を上げる。
「やーっと起きたか、このダラ」
「ん、よく眠れた」
「眠ったなんてものじゃねえど。またうっ死んじまったんじゃねえかって、出雲が心配する位何しても起きゃあせん。出雲もまだ本調子でねえし、種子島はまだ子供だし――」
「わかったわかった、わかったから。番は俺がするよ、日向ももう寝ろ」
日向は俺の調子が戻ったのを確認したからか、少しほっとしたような顔で目を閉じた。
…………。よし。
俺は音を立てないように、種子島が枕がわりにしている風呂敷の山の一つに手を伸ばした。ここに、先の戦いの時の鶏肉の干したのが入ってる筈なんだ。そーっと手を伸ばし、風呂敷を持ち上げ――た、途端、凄い勢いで宙づりになった。
「ちぇっ! こんなこったろうと思ったよ! あー、くそっ! 腹減ったぁーっ!」
俺の魂の叫びは、山に空しく響いていったのだ。俺が翌朝まで宙づりで寝る羽目になったのは言うまでもない。