File 24 心の壁
「いつも応援ありがとうございます!さくら台駅前ペット探偵事務所、第24話です。ワンコ君を保護できるか?お楽しみください!」
恐怖でパニックを起こしたワンコ君は、マリさんの制止を振り切り、脱兎のごとくさらに奥のブッシュへと、物凄いスピードで逃げ去ってしまった。
「あああああ! ワンコ君! 待って、行かないでェェェ!!」
マリさんが手を伸ばして叫んだが、もう遅い。茂みが揺れ、カサカサという乾いた落ち葉の音だけが残った。 ワンコ君の小さな姿は、もうどこにも見えなかった。
俺は、頭を抱えてその場に突っ伏した。
「……完全に、A.T.フィールド張られて拒絶されてるじゃねえか!!」
ヒカルが微かに眉をひそめ、タイピングの手を止めた。
「……エラー発生。安心のシグナルに対して、対象が逃走反応を選択。……入力結果が矛盾 」
「パニックになってるんだよ! 大声で叫びながら走ってきたら、犬からすれば『捕食者の襲撃』にしか見えねえだろ!」
「……視覚的な脅威が、聴覚による安心のシグナルを上回ったということ。……入力データを『大音声と突進による二次パニック』にアップデート。テリトリー意識は変化していないため、現在座標から約30m、公園の外周フェンスの隙間でフリーズしている確率が98%」
「私のせい……私のせいで、ワンコ君に拒絶されちゃった……!」
マリさんは地面に両膝をつき、声を上げて泣き崩れた。
レイさんも
「うっ……だめなのね、もう」
と目を伏せている。
アスカさんは、
「……ほんとにバカね」
と呆れている。
俺は、泣き崩れるマリさんの目の前にしゃがみ込み、その肩にそっと手を置いた。
「自分を責めるな、マリさん。愛犬を見つけて、嬉しくて名前を叫んじまうのは、飼い主なら当たり前の感情だ。誰もあんたを責めないさ。……俺たちが、絶対にもう一度見つけるから」
大人の男の、深く温かい包容力。マリさんはハッとしたように涙を拭った。
「……めんご。イナガキさん……。ありがとう」
マリさんは、元気を取り戻した。
「どこにいても必ず迎えに行くから。待ってなよ。ワンコ君」
ヒカルは、背後に控えるCIAの三人組をビー玉のような瞳で制した。
「……これ以上の大音声の出力は、ターゲットの生存発見確率を天文学的な数値まで引き下げる。全員、その場で無音待機を要求。……イナガキさん、機材バッグから『単眼ナイトビジョンスコープ』を。暗がりをライトで照らせば対象をさらに刺激する」
俺はスコープを受け取り、暗闇のフェンスの隙間でガタガタと震える小さな熱源を確認した。
「いた。でも、どうやって捕まえる? 下手に手を出せばまた逃げるぞ。……匂いのついた服でも借りるか?」
「……不正解。極限のパニック状態では、匂いよりも視覚的な『脅威の排除』が最優先だ」
ヒカルはワンコ君から視線を完全に外し、決して目を合わせず、ゆっくりとした動作で背中を向けてしゃがみ込んだ。 そして、小さく息を吐き、全身の力を抜いて、彫刻のように微動だにしなくなった。
だが、それはただ漫然と静止しているわけではなかった。
ヒカルは、背後で極限のパニックに陥っているワンコ君の浅く速い呼吸音を聴覚で捉え、自分自身の背中の筋肉の弛緩と呼吸の波形を、ミリ単位の計算で完全に同調させていたのだ。
すると――。 先ほどまでマリさんの声にすら怯えてパニックを起こしていたワンコ君の震えが、ヒカルの規則正しい呼吸のリズムに引きずられるように、嘘のように少しずつ落ち着いていったのだ。
背後で息を潜めていたCIAの三人は、信じられないものを見るように目を見開いた。
「……嘘でしょ? あんなに怯えていたワンコ君が……」
「何が?どうして……!?」
「……違うわ。見て、あの探偵さん……ワンコ君の荒い呼吸に合わせて、自分の背中の動きを完全にシンクロさせて。シンクロ率ナンバーワンの殿方の仕事ね……!」
アスカさんがその異常なまでの身体制御に気づき、戦慄したように呟いた。
「キャンッ……!」
ワンコ君は、ヒカルが一切の敵意を見せず静止しているのを見て、クンクンと鼻を鳴らした。そして、恐る恐る、自らゆっくりとヒカルの足元へ歩み寄ってきた。
「……呼吸数、低下。筋肉の硬直も解除。耳の向き、重心のブレ……すべて正常値に移行。もう、危険な変数は何もない」
動物行動学に基づく、絶対的な安全を示す『カーミングシグナル』。
ヒカルの言葉は無機質だったが、彼の手はワンコ君の微細な緊張を正確に読み取り、一番安心する角度でそっと抱き寄せた。ワンコ君はヒカルの腕の中で、安心したように丸まった。
「……それは、夢の終わりよ」
レイさんも呆然と息を吐き出した。
俺はニヤリと笑って、マダムたちを振り返った。
「これが、うちのやり方ですよ」
「ワンコ君ーーーっ!」
今度は声のトーンを抑え、マリさんが駆け寄ってワンコ君を愛おしそうに抱きしめた。ワンコ君はマリさんの手を、安心したように何度も舐めていた。
*
数日後の、11月20日の夕方。 窓の外では、秋の冷たい風が落ち葉をさらさらと揺らしている。
ガチャリ、とドアが開き、上品なブラウス姿の冴子さんが入ってきた。
「ヒカル、イナガキさん。今月もお疲れ様です。……はい、今月の『事務所の経費』と、『イナガキさんのお給料』。それと、『ヒカルの生活費』ね」
冴子さんは微笑みながら、三つの封筒を机に並べた。
俺はその中から自分の名前が書かれた封筒を受け取り、安堵の息をついた。
「本当によかった……! これで今月も、あいつに養育費が送れます!」
「ヨウイクヒ! ハチマンエン!」
ステラが嬉しそうに羽をパタパタさせながら叫んだ。
「だからステラ、お前はリアルな金額を言うなって言ってるだろ!」
冴子さんがクスリと笑い、デパ地下の袋を机に置いた。
「すっかり寒くなってきたから、今日は『揚げたてのカキフライと、根菜たっぷりの豚汁』を買ってきたわ。お二人とも、温かいものを食べて栄養をつけるのよ」
ヒカルが、空間の一点を見つめたまま淡々と言う。
「……牡蠣に含まれる豊富な亜鉛とタウリンが脳神経の疲労を即座に回復させ、豚汁の温熱効果が末梢血管を拡張する。極めて合理的なリカバリー食。……感謝する、姉さん」
「相変わらず理屈っぽい奴だな! 素直に美味そうって言えよ」
俺はホイルを開けながら、ニヤリと笑ってヒカルを見た。
その時、手元のスマホがブルブルと激しく震え、通知音が鳴り止まなくなった。
「うおっ、なんだこれ!? CIAのやつら、SNSに『あのバズってるアートパン屋の向かいにある、最高の探偵事務所!』って大々的に拡散しやがったぞ!」
画面には、バズり散らかしている『ゲソと栗のイカ墨クロワッサン』の写真のすぐ隣に、俺たちの探偵事務所の看板が写った写真がアップされ、もの凄い勢いでリツイートされていた。
「おい、なんか変な形で有名になってきたぞ……」
俺が頭を抱えると、ヒカルは静かにカキフライを口に運び、咀嚼しながら淡々と言った。
「……情報とカロリーの等価交換。……悪くない」
「お前、あの『這い寄る混沌』のおかげで有名になるとは思ってなかっただろ!」
ヒカルは図星を突かれたように、気まずそうにふいと目を逸らした。
「カロリーホジュウ!カロリーホジュウ!」
窓の外では、落ち葉を揺らす秋の冷たい風が、さくら台の駅前を優しく、優しく吹き抜けていった。
「ここまで読んでいただきありがとうございました!
『さくら台駅前ペット探偵事務所』はCASE7の掲載を終えました。今後ますます登場人物が活躍します。
もし『続きが気になる!』『このコンビ、面白い!』と思っていただけましたら、下部の☆☆☆☆☆から【評価】や、作品フォロー&ブックマークをしていただけると、執筆の励みになります!ぜひよろしくお願いします!」




