命令の価値
数分も経たずに今度はパケナムが直接マーロウに命令すべく馬を走らせてきた。これにはマーロウだけでなく、堡塁にいた全員が驚いた。
パケナムは顔は真っ赤だったが、何も言わずにマーロウに近づいてくる。マーロウは彼をとりあえず落ち着かせるの先決だと思った。頭に血が登った彼は何を言い出すか分からない。
「サー・ジェイムズ。ここは危険です。すぐに退避を――」
「いつまで堡塁に居るんだ、敵が目の前まで来ているんだぞ! 隊列を組んで前に進め」
海兵団の白と青の戦列を指さして言う。
「ここから出たら堡塁の意味がありません」
「斉射の効果を最大限に発揮するには横隊を組むのが一番だとわからんのか」
「まともな射撃戦で太刀打ち出来るとは思えません。唯一こちらに有利な点はこの堡塁です」
「こんな所でちまちま撃っても長引くだけだ、敵に利するだけだ!」
「ですが――」
「いいか。これは何も無謀な命令ではない。お前らが敵を足止めしてる間に我々は呼応して側面から攻撃する」
トーンダウンしたパケナムの言葉にマーロウも頭ごなしの否定をやめ、マーロウはパケナムのこの言葉に食いついてしまった。兵士達は二人の将校が口論し、もめているのを固唾を呑んで見守ることしか出来なかった。
「それは本当ですか」
「……ああ、本当だ」
マーロウは騎兵の援護が得られるならもしや、と考えた。だがそれでもリスクが高過ぎるここはアングリア陣地の最左翼だ。突破されれば包囲される危険が増す。
「試す価値が無いとは言い切れませんね。けど、サー・ジェイムズ、あなたが突撃するという確実な約束がほしいんですよ」
「私にこれ以上、何を求めるんだ!」
「命令を署名入りで、攻撃を支援すると明確に記して下さい。後々のためにも」
「なんというやつだ。信用というものがない! ……分かった。やるからさっさとするんだ」そう言ってパケナムはメモを取り出すと走り書きで書いた命令書を寄越した。
「これでいいだろう」
「それから、五〇歩では遠すぎます。百歩は前進しないと」
「好きにしろ」
「どうも。攻撃が成功することを祈りますよ」
「ふん」
パケナムはそのまま身を翻し、再び自分の隊へと戻っていった。兵士達の顔にあからさまな落胆が見て取れた。自分たちは死にに行くのだという諦めの顔だ。
アルも今のやりとりを見ていたが、マーロウの決定が信じられなかった。
「なぜマーロウはあんな男のいうことを聞くんだ」
「誰にだって弱みはあるんだよ。それにこれはヤツの身から出たサビでもある」デイヴが彼の耳元で囁いた。
「どういう事だ?」
「聞くか? まあ、お互い今日に死ぬかもしれないから教えてやるよ。この大隊は恩赦を与えられた犯罪者の集まり、ということになっている。だけど、その中の半分の事情は特殊だ。半島までの船賃と引き換えに一定期間、奴隷のようにこき使われる」
「年季奉公人、か」
「そんな環境で逃げないほうがおかしい。パケナムはその元締めってわけさ」
「マーロウはその仕事を手伝っていた。あいつも元年季奉公人だよ。アングリアで貧乏している連中を探しては上手いこと言って半島で働かせる、まったく自分も数年前には同じ目に遭っていたっていうのにな。それでも平和な時代はそれで良かった。あいつの下で働いている限り警察の真似事をしていれば稼げたのさ。まさか戦争で兵士にされるとは思っても見なかったみたいだが」
彼は吐き捨てるように言うと、乱暴に鼻を手で拭った。その手は震えていた。
「やけに事情に詳しいけど、あんた――」
「ああ、俺も逃げて捕まったクチさ。それでもまあいい。農場での生活はここより酷かったからな」
そう言ってなお、何か言いかけたが、背後から押し寄せた太鼓の盛大ドラムロールにかき消された。
「着剣!」
マーロウの号令と共に兵士達は銃剣を鞘から抜き、銃に取り付ける。そして再び気をつけの姿勢のまま待機。
もはや白兵戦は避けられなかった。
「大隊は……、大隊は堡塁を出て前進する」マーロウの声には迷いと後悔の念が聞いてわかるくらいに動揺していた。
兵士達は二人の軍曹に急き立てられて、次々と堡塁から這い出ては、横隊を作るべく、整列した。その間にも敵の砲撃は頭上を掠め、後ろからは急かすような太鼓の音が鳴り止むことはなく、前からも太鼓が敵の前進を知らせる。
マーロウ大隊は軍旗を中心に据えた三列横隊に整列した。隊列は背の高さによって決められていた。一番背の高い者は最前列、背の低いものは中央列、その中間は最後列という具合だ。
アルは背が低いので中央列に配置された。
マーロウはアングリアの士官ならだれでもそうするように、隊列の中央、列の十歩前に立つと、回れ右をして兵士達に向き直った。
「敵に攻撃、粉砕する! これより大隊は百歩前進する――」
マーロウは再び隊列に背を向けると、腰のサーベルを抜き、息を深く吸って、叫んだ。
「行進、前へ!」