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聖女加護、解約済みです。王太子殿下の頭皮は自己責任でございます【連載版】  作者: あゆと


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14/14

014 温かいスープは冷めません

王城での現地確認を終えました。

聖女加護は、契約として扱われることになりました。

婚約者特典は戻りません。


そして、温かいスープは食後まで待ってくれません。

 翌日の昼。


 ローゼンベルク公爵家の食堂には、温かいスープの湯気が立っていた。


 鶏肉と根菜のスープ。

 焼きたての丸パン。

 香草入りのバター。

 蜂蜜を少し落とした紅茶。


 特別な料理ではない。


 けれど、皿の上に湯気がある。


 それだけで、まだ少し胸の奥がゆるむ。


 王宮の鐘は鳴らない。

 殿下の寝癖も、頭皮も、頭部装具も、今この匙を止める理由にはならない。


 私は、ひと口目を飲んだ。


 温かい。


 喉を通った熱が、胸の奥へゆっくり落ちる。


 それを確認してから、ようやく少しだけ息を吐いた。


「エルミナ」


 母がやわらかく言った。


「今日のスープは、昨日より少し根菜を多くしてあります」


「甘みがあって、おいしゅうございます」


「それはよかったわ」


 母はにこりと笑った。


 その微笑みに、加護は入っていない。


 契約もない。


 必要もない。


 ただ、家族が食卓にいて、温かいものを温かいうちに食べている。


 それだけのことが、ずいぶん遠くまで戻ってきたように感じられた。


 父は食後に読む予定の封筒を、食卓の端へ寄せている。


 姉は赤ペンを持っていたが、まだ紙には触れていない。


 セドリックは銀盆を持って控えているが、今日は誰も急がせない。


 急がないというだけで、食堂は少し広くなる。


「お嬢様」


 セドリックが静かに言った。


「王妃陛下より、正式通知が届いております」


「食後に」


 私は匙を置かずに答えた。


 セドリックは、ほんの少しだけ目元をやわらげた。


「承知いたしました」


 食後。


 その言葉を、自分で自然に使えたことに、私は少し驚いた。


 母は何も言わず、私の皿へスープを少し足した。


「お母様」


「食後に読むなら、今は食事です」


 正しい。


 たいへん正しい。


 私は、もうひと口スープを飲んだ。




 食後に確認した王妃陛下からの正式通知は、簡潔だった。


 王家中枢分の聖女加護は、正式再契約。


 王城の最低限空調。

 王妃陛下の偏頭痛軽減。

 国璽を押す時の手ぶれ軽減。

 重要書類の誤字防止。

 王太子殿下の健康維持。

 発言前思慮補助三倍。


 必要なものは、契約として残る。


 不要なものは、戻さない。


 そして、最後に、はっきり書かれていた。


『婚約者特典は、廃止とする』


 私は、その一文をしばらく見つめた。


 短い。


 けれど、とても重い。


 婚約者だから。

 王家のためだから。

 聖女だから。

 今だけだから。

 少しだけだから。


 そうして広がり続けたものが、ようやく一文で止まった。


 黒いインクで。


 正式な紙の上で。


「よろしゅうございます」


 私は、そう言って通知を閉じた。


 声は、思ったより落ち着いていた。


 姉が赤ペンを持ち上げる。


「婚約者特典、完全終了。確認」


「お姉様、赤ペンで書くのですか」


「大事なところです」


 父が穏やかにうなずいた。


「大事だね。契約は、終わる時も明確でなければならない」


 母が紅茶を置く。


「これで、食事中に頭髪の話をしなくて済みますね」


 私は少しだけ黙った。


 セドリックが銀盆の上から、もう一通の封筒を持ち上げる。


「なお、王太子殿下より、生活習慣改善報告書の様式について照会が届いております」


 食堂が静かになった。


 母が紅茶を見つめる。


 姉が赤ペンを構えた。


 父が目を伏せた。


「食後ですね」


 私が言うと、セドリックは一礼した。


「すでに食後でございます」


「では、頭皮箱へ」


「生活習慣でございますが」


「頭皮に近いです」


「承知いたしました」


 分類は、ときに広い。


 婚約者特典は終わった。


 けれど、頭皮箱はまだ終わらない。


 世の中には、そういうものもあるらしい。




 昼食の片づけが終わる頃、セドリックが再び食堂へ入ってきた。


 銀盆ではなく、来客札を持っている。


「お嬢様。王国監査院、ユリウス・クラウゼ様がお見えです」


 私は、少しだけ背筋を伸ばした。


 ユリウス様。


 私の聖女加護管理台帳を、私的な覚書ではなく、監査資料として扱うべきだと言った方。


 台帳を笑わなかった方である。


「お通しして」


 そう言いかけて、私は自分の前にまだ紅茶が残っていることに気づいた。


 セドリックが先に言った。


「クラウゼ様は、温かい食事やお茶の途中でしたら、食後で構わないとのことでございます」


「……そうおっしゃったのですか」


「はい。記録は冷めませんので、と」


 食堂の空気が、少しだけ変わった。


 母が目を細めた。


「まあ。まともな方ですね」


 姉が赤ペンを置いた。


「記録は冷めない。よい表現です」


 私は、紅茶の湯気を見た。


 まだ温かい。


 王宮では、温かいものより先に呼び出しが来た。


 神殿では、後光の方が先だった。


 王太子殿下は、頭髪の不安を追伸にして送ってきた。


 けれど、この方は、紅茶が冷めることを当然のように気にした。


 たいしたことではないのかもしれない。


 でも、私には少しだけ大きかった。


「では、紅茶をいただいてから」


「承知いたしました」


 セドリックは一礼して下がった。


 私は、紅茶を飲んだ。


 温かかった。




 応接室に通されたユリウス様は、今日も地味だった。


 黒い上着。

 飾り気のない書類鞄。

 整った礼。


 派手なところはない。


 けれど、部屋に入った瞬間に、机の上の台帳と、封筒の並びと、私の手元のしおりを一度で確認していた。


「ローゼンベルク嬢」


 ユリウス様は深く礼をした。


「お食事中にお邪魔していなければよいのですが」


「お気遣い、ありがとうございます。紅茶までいただきました」


「それなら安心しました。温かいものは、温かいうちがよい」


 その言い方が、あまりに当然だったので、私は返事が一拍遅れた。


「はい」


 父が静かに席を勧める。


「クラウゼ殿。本日は監査院としての用件かな」


「はい。正式通知を持参しました」


 ユリウス様は、書類鞄から一通の封筒を取り出した。


 王都大神殿の金色封筒とは違う。


 王太子殿下の頭皮照会とも違う。


 飾り気のない、まっすぐな封筒だった。


「聖女加護管理台帳の写しを、王国監査院の正式保全資料とします」


 応接室が静かになった。


 私は、膝の上の手を少しだけ握った。


 ユリウス様は続ける。


「この台帳は、誰かの便利帳ではありません。王国が何を、誰に、どの名義で頼ってきたかを示す記録です」


 便利帳。


 その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 そう扱われてきた。


 誰かの寝癖。

 誰かの後光。

 誰かの巻き髪。

 誰かの自尊心。

 誰かの自然な微笑み。


 みんな、便利だから台帳に増えていった。


 けれど、この方は、それを便利帳ではないと言った。


「正式保全となれば、閲覧範囲、写しの作成範囲、照合対象、保存期間を定めます。原本はローゼンベルク家に残すべきです。監査院が無制限に持ち出すものではありません」


 姉の赤ペンが動いた。


 原本持ち出し不可。

 閲覧範囲指定。

 写し範囲指定。


 ユリウス様は、その赤字をちらりと見た。


「前回より、審査は進んでいますか」


「今のところ高評価です」


 姉が答えた。


「光栄です」


 ユリウス様は真面目に返した。


 少しも冗談にしていないところが、かえって面白い。


 母が紅茶を置いた。


「クラウゼ様は、台帳を笑わないのですね」


「笑う理由がありません」


 ユリウス様は、静かに言った。


「記録は、派手でなくても残ります。むしろ、派手な言葉ほど消えやすい」


 私は、台帳の角に指を添えた。


 婚約破棄の宣言は、派手だった。


 神殿長の後光も、派手だった。


 王宮楽団の太鼓も、たいへん派手だった。


 けれど、残っているのは台帳である。


 インクの文字。


 項目番号。


 確認印。


 本来評価額。


 停止条件。


 誰も読まなかった月次報告。


 それらが今、王国の正式資料になる。


 私は、ゆっくり息を吸った。


「承知いたしました。写しの範囲については、確認のうえ提出いたします」


「急ぎません」


 ユリウス様は即座に言った。


「正確な写しは、急がせると壊れます」


 私は、思わずユリウス様を見た。


 その言葉は、以前にも近い形で聞いた。


 急がない。


 冷めない。


 壊さない。


 この方の言葉は、派手ではない。


 けれど、不思議と机の上に残る。




 父が書類を確認しながら尋ねた。


「監査院としては、次に何を照合する予定ですか」


「王都大神殿、王宮儀礼局、王宮楽団、王太子側近団、貴族街社交調整会。まずは契約名義と請求内容、実際に聖女加護で支えていた項目の照合です」


 聞き慣れた名前が並んだ。


 後光。

 聖鐘。

 シャキーン。

 マント。

 巻き髪。

 肌つや。

 衣装負荷。

 自然な微笑み。


 全部、笑い話のようで、契約になれば記録である。


「なお」


 ユリウス様は、一枚だけ別紙を取り出した。


「王妃陛下より、もう一点、正式な同席要請が出ています」


「同席要請でございますか」


「はい。王都大舞踏会です」


 私は、目を瞬いた。


 王都大舞踏会。


 王族、貴族、神殿、楽団、側近団、各国の使節まで集まる、王都で最も大きな社交行事の一つ。


 かつての私は、王太子殿下の隣に立つ婚約者として出席する予定だった。


 今は違う。


 ユリウス様が差し出した書面には、王妃陛下の整った文字が並んでいた。


『正式再契約後、初の大規模王宮行事として、王都大舞踏会の運用状況を確認したい』


 私は、文字を追った。


 王宮楽団。


 王太子側近団。


 貴族街社交調整会。


 王宮侍女。


 王家中枢加護。


 王太子殿下。


 それから、式典上の安全確認項目として、王族品位維持頭部装具。


 最後の項目だけ、少し圧がある。


「……確認項目が多そうでございますね」


「多いです」


 ユリウス様は、淡々と答えた。


「王宮楽団は、祝典曲の運用確認。側近団は式典時演出補助の範囲確認。貴族街は巻き髪湿気耐性加護の共同契約申請中。王宮侍女は自然な微笑み補助なしでの礼節維持。そして王太子殿下は、頭部装具の式典上の安全確認」


 姉の赤ペンが走った。


 大舞踏会、確認項目過多。


「お姉様」


「事実です」


 ユリウス様はうなずいた。


「監査院も同席します。契約範囲と実運用にずれが出やすい場ですので」


「ずれ」


 私は、王太子殿下の頭部装具が台帳の上へ着地した瞬間を思い出した。


「落下も含まれますか」


「前回、落下記録がありますので」


「事故記録は強いですね」


「はい。強いです」


 真顔だった。


 この方は、頭皮箱にも頭部装具にも、真顔で対応する。


 なかなか強い。


 母が、少しだけ心配そうに私を見た。


「エルミナ。舞踏会に出るということは、また王城へ行くのね」


「はい。ただし、婚約者としてではございません」


「聖女として?」


「契約確認者として、でございます」


 言ってから、少しだけ苦笑した。


 舞踏会で踊るより、契約範囲を見る。


 私らしいのかもしれない。


 ユリウス様が、静かに言った。


「ローゼンベルク嬢が表に出る必要は、最小限でよいと考えています。監査院としては、台帳と照合できる立場の方に同席していただければ十分です。社交上の負担は、王妃陛下と調整します」


 まただ。


 この方は、当たり前のように負担を減らす方向から話す。


 便利だから来てください、ではない。


 必要な範囲を確認しましょう、と言う。


 私は少しだけ、言葉を選んだ。


「ありがとうございます」


「業務上、必要な調整です」


「それでも、助かります」


 ユリウス様は一拍だけ黙った。


 それから、ほんの少し目元をゆるめた。


「では、そのように記録します」


「記録なさるのですか」


「重要ですので」


 姉が赤ペンを動かした。


 助かった、記録対象。


「お姉様」


「良い記録です」


 母が、少し笑った。




 ユリウス様が帰ったあと、応接室には大舞踏会の招待状と、監査院の同席通知と、聖女加護管理台帳が残った。


 私は台帳へ手を伸ばしかけた。


「エルミナ」


 母が、やわらかく止めた。


「食後に」


「もう昼食は終わっております」


「では、お茶の後に」


 私は、目の前の紅茶を見た。


 湯気が、まだ少しだけ立っている。


 確かに、まだ温かい。


 父が穏やかに言った。


「大舞踏会は逃げないよ」


 姉が赤ペンを持ったまま言う。


「頭部装具は逃げる可能性があります」


「お姉様」


「落下記録がありますので」


「事故記録は強いですね」


「はい」


 私たちは、少しだけ笑った。


 加護の入っていない、普通の笑いだった。


 私は紅茶を取った。


 王宮の鐘は鳴らない。


 殿下の頭部装具も、今は落ちてこない。


 王都大舞踏会の確認も、監査院の正式保全資料も、頭皮箱の分類名も、今この瞬間の紅茶より先ではない。


 私は、ひと口飲んだ。


 まだ、温かい。


 温かいものを、温かいうちに。


 それを、私はようやく自分に許せるようになっていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


第一部完結です。


聖女加護は、契約として扱われることになりました。

婚約者特典は戻りません。

無償提供も戻りません。


そして、次は王都大舞踏会でございます。

王宮楽団、側近団、貴族街、侍女、王太子殿下、頭部装具。

確認項目は多そうです。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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