プロローグ
駅前に立つと、冬の匂いがする。
金属と排気と、濡れたコンクリート。吐いた息は白く、街灯の光に触れた途端に薄くほどける。角の花屋のガラス越しに、紫に寄った一束が見える。名前は知らないまま、視界の端に引っかかって残る。
スマホの画面には予定が増えていく。日付が先へ先へ並び、春のことが勝手に形になる。駅前の風は、それとは別の冷たさで頬を撫でる。ここに来ると、一年前の夜が戻ってくる。置いたままにしたものを、踏んだみたいに。
大学三年の冬。彼女と歩いた夜。
終電の少し前で、人は少なかった。改札の電子音が一定の間隔で鳴り、遠くのホームからベルが薄く漏れてくる。明るさは同じなのに、空気だけが疲れている。僕らも疲れていたはずなのに、隣にいるとそれを言い訳にしなくて済んだ。会話は続き、間も続く。沈黙が気まずくないぶん、言葉を足す理由だけが消えていった。
「最近さ、終わった感がない」
彼女が言った。
「わかる。終わったって言えるはずなのに」
「『言えるはず』って言い方がまた」
「ずるい?」
「ずるい。逃げ道作ってる」
彼女は笑った。責める笑いじゃない。気づいてる、の笑い。
「でも、逃げ道いるよ」
「うん。いる」
その「いる」が、変にまっすぐで、僕は返事を遅らせた。言葉を揃えなくても会話が続いてしまう。続いてしまうのに、何も決まらない感じが、ここでも残る。
自販機の前で止まり、彼女が温かい缶を買う。硬貨が落ちる音。缶が出てくる短い振動。
「はい」
渡されて、掌に熱が移る。
「ありがとう」
彼女は僕の手元を一度見て、言った。
「手、冷えてる」
「何でわかったの?」
「…何でだろうね」
彼女は笑って、すぐ前を向いた。僕は缶を握り直す。熱があるのに、喉の奥は乾いたままだった。
言いたいことは、最初から決まっていた。決まっていたのに、口に出す準備だけが整わない。言葉の形だけが頭の中で出来上がって、喉の手前で止まる。彼女が困るとか、迷惑とか、そういう理由を作る前に、ただ、怖い。言ったあとの空気を、想像できてしまうのが怖い。想像できるほど、僕は彼女の横にいる時間に慣れてしまっていた。
改札が見えてくる。境目が近づくと、会話の速度が変わる。彼女の歩幅がほんの少しだけ早くなる。帰る準備の歩き方だ。僕はそれを見て、いつもの言葉を探してしまう。安全な言葉を。
改札の前で彼女が立ち止まり、鞄の肩紐を直した。視線が上がって目が合う。いつも通りの顔。いつも通りの顔が、僕の逃げ道になる。逃げ道だと分かっていながら、僕はそこへ入ってしまう。
「じゃ、私はこっち」
彼女が言う。
僕は頷く。頷いた瞬間に、もう遅い気がした。遅いのに、言葉は出ない。
「……うん、じゃあね」
言ったあと、胸の奥が一瞬だけ軽くなって、すぐに空洞だと分かった。軽くなったんじゃない。落ちた。音のしないまま、何かが落ちていって、そこだけが冷える。
彼女は軽く手を上げて、改札を抜ける。背中は人の線に混ざり、見えなくなる。追いかければ追いつけたはずなのに、僕は追いかけなかった。足が動かなかった、というより、動かす理由を自分で消した。
あの夜、自分で終わらせた。
何も言わないことで、終わりにした。終わりにしてしまえる形に、自分を収めた。
言えなかった。あれが、その夜の自分の限界だった。
駅前で、信号が変わるのを見ている。歩き出すタイミングが、いつも一拍だけ遅れる。吐いた息は白くなって消えるのに、消えずに残るものがある。
残っているのは、あの夜のことだけじゃない。
そこに至るまでの、少しずつ積み上げていった、儚くも輝かしい時間のことまで。




