由来
年末の忙しい時にもかかわらず、慎之介さんに言われたことが頭から離れなくって。
仕事中、『課長っ、この伝票ですがっ』とか『木下さんっ、このっ書類っがっ』とか、妙なしゃべり方になってしまって、『何を苛ついてるの?』なんて言われる始末。
もう。慎之介さんたら、ひどい。
この落とし前はどうつけてもらおうかしら。
そんな私を知らずに、
【お正月は、どうする?】
なんて、のんきに慎之介さんからメールが来た。
【田舎に帰って、家族と過ごします!】
冷たく返信。”お怒りマーク”の絵文字もつけて送ってやる。
【そうか。じゃぁ、戻ってきたら連絡して】
そんな返事に、苦笑する彼の顔が見えた気がした。
見てなさい。
次に会うときには、バッチリ言葉を直してやるから。
そんな決意を胸に帰省した実家で、お節を両親とつつきながら、ふと思い出した。
『登美』の名前の意味。何かあるんだろうか。
「ねぇ。お母さん」
「なに?」
最後の一個になったクワイを摘んで、お母さんが私のお皿に入れる。これ、嫌いなんだけど。
いまさら、”芽が出て”も……。
いや、恋愛の芽?
ソレはそうとして。
「私の名前、どうして登美にしたの?」
「ええぇ? この歳になって訊くの?」
きゃーっとか、いい歳をしたおばさんが取り箸を手に、身悶える。
「ねぇってばぁ」
「お父さんがつけたの」
「お父さん?」
ビールを飲みながらテレビの駅伝を見ていたお父さんが、こっちを向いた。そのまま、取り皿の上の昆布巻きを口に運ぶ。
「ねぇ。私の名前、由来とかあるのぉ?」
「由来か」
少し考えたお父さんが、ビールに口をつける。
一気に飲んだ後、くーっとうなり声を上げてから。
昔話が始まった。
お母さんとの初めてのデートが、映画でな。アメリカのミュージカル映画だった。
ラストシーンで『山を越えて、虹をつかみ取れ』みたいな意味の歌を背景に、主人公一家が自由を求めて国境の山を越えるんだ。
三十年経った今でも鮮明に覚えているくらい、印象的なラストだった。
その歌を、おまえの名前にしたんだよ。
困難の山を”登れ”ば、”美しい”虹がつかみ取れるって。
「じゃぁ、登美子でもよかったじゃなぁい」
せめて、”子”をつけてくれたら……。
「それは、お祖母ちゃんが嫌がった」
「お祖母ちゃんがぁ?」
お父さんは苦い顔をして、お代わりの注がれたグラスを口に運ぶ。
「お、抜かせ、がんばれ」
テレビに視線を戻して、駅伝を応援しだす。
「お父さんってばぁ」
「これ」
お母さんに窘められたけど。
お父さんがテレビから、視線をこっちに向けてくれた。
「『とみこ』は、お父さんの死んだ妹の名前だ」
「え?」
なに、それ。
そんなこと、知らない。
「お父さんは、末っ子じゃないんだ。妹がいた。一歳になる前に、空襲で死んだ妹が」
「……」
「お祖母ちゃんも本当の親じゃない。後妻さんだよ」
「そんな……」
空襲でお父さんは、母親と妹を亡くした。
学童疎開のおかげで一人生き残ったお父さんは、終戦後、伯父の家で父親の復員を待った。
復員してきた父親のもとに、三人の子供を抱えて寡婦になった遠縁の女性が後妻に入った。それが、今のお祖母ちゃん。
こうしてお父さんは、長男から一気に”四人兄弟の末っ子”になったらしい。
「さすがに、夭逝した子と同じ名前は……って、な」
そう話を締めくくると、お父さんはトイレに立った。
自分の名前に、そんな由来があったなんて。
夢にも思わなかった。
その夜、自宅に戻った私は、慎之介さんに電話した。
〔もしもし? 登美さん?〕
こっちが名乗る前に聞こえた彼からの声に、鼻の奥がきゅーっとなる。
〔あけましておめでとう〕
〔おめ、でとぉう〕
咽喉に声が引っかかる。
〔どうした? あんまり、めでたくなさそうな声だけど?〕
〔慎之介さんの、ばかぁ〕
〔おいおい〕
耳に押し当てた携帯電話から、苦笑するような響きが流れてくる。
〔登美さん、新年早々、穏やかじゃないけど〕
〔慎之介さんがぁ、名前の由来聞いてみろなんてぇ、そそのかすからぁ〕
〔あ、訊いたんだ。どうだった?〕
〔訊かなきゃ、よかったぁ〕
グスグスと、涙声になってしまった。
涙声のまま、今日聞いた話を慎之介さんにする。
自分の名前、嫌いなままでいればよかった。
あんな話聞いてしまったら……お祖母ちゃんや、お父さんの想いが名前に染み込んでしまった。
大事にしないと。
早くに死んでしまった、『とみこちゃん』の分。名前も、人生も。
年明け最初のデートは、成人の日だった。
見てなさい、慎之介さん。生まれ変わった私を。
「『久しぶり』って、言っちゃう?」
「『会いたかった』の方が、いいなぁ」
敬語の取れた慎之介さんに、私も注意深く言葉を返す。
クスリと笑った慎之介さんが差し出す手を取る。
その日は、あの静かな喫茶店へ行った。
雪の降り出しそうな道を並んで歩きながら、お正月休みの話を互いにする。
仕事納めの翌日から実家に帰っていた慎之介さんは、大晦日には高校時代の友人と飲みに行っていたとか。
「キリさんには、会えたのぉ?」
「他のヤツが、連絡取ったんだけど。『元旦に嫁さんの実家に行くから、三日の日なら』って言ったらしくって。そんなの、無理だし」
「無理、かなぁ?」
「翌日が仕事始めだよ?」
「それは、そうだけど」
「そもそも、県外に住んでるやつが帰ってきてるから、って飲みに行く話になってるのに」
「あぁー。なるほどぉ」
相槌を打ちながら、結婚した友人たちと何度か繰り返したやり取りを思い出す。専業主婦になった子達は、仕事のある平日だって事を忘れたお誘いをかけて来ることがあるよねぇ。
キリさんも、同類ってことかしら。やっぱり、無職っぽい。
「それに」
喫茶店のドアを押し開けながら、慎之介さんが悪戯っぽく見下ろしてくる。
「三日の夜に飲みに行ってたら、登美さんからの電話受けられなかっただろ?」
反則。
真っ赤になった顔を隠すように俯きながら、慎之介さんが押さえてくれているドアをくぐる。
注文を待つ間、向かい合って座る慎之介さんが私の手を軽く持ち上げた。
お姫様の手をとる騎士みたい。
真剣なまなざしで見ていたかと思うと、彼の指が私の爪の上を撫でた。
「これは……接着剤で?」
「接着剤?」
「このビーズみたいなのは、何で留めてあるの?」
「あー。ネイルのことぉ?」
先週は小花を散らしていたネイルは、昨日の夜、爪の根元にゴールドのストーンを並べたものに変えた。
珍しそうに指先を眺めている彼に説明をしている間に、飲み物が届いた。
「ホットレモネード?」
「寒いからね」
相変わらずコーヒーが飲めない慎之介さんが、熱そうに耐熱ガラスのカップに口をつける。
「ココアは?」
「あれもカフェイン入っているから」
「へぇ」
知らなかった、って思いながら私もコーヒーを口にする。
うふふ。いい香り。
「って、あれぇ?」
「うん?」
「慎之介さん、チョコレートももしかして……」
「あぁー」
唸るような返事をして、慎之介さんが顔をしかめる。
「味は、好きなんだけどさ。数は食べられない」
”数”、ねぇ。
「今まで、どれだけ頭痛を起こしてきたのやら」
ムカつくままに、言ってみる。
「今まで?」
「そ、バレンタインとかぁ。貰わなかったとか言わないでしょ?」
「うーん。貰ったのはそのまま友達に流していたから、それほどでも」
「余計に、ムカつくっ」
「ふうん。登美さん、ムカついてくれるんだ」
ニヤニヤと笑いながら、私の顔を覗き込んできた。
「だってぇ」
「数も多くないし、完全に義理チョコばっかりだったから、友達に食ってもらった。キリたちは俺の体質を知っているし、あいつらのほうがたくさん貰ってたし」
本当かなぁ? 無理して食べて、頭痛を起こしてたんじゃないの?
「じゃぁ、バレンタインは、チョコ以外がいぃい?」
「うん。できれば。それこそマシュマロでもクッキーでも」
「高校生のホワイトデーじゃないっ」
つい高くなった声に、慎之介さんがしーっと唇に人差し指を当ててくる。
あわわわ。
キス以上にエロティックな感じがしたのは……気のせい?
喫茶店を出て、夕食までの時間をフラリフラリとそぞろ歩く私たちに、淡い雪が降ってきた。
「寒ぅい」
「そんなに足を出してるからだろ?」
「だってぇ」
どんなに寒くても、スカートを穿くのは私にとってアイデンティティのようなもの。
それも、野暮ったいロングスカートなんてありえない。四十過ぎても、五十になっても。ミディ丈のタイトを穿いて、七センチヒールで歩くのが私なの。
「冷えるよ?」
「温かい物食べるもーん」
「じゃぁ、鍋物の店にでも行こうか」
「うんっ」
電話でお店に予約を入れて。
どんな鍋が好きか、なんて慎之介さんと話しながら市境の駅へと電車で向かう。
リョウと付き合っている時、一緒に鍋物をつつくなんて考えられなかった。ご飯を食べに行くなら、友達の間で話題になっているような小洒落たレストランじゃなきゃ嫌だ、なんて言っていた。リョウも、当たり前のようにそんなお店を探し出しては、連れて行ってくれた。
それは、その後付き合った男たちとも同じ。連れて行ってくれるレストランの”格”が、自分の女としての”格”のように思っていた。
けれど今は、慎之介さんとお鍋を食べようって盛り上がれるのが、なんだか嬉しい。
豆腐チゲのお鍋で暖まって、軽くお酒も入れて。
ホコホコした気分のまま、お店を出た。
「ね、慎之介さん」
「なに?」
「言葉、がんばって直したでしょ?」
褒めて? ね?
「うーん」
「まだ、だめ?」
「勝率五割、だったら、落第じゃない?」
「うちの高校、赤点は三割だった!」
「教科の半分落としたら、アウト」
「えぇー、そっちぃ?」
「そ、『そっちぃ』」
くー。真似された。
「登美さんは」
「うん?」
「飴と鞭、どっちが効くのかな?」
「はぁ?」
「ご褒美とお仕置きだったら……」
慎之介さんの口から出てきた言葉に、古い記憶がよみがえる。
『ほら、トミィ。やれって』
『嫌よ、こんな人の多いところで』
『嫌がるから”お仕置き”だろ? ほら、キスしてみろよ』
大学卒業してすぐに別れた男。
彼は、『お仕置き』だの『ご褒美』だのと言っては、キスをせがんだ。
「慎之介さん」
「うん?」
手招きをするようにして、顔を近づけてもらう。
ナイショ話をする態勢になった慎之介さんの口元に……チュ。
「お仕置き、これで許して?」
「と、と、と、と」
「なに? 鶏?」
覗き込んだ私の目を避けるように、彼が手で顔を覆った。
さすが、大きな手。
片手で覆われた手からかろうじて見えている耳が赤くなっている。
「慎之介さーん」
「と、と、」
「だからぁ」
顔を覆っている右手の肘をつかんでゆする。
しばらく力比べをしているうちに、体が冷えてくしゃみが出た。
やっと、慎之介さんが顔を見せた。
「登美さん」
「なによぉ」
「なんで、俺が罰ゲーム受けるわけ?」
「罰ゲームって……ひどっ」
そんなに私のキスは、嫌なの?
「ひどいのは、登美さんのほう。こんなところで煽ってどうする気? 明日は、お互いに仕事だっていうのに」
「煽ったぁ?」
そんなつもりは……無くもなかった、か。
初めて交わすキスが、慎之介さんとの距離を縮めるパワーにならないかなって。
恨みがましい目で見下ろす慎之介さんに、クスリと笑ってみせる。
「煽られたんだ?」
「もう、ね。『登美さん』って呼ぶのに、舌が回らないくらい動揺した」
「ああ、そうなんだぁ。子供が鶏呼んでるのかと思ったぁ。『と、と、と』って」
「いくら、俺が『ピヨ』だからって」
「あ、キリさん……」
「とか、高校時代の友達連中。あぁ、部活の先輩とか、一学年下の後輩もか」
「なんで、『ピヨ』?」
「”にわとり”に、半分しか成れてないヒヨコって。先輩につけられた」
「……ちょっと待って?」
「うん?」
「慎之介さんと結婚したら、私……」
「にわ とみ?」
「もっと、”にわとり”に近いじゃないっ」
「うん。ピヨじゃなくって、ピヨ子くらいになるな」
うわぁ。考えもしなかった。