1.推し磨き
『推しに認知されるどころか、結婚とかあり得ない!』
――そう思っていたのに。
「エメル、おはよう……エメル?」
推しの甘い声が聞こえる。
「……んん、ログボ逃す……はっ!?」
毎朝目の前にあるのは、大好きなゲームの、画面越しの黒竜――ではなく、3次元の半竜半人。
生の推し挨拶を回収するのが、もはや当たり前になっていた。
「あっ、起きた……?」
黒髪の隙間からのぞく黄金眼が、私をまっすぐに見つめている。
「おっ、おはようございます……ドラグ様」
にじみ出る色気から逃れようと、顔を逸らせば。黒い手が伸びてきて、私の髪をすき始めた。
「いつもクセつかないよね……エメラルドの髪、やっぱり綺麗だ」
耐えろ、エメルレッテ。
耐えて息を吸うんだ――。
そう胸の中で繰り返していると。
「……信じられない。僕みたいなのが、君とこうして朝を迎えられるなんて」
いまだに夢みたいだ――と、夫は遠慮がちに笑った。
「ヴッッッ!」
危ない。
あの顔と自信のない割に大胆なセリフに、最後の一撃を入れられるところだった。
本家とは似ても似つかない気弱竜のくせに、こういう時だけ妙に大胆なのだから困る。
「あ、あの、ドラグ様?」
「ん……なに?」
今度は私の番だ。
腰に絡む尻尾をさりげなく外しながら、「元のお姿に戻ってくださいません?」とお願いしたところ。
「……うん、いいよ」
少しだけ間を置いて、彼はベッドから降りていった。
「わぁ……!」
ツノが伸び、肌の鱗がより強靭なものへと変わっていく――何回見ても、やっぱり歓声を上げてしまう。
やがて夫は、ツノの先から足の爪まで、すべてが竜の姿に変わった。
『……はい、どうぞ』
高すぎると思っていた天井が、低く感じるほどの位置へと伸びた頭。それを夫は、観念したようにベッドへ下ろした。
ここからは、私の“生きがいタイム”の始まりだ。
「ありがとうございます! それでは失礼いたしますわ」
枕の下に隠していた磨き布を取り出し、無防備な2本ツノに近寄った。
黒い表面に触れた瞬間――。
指先に、ひやりとした硬さと、吸いつくような滑らかさが返ってくる。
それだけで、息がこぼれた。
「はぁぁ……黄金比の造形美ですわぁ……」
力を入れていないと、顔がとろけ落ちそうだ。
『…………』
推しのツノを、毎朝磨くこと。
これがどうしてもやめられない。
そもそもゲームの“元祖推し”を好きになったのだって、竜の姿、特にツノに惚れたからで――なんて、決して彼には話せないのだが。
『エメル……まだやるの?』
「はい! ここからの仕上げ磨きが重要なのです」
磨くほど艶を増していく、漆黒のツノ。
推しの美しさを、私の手で育てているような感覚になる。
『グッ』
「すみません……! 痛かったですか?」
『ううん、そうじゃなくて』
何かを言いかけたドラグは、いつもの口癖「何でもない」を、青緑の炎とともに吐き出した。
ちょっと、苦しそうに見えたけれど――。
「……では、続けますね」
こういうやりとりが、最近増えている気がする。
どうしたのか確認しても、夫は「痛くない」と繰り返すばかり。
『グルルル』
かすかに喉が鳴っているし、金色の瞳が私を捉えたまま動かない。
何かを訴えかけているような――。
それでも夫は、最後まで何も言わなかった。
「……ドラグ様、ありがとうございました! 今朝の分は終了です」
鱗のついていない首の下を、そっと撫でれば。
夫は安心したように息を吐き、元の姿へ戻っていった。
「じゃあ、今日も一緒に領内視察……行く?」
「あ……はい、もちろん参りましょう!」
私にとって、これ以上ない至福の時間――ツノ磨きは、ドラグにとってどんな感じなのだろうか。
嫌なことを嫌だと言えない彼だが、私への遠慮はやめると約束してくれた。
嫌々やらせてくれているとは思えないが。
「……アレスターに相談してみようかな」
このまま続けても良いのか、ちゃんと知っておきたい。
ドラグを31年間見てきたグロウサリア家の執事なら、あの反応の理由も分かるだろう。
もしも本当に、私が気づかないうちに嫌なことをしていたのだとしたら――。
「エメル……?」
「あっ、な、何でもありませんわ!」
頭によぎる「担降り」の文字を振り切り、寝室の扉をくぐるドラグの後を追った。




