3話
夜明け前の街は、まだ眠りの底にいた。
石畳は冷え、路地の隅には薄い霜が白く張りついている。俺と参謀は外套のフードを深く被り、人の気配を避けるように裏道を歩いた。
「大通りは避けろ。今ごろ回収班が“告知”を回してる」
参謀は歩きながら言う。街灯のない路地でも迷わない。地理を知りすぎている。
「告知って、指名手配みたいな?」
「そう。君は世界のエラーだ。エラーは“見つけたら報告”が基本。正義感の強い人間ほど危険だよ」
「最悪だな、その世界」
「最悪だ。だから俺は脱走した」
軽口に混ぜるように言うが、そこに嘘はない気がした。
角を曲がると、小さな広場に出た。井戸、パン屋の裏口、粗末な祠。祠の前には木札が立っていて、祈りの言葉が薄く削れている。参謀はその祠を横目で見て、鼻で笑った。
「神様の顔を立てると、台帳の管理が楽なんだよ。信仰は便利なラベルだ」
「お前、ほんとに魔王軍なのか?」
「元、な。今は……ただの現実主義者だ」
広場の端に、古びた看板がぶら下がっていた。文字は読める。なぜか読める。看板の下には小さな店があり、窓は黒布で塞がれ、入口だけが細く開いている。
看板には、こう書かれていた。
――戸籍・台帳・登録代行 夜間可
「……これ、合法か?」
「合法なわけないだろ。けど需要がある。戦争孤児、流民、密航者、脱走兵。台帳に“いない”と、暮らせない」
参謀は入口の隙間に指を差し込み、二回、三回と短く叩いた。間を置いてもう一回。すると、内側から金属が擦れる音がして、扉がわずかに開いた。
中から覗いたのは、白目がやけに大きい男だった。目の下に濃い隈。髭は伸び、指先に黒い染みがある。紙とインクの匂いが鼻を刺した。
「……客か」
参謀はフードの影から笑みだけを見せる。
「客だよ。金もある。急ぎで“新規登録”。一人分」
男の目が俺に移り、舐めるように観察する。次に参謀を見る。最後に、俺の足元に。
「……変な匂いがする」
「それはたぶん、俺の人生」
参謀が冗談で押し切ると、男は鼻を鳴らして扉を開けた。
「入れ。奥だ。喋るな。余計な空気を入れるな」
店内は狭く、壁一面が書類棚で埋まっていた。紙束、封筒、木箱。蝋の匂い。古い金属の匂い。中央の机には、黒い石板が置かれている。石板の表面には細い線が刻まれ、浅い窪みがいくつもあった。
参謀は小声で言った。
「見ろ。あれが“端末の端末”。本物の台帳に繋がってるわけじゃない。けど、登録用の窓口にはなる」
男が机の向こうで椅子に座り、指を鳴らした。
「名前」
俺は固まった。名前。壁が言っていた“次の鍵”。
「……ない」
男の眉が釣り上がる。
「ふざけるな。登録の基本だ」
参謀が間に入る。
「記憶喪失。戦災。よくある。仮名でいい」
男はしばらく俺を睨んでから、ため息をついた。
「仮名でもいいが、後で厄介になる。魂IDが噛み合わないと、どこかで弾かれる」
魂ID。
俺の視界の端が微かに瞬いた。
魂ID:未登録
注記:例外処理対象
推奨:識別子の確定
参謀が俺の耳元で囁く。
「今は生き残るための札が要る。謎の解明は後でいい。まずは“人間として扱われる権利”を買う」
「……じゃあ」
俺は口を開き、舌の上で言葉を転がした。知らないはずの音が、喉の奥に引っかかる。
「……ナギ」
出た瞬間、胸の奥がざわりと震えた。意味がある気がした。けど、掴めない。
「ナギ、だ」
男はペンを走らせ、紙に書きつける。次に石板へ手を伸ばし、窪みに黒い粉を落とした。
「血。指先を切れ」
短い刃が差し出される。俺は受け取り、迷わず指を切った。赤い血が滲む。石板の窪みに落とすと、血は黒い粉と混ざり、じわりと沈んだ。
その瞬間。
石板が、低く唸った。
「……?」
男が顔を上げる。参謀の目が鋭くなる。
石板の表面を走る刻線が、一瞬だけ淡く光り、そして――ひび割れた。
細い亀裂が、血の落ちた窪みから放射状に走る。
「おい」
男が声を荒らげる。
「何をした。普通は反応するだけだ。割れることはねえ」
俺は何もしていない。血を落としただけだ。だが視界の端で、文字が高速に流れた。読める。
登録処理:失敗
例外:魂ID未登録
代替処理:仮ID発行(制限付き)
監視フラグ:付与
監視フラグ。
背中に氷水を流されたみたいに冷たくなる。
参謀が息を吐き、わざと軽い声で言った。
「珍しい個体だね。そりゃ戦災で記憶飛ぶわけだ。頭の中に石でも入ってるんじゃない?」
「黙れ」
男は苛立ちを押し殺し、棚から別の石板の欠片を取り出した。割れた石板の上に重ね、蝋で封をする。
「時間をくれ。完全な登録は無理だ。だが“仮ID”なら出せる」
「仮でいい。今夜中に」
参謀が金貨袋を机に置く。男の目が金に吸い寄せられ、ほんの少しだけ態度が変わった。
「……わかった。けど条件がある。街の門番とギルドの検問には通せるが、神殿の正式審査は無理だ。そこで弾かれる」
「神殿は後でいい」
参謀は即答した。
「まずは街で生きる。次に、情報を集める。次に――」
参謀の視線が俺に向く。
「台帳の本体へ行く」
男は紙を折り、封筒へ入れた。封筒には赤い印が押される。仮登録証。これが“人間の証明”。
「持て。なくしたら死ぬぞ。物理的にも、社会的にも」
俺は封筒を受け取った。その紙一枚が、やけに重い。
視界の端が点滅した。
仮ID:発行
登録名:ナギ
有効期限:14日
制限:神殿審査不可
監視フラグ:ON
二週間。短い。まるでこの世界が、俺に猶予しか与えないみたいだ。
参謀が出口へ向かいながら小声で言った。
「いいか、ナギ。これで君は“存在する”。でも同時に“見つかる”」
「監視フラグってやつか」
「そう。つまり今日から君は、追われる側として正式デビューだ」
俺は封筒を握り、外套の中へしまった。
「……追われるのは慣れてない」
「俺も慣れてない。だから逃げ方を教える」
参謀は扉を開け、夜明けの冷たい空気へ身を滑らせた。街の遠くで鐘が鳴る。朝の始まり。
その音に紛れて、どこかで甲冑の擦れる音がした気がした。
「行くぞ」
参謀が言う。
「ギルドに顔を出す。登録証の真偽を確認される前に、“使い道がある人間”だって印象を植え付ける」
「ギルドに? 正面から?」
「正面から。君の最強は戦場じゃない。“社会”だ。台帳に当てられる前に、世間の都合で守らせる」
その発想に、俺は少しだけ笑った。
HP1の俺が、社会に守られる? 冗談みたいだ。
でも、冗談が現実になる世界なのかもしれない。台帳が空に浮かぶ世界なら。
俺たちは夜明けの街へ溶け込んだ。
そして俺の知らない場所で、どこかの“監視”が、確かにこちらへ向きを変えた。




