第一話 伝説の暗殺者、赤ちゃんをあやす
「お次の方。……あ、特別指導課ご希望ですね。じゃ、そこの通路を奥まで行って、突き当たりの扉を叩いてください」
第一窓口の受付嬢に死んだような目でたらい回しにされた男は、言われた通り陰気な廊下を進んでいた。
壁の塗料はボロボロと剥げ落ち、湿った埃とカビの匂いが鼻を突く。どこからどう見ても、王都の行政機関が「表に出したくないもの」を押し込んでいる追いやられ部屋の空気だ。
この男、ヴァルカスは、使い古された重いオーク材の扉を押し開けた。
ギィ……と軋む音とともに広がっていたのは、意外にも香ばしい茶葉と古い紙の匂い。
そして部屋の隅に鎮座する、馬ほどもある巨大な黒い影だった。
三つの首を持つ魔界の番犬、ケルベロス。
かつて魔界の最深部を守護していたはずの秘密の怪物『ポチ』が、今は器用に三つの鼻先を突き合わせ、湯呑みを載せた小さな丸盆をすーっと滑らせてくる。
「ようこそ、特別指導課へ。指導員のノア・ヴァレンティです。ポチのお茶、冷めないうちにどうぞ」
デスクに積まれた書類の山から顔を上げたのは、拍子抜けするほど線の細い青年だった。
20代前半といったところか。剣を持ったタコすらなさそうな綺麗な指先で、書類をトントンと揃えている。
「……ワシの気配に気づいているのか、小僧」
ヴァルカスは眉間に深い溝を刻んだ。
『気配完全遮断』、呼吸どころか脈拍すら殺し、風景に溶け込む暗殺の秘術。修道士でも気づかぬこの気配を、なぜこんな青造作もない顔で迎える。
「いや、入り口の床板がミシミシ鳴りましたから」
ノアは至って平然と言い放った。
「さて。お名前と……履歴書を拝見できますか」
拍子抜けしたヴァルカスは、舌打ちを一つ噛み殺すと、ポケットから丸めて皺だらけになった羊皮紙をテーブルへ放り投げた。
【氏名】ヴァルカス(50歳)
【前職】元暗殺ギルド『影の爪』筆頭執行人(在籍32年)
【保有スキル】『気配完全遮断』『無音移動』『毒・罠察知』『必殺』
【希望職種】警備員、または夜間の倉庫番
【希望時給】問いません(とりあえず三食食えればいい)
ノアは羊皮紙の端を親指でつまみ上げると、ふむ、とひとこと呟いて視線を滑らせた。
「ヴァルカスさん。……一般窓口で門前払いを食らいましたね?」
「当たり前だ」
ヴァルカスは吐き捨てるように言い、背もたれにドカリと体重を預けた。軋む革の音。
「人を殺す技しか知らんワシを、平和になった街の誰が雇う。警備の面接に行けば、面接官の背後に立ち止まっただけで、悲鳴を上げられて警察を呼ばれたわ」
深呼吸をすると、胸の奥が重く沈む。
「暗殺ギルドは解体された。長年磨き上げた殺しの道具も、平和な世じゃただの忌み物だ。まだ、規模は小さいが似たようなギルドができたとも聞くが……ワシはもう疲れた。草むしりでもドブさらいでも何でもいい。ワシにできる仕事はあるか」
部屋の外では、静かな雨が窓を叩いている。
ノアは履歴書から目を離すと、まっすぐにヴァルカスを見つめた。
「ヴァルカスさん。素晴らしい経歴ですね」
「……あ?」
ヴァルカスは思わず片眉を跳ね上げた。
「気配遮断に無音移動、さらには毒や罠の察知。今の王都で、喉から手が出るほど求められている最高峰のスペシャリストですよ」
「小僧、ワシをからかっているのか。人を殺すための技術だぞ。首を刈り、毒を仕込み、背後から突くためのな」
ヴァルカスがほんのわずかに身を乗り出した瞬間、部屋の空気が凍りついた。本能的な殺気が漏れたのだ。
すかさず横で、ケルベロスのポチが「ウー……」と低く喉を鳴らす。
だがノアは、まばたき一つしなかった。お茶の湯気をふーふーと吹きながら、静かに笑う。
「裏返せば『絶対に人を驚かせず、あらゆる害から守り抜く技術』ですよね?」
ノアはデスクの引き出しから、金箔が押し押された分厚い最高級の羊皮紙を引き抜いた。
「ちょうど今朝、緊急の特命求人が届いたところです」
【求人】公爵家・極秘ベビーシッター(夜間専門)
【業務内容】誕生したばかりの御令嗣(赤ちゃん)の夜泣き対応、および刺客・毒物からの保護。
【必須要件】赤ん坊を絶対に起こさない完璧な静音性。又は毒物・異変の即座な察知能力。
【報酬】金貨5枚/月(※手当別途支給)
「べ、ベビー……シッター……? ワシが、赤ん坊の面倒を!?」
驚きのあまり、ヴァルカスのダミ声が裏返った。
「公爵家の御令嗣は大変敏感でしてね。ちょっとした使用人の足音やドアの軋みで目を覚まし、泣き叫んでしまうんです。公爵ご夫妻は連日の寝不足で限界寸前。その上、派閥争いによる毒殺や刺客を極秘裏に警戒していらっしゃる」
ノアはトントン、と指先で求人票を叩いた。
「音を立てず、気配を完全に消して部屋で見守り、微小な異変や毒気を察知できる人間。……ヴァルカスさん、あなた以外の誰に務まるというんですか?」
「し、しかしワシのこの手は……加減というものを知らん。赤ん坊など、指先ひとつで壊してしまうぞ」
「まあまあ。何事も習うより慣れです。まずは現場で体験実習と行きましょう」
* * *
公爵邸、絢爛豪華な寝室。
ヴァルカスは呆然と、白いシルクのベッドの横に立っていた。
黒装束の上から強引に着せられたのは、ノアから手渡された洗いたてのエプロン。柑橘系の爽やかな洗剤の匂いが、自分の染みついた血生臭さを消していくようで落ち着かない。
ベッドの中では、ヴァルカスの拳ほどしかない小さな赤ん坊が、規則正しい寝息を立てていた。
(……小さすぎる。こんなもの、どう扱えばいい……)
冷や汗が背中を伝う。
その時だった。遠くの廊下の向こうで、巡回中の騎士の鎧が「カチャリ」と微かに擦れた。
しまっ、とヴァルカスは目を見開く。
赤ん坊の短い眉間がギュッと寄った。小さな唇がひくつき、呼吸が荒くなる。ギャンと泣き出す直前の、あの予兆だ。
(……動け!)
思考より先に、32年叩き込まれた体が反応していた。
呼気を完全に止め、肺の動きすら固定する。
膝の関節を緩め、床に影すら落とさずに滑り込む『無音移動』。
ベッド脇へ一瞬で肉薄すると、ヴァルカスは己の太くゴツゴツした指先を伸ばした。
数多の要人の首筋を、一突きの狂いもなく断ち切ってきた殺しの指先。
それを、羽毛のように柔らかく、薄い布団の上から、赤ん坊の小さな胸元へ添える。
ト、ト、ト。
関節の角度をミリ単位で微調整し、皮膚に伝わる肉の衝撃を完璧に殺しながら、心臓の脈拍に合わせたテンポで優しく叩く。
音を立てず、ただ「安心」だけを指先から送り込むように。
「ふ、……ふにゃ……」
赤ん坊の眉間の皺が、すーっと伸びていく。荒くなりかけていた呼吸が、再び穏やかなリズムへと戻っていった。
(ふぅ……っ)
ヴァルカスが密かに息を抜いた、その刹那。
暗殺者としての嗅覚が、左耳の微かな鼓膜の振動を捉えた。
窓の極小の隙間。夜風に乗って侵入してきた、糸のような羽音。『紫斑猛毒蜂』だ。王都の裏路地に潜む外来の害虫で、大人が刺されても激痛で動けなくなり、赤ん坊なら一刺しで命を落とす。
ヴァルカスは右手の袖口から、暗器用の細いピンセットを音もなく滑らせた。
『必殺』の呼吸。腕を振り抜く風切り音すら立てず、指先の瞬発力だけで空気を切り裂く。
カチ。
暗闇の中で、微小な音がひとつ。
赤ん坊の顔からわずか数センチ手前で、空中を飛んでいた蜂の「右の羽だけ」がピンセットの先で完璧に押し潰されていた。
ヴァルカスはそのまま指先で蜂をつまみ上げると、自分のエプロンのポケットの奥深くへと押し込んだ。
赤ん坊は何も知らず、小さな口をモゴモゴと動かして寝返りを打っただけだった。
「……信じられない……」
部屋の物陰から、震える声が漏れた。
いつの間にか様子を見守っていた公爵が、物音ひとつ立てずに現れたヴァルカスに目を見開いている。その後ろで、ノアが満足そうに頷いていた。
公爵はヴァルカスの前に駆け寄ると、そのゴツゴツとした両手をがっちりと握りしめた。手袋越しにも、公爵の手が激しく震えているのが伝わってくる。
「足音でさえ起きるこの子が、一度も目を覚まさないなんて……! それに今の毒蜂まで……! ヴァルカス殿、頼む! ぜひ我が家に来てくれ! この子を……この子を守ってやってくれ!!」
「いや……ワシは、その……元殺し屋のオッサンで……」
「関係ない! あなたほど優しく、頼もしい守護者がどこにいる!」
真っ直ぐに見つめ返され、ヴァルカスは言葉を詰まらせた。
『人を殺す手』だと忌み嫌われ続けた己の手を、こんなにも強く、感謝を込めて握られたことなど、生まれて一度もなかった。
* * *
数日後。王都中央職業安定所・特別指導課。
「ヴァルカスさん、公爵様から正式な本採用の契約書が届きましたよ」
ノアが羽ペンで書類に確認印を押しながら、入ってきた男に声をかけた。
静かに扉を開けて入ってきたヴァルカスは、公爵家から支給されたという仕立ての良い灰色の訪問着に身を包んでいた。かつての尖りきった殺気は影を潜め、肩の力が抜けた分、どこか体が小さくなったように見える。
「……契約は済んだ。その報告に来ただけだ」
「よかったです。現場のお仕事、いかがですか?」
「……別に。普通だ」
ヴァルカスは素気なく答え、自分の分厚い掌を見つめた。長年の訓練でタコと傷だらけになった皮膚を、反対の親指でゆっくりとなぞる。
「……赤ん坊の肌というのは、驚くほど柔らかいな」
「ええ」
「少しでも力を込めれば、すぐに赤くなる。……加減が、なかなか難しい」
ヴァルカスはぽつりと漏らすと、懐から小さな紙包みを取り出してデスクの上に置いた。
公爵邸の厨房から分けてもらったという、上質な干し肉の塊だ。
「……うまいか?」
ケルベロスのポチが「くぅ〜ん」と喉を鳴らし、三つの頭を仲良く動かして干し肉を綺麗に平らげた。
ヴァルカスは一度だけノアと目を合わせると、照れくさそうに咳払いをして、足音ひとつ立てずに部屋を出て行った。
「……ふぅ。一案件、無事に完了っと」
ノアは冷めきったお茶を一口飲み干すと、次の厚い求人票の束を開く。
部屋の中に、湿ったインクの匂いが静かに広がっていった。




