恐怖
誰? が、
いつの間に? 鍵を。
ドアチェーンのお陰で、完全には開かないまま閉まった玄関ドアを呆然と見つめながら、疑問がグルグルと頭のなかで踊る。
そんな私の目の前で、ドアチェーンを警戒するようにゆっくりと玄関ドアが開く。
男のものとしか思えない指先が、ドアの隙間から差し込まれた。
ドアチェーンを外されたら?
何かの工具で切られたら?
フリースのポケットに入れていた携帯で、リダイヤルを押す。
通話の繋がるまでの数コールが、やけに長く感じられた。
[慎之介さんっ、たすけてっ]
呼び出し音が途切れたと同時に叫ぶ。
[登美さん?]
[玄関に、誰かいるの。怖い。戻ってきて]
トントンと軽い音を耳が拾う。頭を上げると、差し込まれた指が音を立てて踊り、ドアの隙間から外にいる人と目が合った。
悲鳴、も出なかった。
ただ、息だけが漏れる。
「登美さん、俺だから。ここ、開けて」
電話越しの声と同じ言葉が、ドア越しに聞こえる。
「登美さん、聞こえる?」
「し、のす、け、……ん?」
「うん。ごめん、脅かして」
這うようにして、玄関ドアに近づく。押さえていた手が引っ込んで、ドアが閉まる。
壁を伝って立ち上がり、ドアスコープから覗いてみた。
顔の前に左手を立てて、謝るようにしている慎之介さんが居た。
「本当に、ごめん」
ドアチェーンを外して、改めてドアを開けると、頭を掻きながら慎之介さんが入ってきた。
腰が抜ける、ってこういうことなんだ、って、靴脱ぎ土間にへたり込んでしまった。
「なんでぇ?」
「うん?」
「鍵ぃ……」
手に持っていたビニール袋を足元に置いた慎之介さんは、私と目を合わせるようにしゃがみこんだ。
「登美さん、かなりつらそうだったから。出て行く時に鍵をかけるために、さっき使った鍵をそのまま拝借した」
「はぁ? さっきの鍵?」
「うん。帰ってきた時に……ほら」
帰ってきた時?
鍵を開けようとして、手が震えていて。慎之介さんが……代わりに開けてくれた。って、あの時!
「それはそうと。登美さん。ガス、使ってない?」
「あー、ヤカン」
忘れてた。
座り込んで立てない私の横をすり抜けるように部屋に上がった慎之介さんが、ガスを止めてくれるのを体を捩るようにして眺める。
「空焚き、にはなってないみたい」
「うん」
「何、しようとしてたわけ?」
「湯たんぽと、生姜湯」
「なるほど」
戻ってきた慎之介さんは、私を抱え上げてもう一度ベッドへと連れて行ってくれた。
「生姜湯、か。確かに、温まるな」
「うん。たまに風邪をひいても、それで治るから」
子供の頃から、田舎のやぶ医者の風邪薬で治った試しがない。一番効くのは、お母さんが作ってくれる生姜湯をフーフー冷ましながら飲んで、そのままお布団に入る事。
『さっきのお詫びに、俺が作ろうか?』って言ってくれた慎之介さんの言葉に甘えることにして、食器を入れている棚からマグカップと生姜湯の素を出してもらう。
「登美さん、これ空」
生姜湯の素が入っていた空箱を手にした慎之介さんが振り返る。
「あれぇ?」
十袋入りで買ったはずなのに。いつの間に……?
「あー。昼間飲んじゃったっけ」
「昼間?」
「うん。ちょっと寒気……」
言いかけた私の顔を、彼が怖い顔で睨んできた。
「登美さん」
わざわざベッドの横までやってきて、膝をついて覗き込んできた彼から目を逸らす。
「『さっきから調子が悪くって』じゃないよね? それは」
「……」
「昼から調子が悪かったなら、ちゃんと言いなよ。それにもっと暖かい格好しておいで」
今みたいな、と言われて改めて自分の服に目を落とす。
うわぁぁぁ。
フリースの上着に、毛玉の浮いたタートルニット。それに裏起毛のマキシスカートって。彼氏に見せる格好としては、”無し”じゃない?
極めつけに、モコモコスリッパの下は、五本指ソックスだ。見えてないけど。
もう、泣きそう。
目を擦りかけて、気がついた。
私、今コンタクトじゃない。
瓶底メガネ、だ。
ダメだ。
なんか、もう。全身の力、抜けた。
べちゃりと崩れるようにベッドに倒れこんだ私の、横倒しになった視界の中で、慎之介さんがなにやらキッチンでごそごそやっている。
「ほら、起きて。これ飲んでから、寝なよ」
近づいてきた彼の声に、髪で顔を隠すように俯きながら起き上がる。膝の上においた手を少し伸ばせば届くあたりに、湯気の立っているマグカップが差し出されたのが見えた。
「なに? これ?」
「風邪に効く漢方薬」
「『眠くならない風邪薬』?」
「でも、飲んですぐに寝たほうが、絶対に効果はあるよ」
「ふぅん」
俯いたままカップに口をつける。
うわぁ、なんともいえない匂い。味もだけど。
「不味いぃ」
「我慢して飲みなよ」
「慎之介さん、飲んだことあるわけ?」
マグカップで両手を温めながら彼を睨むと、苦笑している。
「俺、市販の風邪薬飲めないから」
「へ?」
「総合感冒薬って、基本カフェインが入っているんだよ」
「ほー」
頷きながら、つい一口啜って。うー。不味い。
「だから具合が悪くなったらすぐに医者に行くか、どうしてもって時は、薬屋で相談しながら漢方を飲んでる」
「そういえば、どうしてこんなものが家に?」
「さっき、買いに行ってきた」
タクシーを降りたバス停の向こうに薬屋が見えたから、さっきは相談しに行ってくれてたって。
そっかぁ。
我慢しながら、不味い薬をゆっくりと飲む。
「寒気がする熱の時にはこれが一番効くのは、自分で飲んで知ってるし」
「うん」
「ただ、『昼から調子が悪かった』って言うのは誤算だけど」
「うん」
頭の上から聞こえる慎之介さんの声が、なんだか暖かい。
湯たんぽの準備までしてもらっている間にパジャマに着替えて、ベッドにもぐりこむ。
「ヤらなくってもいいから、一晩ここに居るよ」
メガネをはずして、ぼやけた視界の中で慎之介さんの声がする。
「いいの?」
「っていうかさ。どうして、そこで”ヤル”ことを引き合いに出すのか、俺には理解できないんだけど?」
「だってぇ」
今まで付き合った男は、”ヤレない状態”で一晩過ごすなんてありえなかった。
何か”お願い”をしたときは、”御礼”にヤラせてたし。
「あんまり聞きたい話じゃないけど。今までの男って、そういう奴ばっかりだったわけ?」
「うーん」
違ったのは……リョウ、くらいか。
何かお願いをしても二つ返事でいつも聞いてくれてたっけ。バンドが忙しくなるまでは。
彼の部屋で一緒にお酒を飲み明かしただけ、の夜もあったっけ。
そう考えると、今まで付き合った男で、人間として彼以上の男って。
慎之介さんが初めてかもしれない。
夜中、ふっと目が覚めた。
寝汗で、全身がびっしょりしている。咽喉も渇いた。
『どっこらしょ』って、お婆さんみたいに小さく声をかけて起き上がる。
エアコンが稼動している部屋の真ん中。ローテーブルにうつ伏せるように慎之介さんが眠っていた。
肩からコートを引っ掛けたその姿に、彼に毛布ひとつ出してないことに気づいて、そっとクローゼットから綿毛布を出してコートのうえからかける。
そして、音を立てないようにそっとシャワールームで体をふいて着替えた。
コン、とノックの音がして、ビクッとした。
「登美さん? 大丈夫?」
「慎之介さん?」
「うん。目が覚めたらベッドにいないから」
「汗かいたから、着替えようと思って」
「そっか」
『汗が出だしたなら、一山越えたな』なんて声が、さっきより少し遠くで聞こえた。
ガスコンロの火をつける音がする。
汚れ物を洗濯機に放り込んでから、ドアを開ける。
ヤカンを眺めている慎之介さんが振り返る。
「汗かいたなら、咽喉が渇いただろ?」
「うん」
「こんなの、飲む?」
彼が指差したのは、調理台の上に置いてあるマーマレードみたいな瓶。
「ゆ、ず、茶?」
「そ。生姜湯みたいに、温まるよ」
「飲んでみる」
「じゃ、俺も飲みたいから、マグカップ借りてもいい?」
「うん」
二人でローテーブルを挟んで、熱々のゆず茶をフーフーと冷ましながら飲む。
なんとなく目が合って、微笑みあって。
照れて、俯いて。
”夜明けのコーヒー”を慎之介さんが飲むことはありえないけど。
初めて二人で過ごす夜に、”夜更けのゆず茶”。
これも、悪くない。
翌朝、劇的に熱が下がったわけではないけど。
昨日の夜に比べると、格段に楽になった。
「薬って、効くものなのねぇ」
感心しながらレトルトのおかゆを食べている私の横で、コンビニのサンドイッチを食べていた慎之介さんが咽る。
「大丈ぉ夫?」
「登美さん、さっきのは俺の仕事、全否定」
「あれ? そう?」
「そう。”効く薬”を作るために、日夜研究を重ねているのに」
「だったら、カフェインの入ってない風邪薬作ればいいのに」
「会社の方向性が違うからね」
「へぇ」
そっか。風邪薬を作っているわけじゃないんだ。
ひとつ、慎之介さんのことを知れた。
「あのさ、登美さん」
ご飯の後、ゆず茶を飲みながら慎之介さんが言いにくそうに口を開いた。
「はぁい?」
「昨日から、気になってたんだけど」
何が?
あ、格好? やっぱりメガネはダメかなぁ?
「昨日、なんていうか、その……結構、きわどいこと叫んでたじゃない?」
「きわどい?」
「うん。下ネタ的な」
あー。はい。
「叫んだ、と思う」
「あれ、やめたほうがいいんじゃないかな?」
目をそらすようにして、彼がマグカップに口をつける。
「登美さん、子供時代にそういう話題を平気でする人が身近にいるような環境で育った?」
「……ううん。べつに」
強いて言うなら、学生時代の友人か。
『時給がいいから』って理由で、いわゆる”夜の接客業”のバイトをしていた子で、大学に入って一ヶ月も経つころには『日替わりで”お迎え”の男子が女子大の校門前に車を横付けにしている』と有名だった。
高校を卒業するまで、ほとんど男子と会話らしき会話をしたことの無かった私には、目を丸くするような話だけど。
『彼女みたいになれば、きっと私も一杯恋ができる』と思った私は、まず、彼女と仲良くなった。
そして、そんな彼女と友達づきあいをしてみると、仲間はみんな、あけっぴろげにエッチな話をした。
最初は恥ずかしかった私も、そんな話題に男子が食いつくことが分かる頃には、なんとも思わなくなっていた。
彼がマグカップをテーブルに戻した音で、思い出から呼び戻された。
「ああいうことを言ってると、男に軽く見られるよ?」
「軽い?」
「そ。『遊ぶのに丁度いい、軽そうな子』って」
「そうかなぁ?」
「そうなの」
言い切った慎之介さんが、じっと私を覗きこむ。
「考えてみなよ。今までの男、登美さんのことをどれだけ大事にしてくれた?」
「大事に?」
「そう。ヤル、ヤラないに関係なく、登美さんのこと考えてくれた男、居る?」
「……」
そこまで言われると……私の今までの人生、なんだったのかしら。
考え込んでいると、慎之介さんが立ち上がる気配がした。
「そんなに、熱が上がりそうなほど考え込まなくってもいいと思うけど」
「……うん」
「言葉遣いの一種だよ? この二ヶ月ほどで語尾がマシになったのと、変わらないって」
そう言って、空になったマグカップを二つ手にした慎之介さんが、キッチンに向かう。
その日、お昼過ぎまでいてくれた慎之介さんは、『もう一晩、ゆっくり寝な』と言って、帰って行った。




