File 8 白いタオル
「いつも応援ありがとうございます!さくら台駅前ペット探偵事務所、第8話です。ヒカルの分析と人間の感情。猫の保護には何が必要か?お楽しみください!」
ブチは動かない。二人で静かに様子をうかがっていた時、
「……お前ら、そこで何してんだ」
背後から聞こえた掠れた声に、俺は振り返った。 そこには、タッパーを抱えるように持ったゲンさんが立っていた。
「……やっぱり、ゲンさんだったんだな。深夜にブチへエサをやってたのは」
俺が静かに言うと、ゲンさんはトラップの前にいるブチを見て、泣きそうな顔で顔を歪めた。
「……昼間、店で話を聞いた時から生きた心地がしなかったよ。やっぱりお前らもブチを狙ってたのか。最近、この町の連中があいつを目の敵にしてるから……保健所にでも連れていくつもりか?」
「俺たちは探偵だ。保健所の手先じゃねえよ。タエ子さんに『苦情が出てる野良猫を捕まえてくれ』って頼まれただけさ。……でも、あんたがエサをやっててここが寝床なら、なんでわざわざ夜中に探し回ってたんだ?」
ゲンさんは、ギュッとタッパーを抱きしめた。
「俺みたいな無骨な親父が、野良猫に名前つけて可愛がってたなんて、恥ずかしくて誰にも言えなかったんだよ……。でも、あいつがここ数日、エサの時間になっても裏口に姿を見せなくなって……心配で、毎晩こうして探し回ってたんだ……!」
ヒカルの完璧なデータを破壊し、彼が「存在を除外」しようとしたバグの正体。それは、誰にも言えなかった、ゲンさんの不器用で深い愛情だったのだ。
「にゃあ……」
ゲンさんの声に気づいたブチが、か細く鳴く。 だが、やはり怖れが勝るのかその場から動こうとしない。
ヒカルが空間の一点を見つめたまま、微かに唇を噛む。生存本能や合理的なデータからは絶対に導き出せない『正体不明のバグ』を前に、彼の完璧な演算は完全に停止していた。
目の前で動物と人間がなぜ通じ合っているのか、その理由が彼には全く理解できず、ただ無言で立ち尽くしている。
「……お前の理屈じゃ、こいつの『最後の最後の一歩』までは踏み出させられないよ」
俺は立ち上がると、ゲンさんの前に手を差し出した。
「ゲンさん。あんたがいつも首に巻いてるそのタオル、貸してくれ」
「えっ……これか?」
俺は、出汁と汗の匂いが染み付いたタオルを受け取ると、ゆっくりと歩み寄り、それをトラップの中に敷いた。
「ほらブチ。お前の大好きな、ゲンさんの匂いだぞ」
ブチは鼻をヒクヒクさせると、フッと全身の力を抜き、吸い寄せられるようにトラップの中へ入り……出汁の匂いが染み込んだタオルの上で、安心したように丸まった。
カタン。ヒカルが、遠隔スイッチを押した。
「高栄養・高嗜好性フードより、“特定個体の残留臭”を優先……?論理矛盾」
ヒカルが夜空を見上げた。
「……あのベッドと、いっしょか」
「えっ?」
俺は聞き返したが、ヒカルはトラップの中で丸まるブチから目を離さず、いつになく静かな声で呟いた。
「……対象の、無傷での確保を完了」
ヒカルはそれ以上何も語らず、静かに画面を閉じた。
「ブチぃぃっ……!!」
ゲンさんがトラップに駆け寄り、タオルごとブチを抱きしめて男泣きする。 俺はそんなゲンさんの震える背中を見下ろしながら、静かに切り出した。
「……なあ、ゲンさん。タエ子さんからの本来の依頼は『苦情が出てる野良猫を捕まえて、どこか遠くへやってくれ』って内容なんだ」
ゲンさんがビクッと肩を震わせ、振り返る。
「っ! ……わかってる。でも、保健所や遠くへはやらないでくれ! 俺が……俺が責任を持つから!」
「責任を持つって、まさかあんたのところで、完全に室内で飼ってくれるのか?」
「……ああ。店には入れられねえが、2階の自宅のほうなら飼える。もう外で怖い思いや、腹を空かせるような真似はさせねえ。これからはずっと一緒だ」
ゲンさんの、不骨だが決して揺るがない決意。 それを見た俺は、フッと息を吐き出してニヤリと笑った。
「……交渉成立だな。大家のタエ子さんには、俺からうまく言っとくよ。……とりあえず、朝になったら一度獣医に行ってみてもらおう。ずっと野良だったんだ、ノミやダニの駆除と、病気がないか検査しとかねえとな」
「ああ、そうだな。頼む!」
「もちろん、この獣医の費用はゲンさん持ちだぜ?」
俺がニヤリと笑うと、ゲンさんは力強く頷いた。
「わかってるよ! ブチが元気で暮らせるなら、いくらでも払わあ!」
*
翌朝。さくら台動物病院の診察室。
白衣を着た瑞希先生は、野良生活で警戒しているブチを一切の無駄がない的確な手つきでなだめ、診察台に乗せていた。
「……野良にしては随分と栄養状態がいいわね。目立った病気もないみたい」
「よかったぁ……」
ゲンさんがホッと胸を撫で下ろす。
「でも、これから室内で飼うならノミ・ダニ駆除と、ワクチン接種は必須よ。少しチクッとするわよ」
瑞希先生が手際よく注射の準備を進める。待合の椅子で、ヒカルが自分のノートパソコンを開き、無表情で高速のタイピングをしていた。
カタカタカタカタッ……!
ヒカルの指先が、目にも止まらぬ速度でキーボードを弾く。
画面には、昨日の捜索で得た『さくら台の路地裏の構造』や『飲食店の労働サイクル』といったローカルなデータが、自作のデータベースへと恐ろしい速度で統合・最適化されていく。
処置を終えた瑞希先生が、ふとヒカルのパソコンの画面に目を落とし――その動きをピタリと止めた。
「……あなた。今、その複雑なローカルデータベースの構築……既存のソフトじゃなくて、自分でゼロから組んでいるの?」
ヒカルは画面から目を離さずに、淡々と答えた。
「……既存の汎用データベースは、不要なバックグラウンド処理が多すぎる。今回の捜索で得たローカルデータを僕の思考速度で引き出すには、専用のシステムを自作した方がカロリー効率が良い」
「信じられないわ……」
瑞希先生が驚愕して目を見開く。
「専門のシステム会社が何ヶ月もかけて構築するようなデータ構造と処理アルゴリズムを、息をするように……あなた、ただの助手じゃないの……!?」
瑞希先生は言葉を失っているようだった。
俺は誇らしげにニヤリと笑った。
「へへっ。驚いたかい先生。ヒカルはうちのオーナーで『頭脳』だからね」
「……ええ。本当に、規格外ね」
瑞希先生は興味深そうに、そして少しの畏敬を込めてヒカルを一瞥した。
ゲンさんが威勢よく声をかける。
「おう! 先生、これからもブチの主治医としてよろしく頼むぜ!」
「……ええ、任せてちょうだい。お会計、出しておくわね」
「ここまで読んでいただきありがとうございました!
次回、忍び寄るライバルの存在……!?
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