File 25 本能の逃走
「いつも応援ありがとうございます!さくら台駅前ペット探偵事務所、第25話です。
今回は真冬に驚きの事情で迷子探しをすることになります。お楽しみください!」
12月中旬の夕方。事務所の中では、赤々と燃えるストーブが温かい熱気を放っていた。
俺はデスクで深くため息をついてボヤいた。
「あーあ。最近、ありがたいことに依頼はだいぶ増えてきたが……来る客みんな、最初から『一日2万円でしょ?』って言ってくるからな。2万円をコツコツ積み重ねても、まだ今月の家賃と俺の給料には届かねえ……。相場破壊の犯人、あのおばちゃんたちだしなぁ」
バンッ!と勢いよくドアが開き、大家のタエ子さん、美容院のヨシエさん、居酒屋のミツコさん――『さくら台FBI』の三人が、クリスマスツリーの飾りやクラッカーを抱えて、大騒ぎで飛び込んできた。
「イナガキ所長! ちょっと聞いてちょうだいよ! 今年のクリスマスパーティーの計画、完璧に決まったわよ!」
「おばちゃんたち、ケーキの予約もしちゃったんだから!」
「パーティーの予定忘れないように、注意喚起に来たわよ」
「クリスマス! カンキ! カンキ!」
窓際で、オウムのステラが間の抜けた声で合いの手を入れる。
部屋の奥。為替チャートを睨んでいたヒカルが、ピクリと眉をひそめた。
「……ノイズ。大音量の会話とクリスマスの浮かれた感情データ。僕の思考領域を乱すだけの無意味な音声。……無視」
ヒカルはノイズキャンセリングヘッドホンをきつく押し当て、完全にシャットアウトした。
そこへ、エプロン姿にマフラーを巻いた向かいのパン屋の看板娘、カスミちゃんが、少し大きめのケーキ箱を大切そうに抱えてはにかみながら入ってきた。
「あ、ヒカルさん、イナガキさん、おばちゃんたち! FBIのタエ子さんから特別注文をいただいていた、お父さんのクリスマスケーキの試作品ができたので、持ってきました……!」
「待ってました! さすが鉄平の新作ね!」
パカッ。カスミちゃんが箱を開けた。
そこには、切り株を模したロールケーキの表面に、生クリームの代わりに『あん肝のペースト』がねっとりと塗られ、飾りのモミの木の代わりに『焼いた長ネギ』が何本も突き刺さっている、異形極まりない地獄のケーキが鎮座していた。
「……は?」
「ちょっと……これ、ケーキじゃないじゃない!」
おばちゃん三人が絶句する中、カスミちゃんは純粋無垢な笑顔で言った。
「お父さんが、お酒好きのFBIのおばちゃんたちのために、『甘さを限界まで抑えた、シャンパンに世界一合う大人の贅沢ブッシュ・ド・ノエルだ!』って……!」
部屋の奥。
振り返ったヒカルがその邪神のようなケーキを凝視した。
ヒカルの透き通った瞳の奥で、ケーキの視覚データが激しく明滅し、バグの警告音が鳴り響くのがわかった。
「……長ネギのアリシンと、あん肝のビタミンAおよびEPA。……いや、ダメだ。這い寄る混沌のような視覚的カオスと、海鮮とネギの暴力的な匂いが、スイーツという概念のプロトコルを完全に破壊。味覚予測の計算式が、エラーを吐き続けている。……解析不能」
ヒカルは両手で頭を抱え、フラついた。
「……ショート。処理能力、限界……」
「うわっ! ヒカルのスーパーコンピューターが、ケーキを見ただけで知恵熱出してフリーズしたぞ! どんな破壊力だよ、親父さんのケーキ!」
俺がヒカルに保冷剤をおでこに当ててやっていると、ヒカルは額の保冷剤を無意識に鼻先へ近づけた。
「……冷気で匂い刺激が散る」
コンコンッ。
ドアを激しく叩く音が響き、顔を真っ青にした若い男性が飛び込んできた。依頼人の斉藤さんだ。
「た、探偵さん! 助けてください! うちのレオが、散歩中に急にリードを振り切って、物凄いスピードで逃げちゃったんです!」
「ジャックラッセルテリアか! 3歳ってことは元気盛りだな。いなくなった状況を詳しく!」
「さっき、近所を普通に散歩してたんです。そうしたら、急にレオが何かの匂いを嗅ぐように鼻をヒクヒクさせ始めて、その次の瞬間、白目を剥くようなパニック状態で、本能の塊みたいにもの凄いダッシュで走り去っちゃって……! 実は大手探偵社にもすぐに連絡したんですが、『すぐには対応できない』と言われてしまって!」
俺は腕を組んで窓の外を見た。外では、乾いた12月の冷たい北風がヒョウヒョウと吹き荒れている。
「……おいヒカル。急に鼻をヒクヒクさせてパニックになったって、どうして逃げたんだと思う?」
ヒカルはおでこから保冷剤を外し、机に置いてノートパソコンを開いた。
「……発情したメス犬の性フェロモンを嗅ぎ取って追跡したと推定」
「は? 今は12月のクソ寒い真冬だぞ。フェロモンを追って逃げたなんてあり得るのか? メス犬の発情期ってのは、春か秋だろ?」
「……不正解。室内飼育の現代犬は、季節性がかなり薄れている。冬の発情も珍しくない。……だが、一つだけ通常のデータから逸脱する『エラー』が存在」
「何がエラーなんだよ」
「……距離。犬の鼻は、人間には想像もできないレベルで遠くの匂いを追う」
「遠くって、どれくらいだよ」
「……風に乗れば、最大で『半径数キロメートル』先。数キロ風上の、見知らぬ家から流れたフェロモンを拾った。……そして、本能のレーダーが示すベクトルへ向かって、ただ一直線に走り抜けた。文字通り、この街を縦断して」
ヒカルの瞳の焦点が外れる。
「……気象観測アプリ『そらまめ君』の風向データを取得。現在、北北西の風。フェロモンは風下へ流れる。レオは『匂いが濃くなる方向』へ走った。……つまり、発生源を目指して風上へ向かっている」
ヒカルのビー玉のような輝きを放つ瞳の奥に、12月の冷たい北風の気流データが、さくら台の住宅街の3Dマップに美しく重なる。それは遥か数キロ先の「風上エリア」をサーチライトのように照らし出していた。
イナガキ「数キロメートル……! 街を縦断って、そんな広範囲、俺たち2人じゃ今から走っても間に合わねえぞ!」
「……タスクの分散。イナガキさん、ノイズ処理フィルターの最大動員を。……僕たちの『観測レーダー』を起動して」
「ここまで読んでいただきありがとうございました!
次回は、アクション要素の多いお話です……!?
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