29.とても寒い中
「寒っ」
声をあげたのは夏生だった。慧はこの凍るような冷気に覚えがあり、周囲を見渡す。
「慧~。夏生~!」
パタパタと走ってきたのは、いつものようにスーツ姿の吉野だった。今日はベージュのスカートスーツにネイビーのシャツを合わせている。
「アランもお疲れ様」
「お疲れ様です、吉野さん。ベアトリス王女は?」
そう言えば、ベアトリス王女のことはZSC本社に預けてきたのだったか。吉野はZSCの最終兵器でもあるので、彼女が出てきて不安になる気持ちはわかる。
「だーいじょうぶ。うちの社員は優秀よ。それに、Wワクチンの所有者はここで捕まえるわ」
と、吉野が自信たっぷりに言った。そろそろ戦力過剰である。
すとん、と慧の側に由梨江が着地した。彼女は吉野を見て、あれ、と首をかしげる。
「なんで社長がいんの」
「ちょっとねー。安心して。私は後方支援だから」
「すでにめちゃくちゃ寒いんだけど……」
まだ秋の初めなのに、真冬かと言うほどの冷気である。由梨江のあとからランドールもやってきた。
「ん、紗帆か。久しぶりだな」
「お久しぶり、ランドール。っていうか、日本にいたのね」
この二人、本当にどういう知り合いなのだろうか。気になるが、それは後回しである。
「まあとにかく。これだけそろってれば逃げられるはずないでしょ。Wワクチンの関係者は、逃がしたくないの」
「それって殺してもいいってこと?」
相変わらず由梨江が過激なことを尋ねる。吉野は苦笑して「できれば生かしたまま捕らえてほしいわね」と言った。
「はーい。了解」
軽い調子で由梨江はうなずいた。吉野が慧をつつく。
「いい、慧。ゆりちゃんの手綱をうまく握るのよ」
「……善処します」
由梨江、吉野からもあまり信用されていなかった。
そうして、戦闘員四人は廃工場の中へ入っていった。やはり、慧だけカーライル家ではなくて疎外感。
「社長の力でおおわれてるから、だいたいの人間は逃げられてないだろうけど……」
察しの良いものは逃げているかもしれない。由梨江が先頭を歩き、注意深く周囲を見渡す。ちなみにその後に慧、アランと続き、しんがりがランドールだ。由梨江が先頭なのは、いざ敵と遭遇したときに一番反応が早いからである。
「うわっ。冷たっ」
ドアを開けようとして触れた取っ手が冷たかったらしい。由梨江は自分の手を魔法で覆い、それから取っ手をつかんでドアを開いた。
「お、あたり」
由梨江はためらわずにずかずかと部屋の中に入っている。完全に凍ってはいないが、足元が凍って身動きが取れない人間が男女含め二十名ほどいた。
「放っておこう。どうせ動けないから」
凍るような寒さの中、身動きが取れずに身を震わせる彼らが絶望の表情になった。この際敵でもいいから助けてほしかったのだろう。だが、確かに二十人も助けている時間はない。
「これだな。いくつか使われていると考えても、数が足りないが」
「じゃあ、誰かが持ち出したと言うことだろう」
ランドールとアランの会話がブルターニュ語だからか、由梨江もブルターニュ語で返した。
「三人くらいかな。こっちの扉から出ていった形跡があるけど」
由梨江が開かない扉をがしゃがしゃ鳴らしながら言った。どう見ても溶接されている。蹴破れるだろうか。
と、思っていると、由梨江がビーム・ブレードを扉に突き刺した。当たり前だが熱で扉が解ける。
「……お前……」
「何?」
「いや、なんでもない」
大胆だな、と言おうと思った慧であるが、まあ、有効な方法であるのでツッコミはやめることにした。
由梨江が扉を切り終わり、それを蹴ると扉が向こう側に倒れた。やはり由梨江が先頭で走る。途中で別れ道があり、ランドールやアランが別れていったが、慧はそのままためらわずに走っていく由梨江について行く。触れる空気は冷たいが、これだけ走っていれば体は温かい。
「み、つ、け、たぁっ!」
勢いをつけて、由梨江が目の前に現れた黒いジャケットを着た人物に飛び蹴りをかました。もう一人、黒スーツの男が由梨江に向かって銃弾を放つ。とっさに由梨江がビーム・ブレードでそれをはじいた。どうなってるんだ、お前は……。
「っと」
由梨江が距離をとり、慧の隣に並んだ。出遅れた感が半端ないが、慧も戦闘態勢をとる。
「ちっ。吉野の差し金か……」
ジャケットの男の方が舌打ちした。慧はその男の顔に見覚えがあって目を細めた。
「お前……」
「ん? お前、慧か」
男も慧の顔を見て気づいたようだ。まあ確かに、多少大人びてはいるが、基本的な顔のつくりは四年前と変わっていないはずだ。それは気づくだろう。
「と言うことは、そっちはあの時の嬢か」
男……佐竹は由梨江の顔を見て納得したようにうなずいた。由梨江の方はだいぶ子供っぽさが抜けているが、やはり西洋人的な顔立ちは変わっていない。
佐竹は、両親を亡くして孤児院で暮らしていた慧を引き取った人物である。そして、彼は慧を使って吉野を暗殺しようとした。知ってのとおり、それは由梨江によって阻まれたが。
彼の目的が何なのかはわからない。だが、今ここに佐竹がいると言うことはWワクチンを持っている可能性が高い。実際、彼はアタッシュケースのようなものを右手に持っていた。
「感動の再会のところ悪いんだけど、それ、こちらに渡してくれない?」
いろんな意味で空気を読まない由梨江の発言である。一応の降伏勧告だ。にっこり笑う由梨江が怖い。佐竹が唇の片側を上げる。
「粟島!」
「御意」
粟島と呼ばれた黒スーツが背負っていた細長の鞄から剣を取り出した。佐竹が身をひるがえす。由梨江が粟島の剣を受け止めた。
「慧!」
叫ばれる前に慧は佐竹を追った。粟島が慧に銃口を向けるが、由梨江の反応の方が早い。
「よそ見するなよ!!」
由梨江の蹴りが粟島の腕を直撃し、彼は拳銃を取り落した。慧はそのそばをすり抜けて佐竹を追う。
「この小娘が!」
「なめてると痛い目見るからね! 殺すなって言われてるけどさ!」
背後から粟島と由梨江の狂気じみた声が聞こえる。そう言えば、吉野に『由梨江を見ていろ』と言われていたのに、離れてしまった。まあ、この状況では仕方があるまい。
「佐竹!」
「お前もすっかり吉野の飼い犬か!」
当たり前かもしれないが、慧の方が足が速いので佐竹に追いついた。非常口にたどり着いた佐竹の肩を慧がつかむ。
「おとなしく……っ!」
慧は体をのけぞらせた。目の前をナイフが通り過ぎていった。思わず手を放してしまう。
「しま……っ」
佐竹が非常口を開ける。そして、慧の腕がつかまれた。
「おい! 餌だ!」
「っ」
さしもの慧も外に連れ出されてビビった。外にはヴァルプルギスが待ち構えていた。由梨江ではないから慧も二体の相手は苦労する。慧はとっさの判断で佐竹の腕をつかみ返した。
「お前も一緒に行くんだよ!」
「放せっ。慧!」
佐竹が焦った声を上げる。ヴァルプルギスが二人に向かって襲い掛かってきた。慧としては佐竹を捕まえられるのなら怪我を負っても仕方なしと言う気分だが、さすがに死ぬのはまずい。嫌だ。
まずはうろたえている佐竹の首に手刀と落とす。最初からこうすればよかったのかも。気絶した佐竹を放置し、慧は由梨江を見習って近づいてきたヴァルプルギスを蹴りつけた。
「いって」
さすがに硬くて痛かった。というか、こいつはよく見るタイプのヴァルプルギスだが、もう一体はすでに人型ではなく、四足歩行だった。これってヴァルプルギスなのか?
「討伐師は本職じゃねぇんだけど」
仕方がない。覚悟を決めて人型のヴァルプルギスを斬りつけた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
吉野さん、私にも年齢不詳なのですが、たぶんゆりちゃんの父と同じくらいの年。




