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バレンタイン

 この年初めてのデートで、他愛ないキスに『煽られた』と言った慎之介さんは、その翌週、ひとつの提案をしてきた。


「お泊り?」

「うん。バレンタインの直前に三連休があるだろ? そのあたりで俺の部屋に」

「うーん」

 どうしよっかなぁ、って言いながら見上げた彼の目が、熱っぽくゆれている。


 よし、乗った。その話。

「じゃぁ、少し早めのバレンタインに、『私を ア・ゲ・ル』」

 背伸びをするようにして彼の耳元でささやくと、一瞬で真っ赤になった。

 女に縁が無い職場って言っても……免疫無さ過ぎ。

 思わず洩れた笑いに、憮然とした顔の慎之介さんが、私の頭を抱え込む。

「登美さん、俺で遊んで楽しい?」

「痛ぁい。離してぇ」

「ダメ。言葉が戻ってるから、離さない」

「それ、今はぁ関係ないぃ」

 

 やっと離してもらって、乱れた髪を直しながら彼を睨む。

「もう」

「こっちが『もう』だよ」

「でも、チョコレートより、良いんじゃないの?」

「それは、そうだけど」

 『俺の自制をどうしてくれる』なんて呟きながら、慎之介さんがぐるりと首を回す。

 ポキっと音がして、彼がため息をつく。

「慎之介さん、疲れてる?」

「今ので、一気に疲れた」

「肩でも揉んであげようか?」

「登美さんが?」

「うん」

 うなずいた私の手を、慎之介さんが取る。

 いつもみたいに手をつなぐのだろうと思っていたら、彼はそのまま私の手を眺める。

 今日は左の薬指にだけ、ワンポイントで蝶が入れてある。


「登美さん。この爪で肩揉まれたら、俺が怖い」

 慎之介さんたら、ネイルの感想じゃ無くってそんなこと?

「怖いぃ?」

「頚動脈にブスっと」

 『昔のホラー映画とかで……』なんて言いながら、自分の首を引っかくような仕草をしてみせる。

「刺・さ・り・ま・せ・んっ」

「いや、分からないって」

 どんな凶器よ。私の爪って。


 そんな事を言い合いながら、その日の夕食に向かったのは焼き鳥屋だった。

「登美さん、結構、何でもいける口だよね」

「そう、かな?」

「この前はビールで、今日は焼酎をロックでって」

「だって。ここ、”幻の焼酎”があるんだもん」


 このお酒を教えてくれたのは、誰だったっけ。

 ああ、そうそう。リョウと別れた直後に付き合った、バイト先の上司だ。

 今考えると、彼も何考えていたんだろうね。二十歳の小娘に、そんなレア物を飲ませるなんて。

 って、”ナニ”か。酔って、そのまま美味しく頂かれたわ。


「そんなにおいしい?」

「一口、飲んでみるぅ?」

「いいの?」

 頷いた私の目を見つめながら、慎之介さんがグラスに口をつける。

「どう?」

「なるほど」

「でしょ?」

 傍から聞いていたら意味不明な会話で、十分互いの気持ちが伝わる。

 肌の下をコソコソと幸福感が走り抜けるようなくすぐったさに、身をよじる。 


 二月の連休まで一ヶ月足らず。

 もう一歩、慎之介さんに近づく”その日”の約束を抱えて。

 いつもと同じように駅で別れた後、私は一人、家路を辿った。



 カウントダウンをするように、一月の残りを過ごす。

 

 女に、免疫のなさそうな慎之介さん。  

 まさか、童貞とか……言わないよねぇ。って、それはそれで。面白いかも。

 真っ赤になった慎之介さんの、手取り足取り。”私色”に染めてあげる。

 ふふふ。バージン好きな男って、普段、こんなこと妄想してるのかしら。


 今までの彼氏とは、”その場の雰囲気”で寝てたから。こんな風に、あれこれと思いをめぐらしたことなんて無かった。



 イケナイ妄想の罰があたったのか。

 三連休の初日、慎之介さんとの待ち合わせに向かいながら、私はかすかな悪寒を感じていた。

 時々、思い出したように、背骨の横を震えが走る。

 きゅっと首をすくめた私の視界に、黒いコートを着た慎之介さんが近づいてくるのが見えた。


「また、寒そうな格好して」

 本当ならブーツにしたかったけど。初めて、慎之介さんの部屋に上がるのに、ブーツは臭いとか……ちょっと抵抗があって。

 悩んだ末、今日の格好もいつもどおりのミディ丈のスカートにパンプス。

「いいでしょ。慎之介さんが寒いわけじゃない」

「見てるこっちが寒い」

 そう言って私の手を、自分のコートのポケットに入れた。

「慎之介さん?」

「うん?」

「歩きにくい」

 身長差があるから、中途半端に手が持ち上がって、肩が凝りそう。

「こっちの方が……」

 慎之介さんの左腕を両手で抱え込む。

 身長差のある相手と歩くときには、この体勢が一番密着できると気づいたのは、リョウと付き合ってすぐだった。

 たまには、リョウとの経験も役に立つことがあるのね、なんて考えながら見上げた慎之介さんの顔。

 何かを探るように私を見つめる彼と、目が合う。

「登美さん」

「はぁい?」

「……いや、いいや」

「なによう」

「いいって。気にしないで」

「気になるのっ」

「それで、暖かい?」

「うん」

 『本当に暖かい』か、といわれると微妙だけど。

 気持ちが暖かいから、いいじゃない?


 とは、いうものの。

 慎之介さんの家の最寄り駅から二十分ほど歩いたところにあるビストロについた頃には、『気のせい』ではすまない程度の悪寒がするようになっていた。

 まずい。これ。

 今夜、バーンと熱が上がりそうな予感がする。


 せっかくのコース料理も、なんだか食欲が無くって。

 ナイフを持つのが、億劫。


「登美さん」

「はぁい?」

「どうした?」

「なぁにがぁ?」

 デザートのチョコアイスの冷たさに呼ばれたように背中を走った震えを我慢していると、慎之介さんが顔を覗き込んできた。

 視界に、大きな手のひらが近づいてくる。


 ひんやりした手が額に触れた。

 その手の冷たさが、新たな悪寒を呼ぶ。

 肩に力がはいる。


「熱、あるじゃないか」

「……」

「いつから、しんどかったの?」

「……ついさっき」

 うーん、と唸りながら腕を組んだ彼を上目遣いに見ながら、デザートスプーンをお皿に置いた。

 ゆっくりとコーヒーを飲む私の正面では、慎之介さんの分のチョコアイスが溶けて、水たまりを作っていた。



 店を出て歩き始めた慎之介さんの腕に、来た時と同じように抱きつく。

 暖かいとか寒いとかじゃなくって。ヒールの足元が、覚束ない。生まれたての仔馬みたいに、足がプルプルしている気がする。


 慎之介さんに導かれるまま、どのくらい歩いただろう。

 私のすぐ横に、一台のタクシーが停まった。

「登美さん、乗って」

「え、え?」

「ほら」

 押し込まれるようにして、座席に座らされる。

「送って行くから、今日は帰りな」

「えぇー」

「『えぇー』じゃない」

 押し問答をする私たちに、運転手さんがイラついた様な声をかけてきた。

「どちらまで?」

「ほら、登美さん」

 促す慎之介さんと、バックミラー越しに睨む運転手さんに負けて、私はしぶしぶ住所を告げた。


「着きましたよ」

 運転手さんの声に、目が覚めた。

 いつの間にか、眠っていたらしい。

 隣で支払いをしている慎之介さんの顔を、ぼんやりと眺める。

「登美さん、降りれる?」

「無理ぃ]


 一足先に降りた慎之介さんが、差し伸べてくれた手を借りて道に足を下ろす。

 立ち上がった瞬間、グラリとヒールが滑る。

「おっと」

 掴んだ手を引っ張られるようにして倒れこんだ先は、広い胸だった。

 そのまま片手で抱え込まれる。


 タクシーが降ろしてくれたところは、最寄りのバス停だった。私の住む1Kのマンションは、ここからだったら信号を一つを渡って、シャッターの下りた花屋の角を曲がった所。

 問われるまま、慎之介さんに道順を説明して、部屋へと歩き始める。


 慎之介さんに手を引かれるようにして、信号は渡ったけど。

 膝に力が入らない。

 っていうか、このままここで座り込んで、お地蔵さんになりたい。


「何を馬鹿なことを」

 呆れたような慎之介さんの声がしたと思ったら、ふわりと身体が宙に浮いた。

「ふぇ?」

「こんなところでお地蔵さんになってたら、死ぬよ。今夜は寒いし」

 顔のすぐそばで、慎之介さんの声がする。

 私ったら。抱き上げられてる。

 お姫様抱っこで、道を歩いた男なんて……今まで、いない。

 経験の無いシチュエーションが妙に恥ずかしくって、彼の首筋にしがみついた私は顔を肩に埋めた。

「寝ちゃ、だめだよ」

「うん」

「この角は、どっちだっけ?」

「右。で、その二軒目のマンション」

「OK」

 クルリと風景が回る。 

 しばらくして、マンションのエントランスに入ったのが分かった。


 さすがにエントランスではおろしてもらって、自分の足でエレベーターへと向かう。とは言っても、肩を抱かれたままだけど。

 無言のまま三階で降りて、カバンからキーホルダーを出す。

 手が小さく震えて、鈴がチリチリと音を立てる。

「寒い?」

「うん」

 大きな手が、私の手から鍵を握りとる。そのまま、ドアが開けられて真っ暗な玄関へと入る。


 手探りで明かりをつける。

 パンプスのストラップに指をかけて……そのままつんのめりそうになった。

「うわっと」

 お腹に手が添えられて、体重を支えられる。

「座るか何かしなよ」

「大丈ぉ夫」

 壁に手をついて、体を支える。

 靴を脱いでいると、慎之介さんが

「登美さん、風邪薬ある?」

 と、尋ねてきた。

「無ぁい。めったに風邪なんてひかないしぃ」

「そっか。じゃぁ、風邪以外で普段から薬飲んだりは、している?」

「ううん」

 薬、きらい。


 

 そんな会話を交わしながらなんとか靴を脱いで、ベッドまで抱えるように運んでもらった。

「じゃぁ、ちゃんと暖かくして、寝ときなよ」

 慎之介さんがそう言って、背中を向けた。

 ゾクゾクしている体を抱きしめながら聞いた言葉はなぜか、心の中まで冷やすように感じられた。

「慎之介さん」

「うん?」

「そばに居て?」

 縋りつくようにして彼の腰に抱きつく。

「ヤッてもいいから。一人にしないで」

 

 無性に、さびしい。

 人恋しい。


 そんな私の言葉に、ふーっと深いため息をついた慎之介さんは、黙って私の手を外すと玄関のほうへと広くも無い部屋を横切って行く。

「慎之介さんのバカーっ」

「役立たずっ、冷血漢っ」

 それから、それから……。


 怒らせてでも、慎之介さんの足を止めたかった。振り向いてほしかった。

 なのに。

 いわゆる”放送禁止用語”を、思いつく限り叫ぶ私の声を断ち切るように、玄関ドアの閉まる音が寒い部屋に響いた。



 音を無くした部屋の中。

 のろのろと服を脱ぐ。

 部屋着に着替えて、フリースを羽織る。 

 コンタクトレンズをはずして、化粧を落として。

 ひどい顔色をした私が、鏡の中からこっちを見ている。


 湯たんぽを作って、生姜湯でも飲んで。

 冷たい慎之介さんのことなんて忘れて、暖かく眠ってやるわ。


 温まったら速攻で寝てやろうと、かけ忘れていた玄関のドアチェーンをかけて。

 ヤカンにお湯をわかす。


 湯気が上がりだしたヤカンの口をボンヤリと眺めている私の耳に、玄関ドアに鍵を挿すような音が聞こえた。 


 鍵?

 なんで?


 足音を忍ばせるように、玄関へと向かう。明かりの消えた玄関スペースをキッチンからの照明が薄く照らす。

 

 カチャリ、と音を立てて、サムターンが回る。


 ガーン、とドアチェーンに阻まれた派手な音を立てて、玄関ドアが開かれた。 

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