ナレッジヒル
もう長いこと目にしていなかった蔦のうねりが目の前いっぱいに広がる。
草木は川岸のすぐそばまで生い茂り、沈みかけた夕日に木々の葉が照らされてちらちらと川面を照らしていた。
アルは遂に洞窟を抜けて外に辿り着いた。あんなに長く感じられた洞窟はさほど長いものではなかったのだと、夕日を見ながらアルは考えた。まだ一日も経ってなかったのだ。
久々の外気を胸にいっぱい吸い込む。洞窟の湿っぽい空気とはまるで比べ物にならない、空気に味があるとすればここのは極上だとその時にアルは確信した。
「二度と外の空気は吸えないと思った?」
「ああ、だけどこれはいい。いい空気だ」アルは再び空を仰いだ。
二人後を追うようにバージルがやってきた。彼らは洞窟の出口のすぐそばに出来ていた河原に出ると小休止を取るために腰を落ち着けた。
ウォルターが小枝を集め、焚き木をして濡れた衣服を乾かし始めた。バージルは水筒に川の水を集めていた。アニエスは間を置かず部下に命じて偵察を出した。
「ここは山の反対側だったのね。あの洞窟は山を貫いているのかしら」
「だろうな。この辺りは山脈が続いているから、普通に歩いたら街までとんでもなくかかる」
一行は一日掛けて山を抜ける細い洞窟を歩いた。アルのような猟師の他には知る者もいない秘密の抜け穴だ。
「ここから街は遠いのアル?」アニエスが街を探して木々の間へ視線をやった。
「日が沈むまでにはたどり着けないだろうな」
「ああ、ここで休む訳にわいかん」歳相応に息切れを起こし、隊列から遅れていたバーンズが現れた。
「休憩を続けましょうか、ご老人。ちょうど兵に命じて辺りを調べてもらっているところです」振り向いたアニエスがサーベルの柄頭に手を乗せる。
「心配無用じゃ。街に入ったらまず、宿の手配じゃからな。それから事件の顛末を総督に伝える」
「信じて貰えるだろうか」アルは訝しげに呟いた。
「行けば分かるさ」
河原の石が乾いた音をたてたので、彼らの会話は中断された。
現れたのはアニエスの副官のユゼフだった。アニエスは姿勢はそのままに顔を馬を降りたユゼフの方へ向けて彼の報告を聞いた。
「部下の報告によるとこの辺りにラゴール軍はいないようです。それから、少し行った所にナレッジヒルの街が見える場所があるようです」アニエスがほっとした表情を浮かべた。
「案内してくれ」バージルが猟銃を担いだ。
「こちらです」ユゼフが鞍にまたがると馬を翻して獣道を進んだ。
ユゼフに案内されるまま、森のなかを馬が通れるぎりぎりの道を進んでいく。
すると急に視界が広がり、眼下に石造りの城壁に囲まれた街が見えた。
街の西側をサンプトン川が走り、橋のかかる対岸にも僅かに建物と城壁が立っているのが見えた。街の周りに絨毯を敷き詰めたように畑が広がり、絨毯の刺繍模様のように、農家が点在していた。
「あれがナレッジヒルの街ね。ラゴール側で見た他の街の中でも大きい」
「あそこはグレートティンバー入植地の首都と言っていい場所だからな」バージルがさもありなんとばかりに腕を組んで景色を見下ろす。
「懐かしいのう。ワシが此処に来た時は木々と川だけじゃった」
「数年前に来た時はあんな刺みたいなのはなかったがのう」バーンズ言っているのは市街地を取り囲む堡塁の事だ。低く土を盛って作った角が幾何学模様を描いていた。
「金持ちが見栄え良くするために作ったんじゃないのか」
「星形城塞よ。あの張り出した角が大砲の十字砲火を生み出し、それぞれの死角を補い合っているのよ」
「さすがは軍人」
「でもまだ建設の途中のようね。あそこ」アニエスが指差す先に人が石を積み、土を盛っているのが遠目に見えた。
「ここにも戦いが迫っているということかの?」
「会って聞いてみるしか無いだろう」
ナレッジヒルの街はグレートティンバー入植地ので最も大きく、人々の往来も激しい。街には海路、陸路を問わず様々な品物が取引され、城壁の外側にも比較的新しい商店や市場が出ている。
先頭を行くアルの目に新市街地の建物が映る。その奥に大きな堡塁が左右に突き出している。
山から見下ろした時は丘の上に刻まれたきれいな星形の模様にしか思えなかったが、こうして正面から見ると凶暴な獣のツノのようだとアニエスは言っていた。巧妙に計算された配置が生み出す十字砲火の地獄を想像すると身震いがする、と。
実際、アニエスには心配事があった。それは自分と数十騎あまりの部下の処遇だ。
その点を彼女がバーンズに打ち明けると、村長は前もって使者を出し、街にいるグレートティンバーの総督に手紙を送ることを提案した。
話が通れば、簡単に街に一行が入る事が許される予定じゃ、と村長の話があった。
「どうしてそんな簡単なんです?」
「ここはワシの顔の効く所じゃからな」
「なんですって?」いぶかるアニエスにバージルが付け加えた。
「ここの総督と村長は友人だ。彼らはここがまだ誰も住んでいない、景色が大木の壁だけの頃に一から開拓をしてここまで築き上げたんだ」
「そうじゃ、そして奴には幸運な事に政治の才能があったんじゃ、ワシほどではないがな」
「アングリアの植民都市で唯一の平民上がりの総督だ」
「それなら、なんで村長は村長なのさ? もっと偉くなれたのに」ウォルターはぼやいた。
「街にワシにとって人が多すぎて住みづらいんじゃ。村みたいにもっと広い所がいい」
「この街もそんなに窮屈には見えませんけど?」
「さてな。ワシの村もいずれ大きな街になったじゃろう。そうなったら窮屈でいられんからの。いずれ新しい村を再建しようかと思っとる。もっと広くてもっと、自然の多いところにのう」
バーンズは空を眺めて暫く立ち止まっていたが、何か思い出したように再び歩き出した。
当分の住居は、昔からのコネでもあるのか村長が宿を確保してくれるとの事だった。新しい場所で少しは安定した生活が始められるとアルは安堵した。
だが、その安息はポスナニアの騎兵には与えられなかった。
市街地の店の看板が見え始めた頃、街の北にある丘陵の尾根に突如として馬に乗る小集団が現れた。アルは真っ先に気が付くとアニエスの馬に近づいた。
「尾根伝いに何人かいるのが見えるか?」アルが声を忍ばせて言う。あれが敵だったらこちらが気づいている素振りをしない方がいい。
「ええ。赤い上衣を着ているから、あれはアングリアの騎兵じゃないかしら」アニエスに闘いの緊張はなかった。「どこの部隊か分かりますか? 村長」
「……なんじゃ、わしに用か。どれどれちょっと待っておれ」
村長は意見を求められ、慌てて雑嚢から望遠鏡を取り出すと騎兵らしき集団に向けた。
「ああ、あれか。あれは街を守る義勇騎兵隊じゃ。軍隊と言うよりは着飾った不逞の輩じゃな」バーンズはパチンと望遠鏡を折りたたんだ。
「不逞の輩?」アニエスは言葉選びに不穏のものを感じたようだ。
「ドスタンと同じじゃ。抗議する市民の逃げる背中に棍棒を振り下ろすのが仕事の連中じゃわい」
向こうの方もこちらに気がついたらしく、白い革手袋をした指揮官らしき男がこちらを指さす。隣の騎兵になにか喚いてから、馬を駆ってこちらに向かってきた。
総勢三〇騎といった所だろうか、とアルは無意識のうちに戦いの計算を始めていた。感のいい槍騎兵達は四列に並んで不測の事態に備えた。
大半の騎兵がそうであるように、やってきた彼らの衣服も豪勢な出で立ちだった。
鶏のトサカのように盛り上がった熊毛の飾りのついた革製の乗馬帽に、飾り紐が横に数本走る槍騎兵の着る赤よりは朱色に近い上衣を身につけていた。
その中から男が一人、速歩でこちらにやってきた。驚いたことに民間人のようだ。仕立てのいい外套を着てはいたが、時代遅れの白い長くカールしたカツラをかぶった男だった。彼は馬を止め、メガネの奥の神経質そうな目でバーンズを一瞥した。
「使いを出した村の連中というのはお前らか?」
「そうじゃが?」バーンズは脱帽してお辞儀したが無視された。
「はんっ」男が鼻をならした。明らかにこちらを小馬鹿にしているようだった。
「お前らをすぐに街の中に入れるわけにはいかない」
「なんじゃと!?」目の前の男の無礼に加え、まるで交渉の余地が無いかのように話す態度にバーンズは声を荒らげた。
「ダニエルには、ここの総督には話がついているはずじゃ」
「この街は行政長官の私の管轄だ。許可無く外国人の軍隊をナレッジヒルの街中に通すわけにはいかないのでね」
「……なるほど、あんたが半月前に議会から派遣されてきたミスタ・ジェイムズ・パケナムじゃな」
「准男爵・ジェイムズ・パケナムだ。名前は正確にな」居住まいを正してパケナムは答えた。
「失礼した、サー・ジェイムズ。謝罪する」バーンズは居心地悪そうに謝罪した。本国出身の彼にとって例え何年故郷を離れていようとも、階級社会の暗黙の掟には身体が逆らえない。
「改めて名乗らせて頂く。私はバーンズビーの村の村長、レイカー・バーンズじゃ」
「知っているぞ、バーンズ村長。総督のお気に入りの友人だそうだな! だが、この街で大きな顔を出来ると思わないことだ」
「ならどうしろと言うんだ?」
「そこの騎兵はラゴール人なんだろう? 連中は逮捕する。貴様らも中に入れるわけには行かん。ラゴールのスパイかもしれないからな!」
「彼らを逮捕するって? 俺たちを助けてくれたのに!?」
アルは思わず思わず声をあげた。アニエスとこの数名の男たちは自分の立場を捨てて村人を逃がしたのだ。あの時のアニエスの表情を知ればこそ、アルは黙って見過ごせなかった。
「やれるものならやってみな。こいつらはアンタのところのゴロツキより出来るぞ」
アルの挑発の言葉を受けて対峙する義勇兵の隊列から四、五人が抜けだした。彼らは槍騎兵の横隊を品定めでもするようにウロウロと常歩で威嚇していた。
アルは不用意に近づいてきた一頭の馬の尻をおもいっきり叩いてやった。
バチンと盛大な音がすると、栗毛の馬は驚きのあまり鳴き声を上げながら、乗り手を振り回しながらあらぬ方へ走り去った。
それを見た村人たちは大爆笑だった。あまり笑うことのないアニエスですら口元が緩んでいた。
「馬鹿者、連れ戻してこい!」パケナムの顔が真冬の暖炉のように真っ赤になるのを見て一行はさらに笑った。
義勇兵が数名命じられて馬を連れ戻そうと逃げる馬を追いかけるが、乗り手をどこかで落とし、さら鞍まで無くした馬の足は素早く、追いつく様子もなかった。
「やってくれたな、子供だと思って容赦すると思うな……」未だに怒りを隠せないパケナム。
「馬が、運動不足の、ようだったからなあっ」アルは笑いがとまらず、殆ど言えていなかった。
「とにかく街には入れんぞ」パケナムはアニエスの方に向き直ると噛み付いた。
「良ければ私の部下がお手伝いしましょうか、サー?」アニエスが普段に似合わず茶化した。
「おのれ、許さん! 小僧、名前を言え!」
「名前? なんだそんな事か。アルだよ。アル。アルヴィン・ウォーデンだ」
「ウォーデン? 聞いたことがあるぞ」急に声のトーンが落ちてパケナムが何か思案しだした。
アルはしまった、と思った。だが、今のパケナムは目の前の連中に対する怒りで頭がいっぱいだった。
未だに馬を取り戻せない部下に対する苛立ちと、目の前の自分より地位も年齢も劣る者に小馬鹿にされた事への屈辱が彼を支配していた。
そしてその怒りが答えを導く前にパケナムの部下が彼に耳打ちした。
「……何、総督の使者だと……?」
「ええ。マクルーアン総督が『町の外は貴殿の管轄外。なのでお手を煩わせぬよう秘書をよこすので穏便に』と」
部下は彼に手にしたメモを渡す。パケナムが振り向くとその向こうに馬に乗ったひとりの男がいて、帽子を取って軽く会釈した。
それをみた彼はメモを力任せに握りつぶすとそのまま地面に捨てた。
「くそっ!! 今日は見逃してやる、だが見ているぞ。お前らが尻尾を出したら全員まとめて縛り首だ!」
舐めるように彼は手近の下士官に行くぞ、と短く告げた。
「しかし馬は……」
「放っておけ!」
捨て台詞も鮮やかにパケナムは手綱を締めると街の方へとそそくさと退散した。部下の義勇兵たちは暫く彼の怒りに呆気にとられていたが、すぐに彼の後を追って消えていった。
アルは去っていく騎兵たちを見ながら、消えていく笑いと入れ替わるようにして不安がもたげてくるのを感じた。
敵は何も外だけではない。自由な空気の半島入植地も、元をたどればアングリアの植民地だ。海を越えたアングリアの島には女王と貴族たちがいて、彼らが何百年と当然のように「身分」という物差しを行使してきた。
だがここは違う。海を隔てたわずか七五年あまりで急速に成長したこの半島入植地に身分の差などない。
パケナムのような人間にはこの半島が異国のように映っているだろう。同じ国の人間でこんなにも違うなんてことがあるだろうか。
アルには分からなかった。一介の密猟者の頭には過ぎた考えだと自分でも思った。猟師は獲物の事を考えていればいい。今必要な考えはパケナムは当分は獲物ではない、ということだけだ。
アルが考えこんでいる姿をみて、珍しいものでも見るようにバーンズがやってきた。
「なんじゃ、気にするな。連中はワシらと違う世界に生きとるんじゃ」
「そりゃどんな世界だ」
「物語の世界じゃよ。ワシらは現実を生きておる。ああいう連中は本人すら気づかないうちに決闘と舞踏会の物語の中にいるんじゃよ」
アルは答えなかった。だがバーンズは続けた。
「お前さんが何か考えこむとは珍しい。だが気を揉む必要はない。貴族の中にも話しの分かる奴もいる。嬢ちゃんみたいなのとかな」
「ああそうだな。彼女は……悪くない貴族なんだろうな」アルは思った。アニエスみたいな人間が本当に必要とされる、上に立つべき人なのかもしれないと。
「それにここでは全くの平民でも偉くなれるんじゃ。今から見本を見せてやろう」
バーンズが肩を叩いて街の方を指さす。逃げていった騎兵達とすれ違うようにして馬に載った若い男が一騎こちらに向かって来ていた。