傾く天秤
アルはアニエスの様子を見に行った。
仰向けになった彼女はまだ意識が戻っていないようだ。ユゼフとバージルが簡単な手当をしていた。意識が戻らないのか、寝言のように何か小さい声で言うだけだ。
アルはしゃがみ込んでアニエスの顔をのぞき込んだ。
「おい、しっかりしろ」
目は開かない。
「なあ、頼む」
「お守り、役に立ったぞ。お陰で助かった」
「……本当?」
アルの言葉にアニエスはようやく目を開いた。周囲からは安堵の声聞こえ、アルは喜びのあまり、彼女の顔に手を当てた。
「無事だったんだ、無事だったんだ!」
「ありがとう。でも、少し説明が欲しいわ」
アルは戦いの経緯を簡単に説明した。それを聞いてアニエスは呆れた様子で言った。
「弾丸代わりに使ったって事? あれはお守りとしてあげたのよ」
「だが役に立った……、すまん。お守りを無くした事にかわりない」
アニエスは俯いていたが、クスクスと笑い出した。
「でも、それってつまり……、ドスタンにあげたって事でしょう?」
「ああ、そうさ。この半島の土産だ!」アルもつられて笑い出す。
笑って元気が出たのかアニエスはアルの助けを借りつつ立ち上がった。
片手に聖槍を手にしていた彼の姿は周囲の注目を集めた。
槍騎兵達は歓声をあげた。その賞賛はアニエスだけではない、アルにも向けられた物だった。
「お前が英雄に見えるらしい」バージルが短くアルに告げた。
「ちょっと! 私を忘れてない?」
馬に挟まったままのキアラの抗議の声がアルの耳にようやく届いた。
「すまん、すまん」
「もう! いつもアニエス、アニエスって……」
「お前もさっきからアニエスの事を心配していたもんな」
「あら、そうなの? 嬉しいわ。ありがとう」
キアラはアルとアニエスの反応が気に入らないのか、以降は膨れ面だった。
ユゼフとアルで身体を貸し、馬からキアラの足を引き出した。
「だいぶ腫れているな」彼女の足を見たアルが言った。
「馬で運ばせましょう」
アニエスはユゼフに彼女を同乗させるよう言いつけた。辺は乱戦のさなかと比べて静かになっていた。時折、主戦場から砲声が風に乗って聞こえる。アルが気の抜けた顔をするとアニエスが険しい顔をした。
「まだ戦いは終わってないわ」
彼女は彼方に見える五つの堡塁を指さした。
堡塁を巡って両軍が激しく戦っている。ここからは白いアリと茶色のアリが巣を奪い合って居るようにも見えた。
いくつかの堡塁は既に敵の手に落ち、白地に雄鶏の紋章が描かれたラゴールの国旗が翻っていた。
「このままでは時間の問題だな。今のうちに逃げる算段でもしておくかい」
「バカ言わないで」アルの軽口を聞いてキアラが脇腹を小突いた。
その時、森の彼方から笛の音と、太鼓のリズムが聞こえ、アルは姿勢を低くして身構えた。
「敵か?」
一同は身構えて森に目をこらした。
赤い軍服の群れが、森から姿をあらわす。。
「味方だ! 一体どういうわけだ」
森から現れた歩兵たちはなぜか目の周りに隈を浮かべ、死にそうな目をしていた。
「援軍は嬉しいね。だけど連中なんであんなに死にそうなんだ?」
「寝てない」
「なんだって?」
「彼らはニュースリーヴの敗退からずっと寝ずにここへ行軍してきてるのだ」
ニュースリーヴから退却してきた九二連隊の第三、第四大隊が敵の後背を突くために迂回して来たのだ。
彼らの動きは緩慢で、太鼓と笛の音で動く操り人形のようだったが、着実に敵の側面を捉えていた。
彼らはアル達が見えないかのようにただひたすら正面の敵だけをうつろな目で見ながら一歩ずつ歩いて行く。
「連中はなんで歩けるんだ」
「兵士だからだ。訓練された兵士は太鼓が鳴り、軍旗はためく所へどこまでも行く」
森の中から現れた彼らはラゴール戦列の右後方から近づいた。
彼らはアル達を追い抜いてから五分は行進し、敵を射程に収めるまで幽鬼のように歩いた。やがて太鼓の音が止み、彼らは一斉に止まった。
「よく頑張った、これが終わったら寝ていいぞ! だが、その前にラゴールの連中を寝かしつけてやれ!」
その時、ドサリと音がして兵士の一人が倒れた。
「まだ寝るな! 寝るなら死んでから寝ろ!」
軍曹が隊列に割って入り、倒れた男を叩き起こした。
この時、背後からの敵の接近にラゴールの戦列は僅かに乱れた。彼らは正面の堡塁と背後の敵のどちらを相手にすべきか、彼らは逡巡した。
その瞬間を狙ったように、赤い横隊から一斉に銃が放たれた。巻き上がる硝煙、ラゴールの戦列は前後からの攻撃を受け、更に混乱した。
「突撃!」
士官がサーベルを天高く掲げると、赤い服の男たちは敵に向かって殺到した。
各中隊の軍曹たちは叫びながら、兵士と共に死地へ身を投じていく。
激しい格闘戦。マスケットは槍となり、ピストルはただの棍棒でしかない。彼らを突き動かしているは純粋な生存本能だけ。
アルは戦いの様子を離れた場所から見ていた。
「『死んでから寝ろ』か。これは傑作だ」
数時間前、自分の置かれていた境遇を思い出しアルは一人つぶやく。
「連中はただ寝るためだけに死ぬ」
「でも私達を助けてくれた」キアラが答えた。
「そうよ。彼らの到着で本隊は壊走を免れたの。勝利の天秤は傾きつつあるわ」
アニエスの最もな意見を聞いてもなお、アルは胸の違和感を拭うことが出来なかった。
「今もああやって生死の縁に追いやられてる」
「一体何のために」
アルはやり場のない怒りに苛立った。瞳を閉じ、これから死にゆく者のために祈った。
あまりに多くの人間が死んだ。その犠牲がいつか評価されることがあるだろうか。
この間までただの密猟者だった彼にそれはあまりに難しい問題だった。




