4色目-インビジブル・カラー-
教室に戻ったぼくを待っていたのは、言うなれば「いじめ」だった。机上には油性のマジックで死ねとか消えろとかそんな暴言が書かれていた。
どうして……と、言葉を失った。どうしてぼくがいじめられなくてはならないのか。いくら考えてみたところで答えはでない。
いじめられる原因がそもそもないのだ。
「これは……」
「酷いね……」
ぼくも美影もそれを見て何も言えなくなっていた。
「――誰? 梓にこんなことしたの――誰?」
美影がクラスメイトたちに聞こえるように言った。こんなに大きな声を出したのは初めてかも知れない。
「誰って訊いてるの! 答えなさい!」
美影はさらに声を大きくした。それにはさすがにみんなが注目した。
「もう一回訊く。これをやったのは誰?」
やめて、美影。誰も名乗るはずがない。それ以上言って美影までいじめられたらどうするの。
「美影……やめて……。大丈夫だから……」
「でも……」
「いいから」
美影の肩を掴んで止める。
「…………わかった」
美影はしばらくぼくを見たあと、納得はしていないようだけど、承諾してくれて席に戻った。
先生には気付かれない様に午後の授業をやり過ごして、放課後を迎えた。
「一体誰がこんなこと……」
誰もいなくなった教室で、ぼくと美影は暴言が書かれた机を見下ろしていた。
「ぼく、なにかしたっけ?」
「梓は何もしていない。それなのにこんなことするなんて……。絶対許さない」
美影はまるで自分のことの様に怒ってくれた。
「犯人、絶対に見つけて先生に突き出す」
静かに、けれども激しく怒っていた。
「美影、このことにはもう関わっちゃだめだよ」
「どうして?」
「美影までいじめられるかもしれないでしょ? そうなったら嫌だから……」
「でも……」
「ぼくは大丈夫だよ。美影が心配してくれるだけでいいんだ」
美影に心配をかけまいと笑う。
「なら……いい……。梓の言う通りにする……」
「ありがとう」
ぼくはさっきよりもっと分かりやすい笑顔を浮かべた。
「帰ろう、梓。こんなの長く見てるものじゃない」
「そうだね。今日も寄り道していい?」
「うん。どこに行くの?」
「路地裏。今朝描けなかったから、帰りにでもと思って」
「そう……なんだ……。お弁当……作ってたから?」
「――ううん、違うよ。気分が乗らなくてね」
「そう……」
美影はどうやら自分のせいだと思ったらしい。そんなことはないというのに。
「行こう。日が暮れると色が変わっちゃうから」
「うん」
美影は自分の机の上に置いてあったカバンを持つとぼくの隣を歩き出す。
「……今日も晴れてよかったね」
ぽつりといきなり、美影が言った。
「どうして? あ、晴れてる方が好きって人多いもんね」
「そうじゃなくて。晴れてると、梓は帰りに絵を描けるでしょう?」
美影がこちらを向く。
目から鱗だった。だって美影が誰かを気にかけたのなんて初めてのことだったから。
「私は梓の絵を見たことはないけれど、きっと綺麗だと思う。梓は私よ遥かに多く綺麗なものを知っているか、きっと綺麗なものを描くのも上手だと思う」
「それは言い過ぎだよ。ぼくだって綺麗なものばかりを見てきたわけじゃないもん。穢いものだって見てるから、汚い絵になることだってあるよ」
美影のぼくに対する過大評価にも驚いた。とりあえず謙遜しておく。
「神様じゃないんだから、美しいものだけを見てることなんてできないよ。……あ、そこ右に曲がるから」
「ここ?」
「もう一本先の道」
今朝と同じ路地裏。猫は流石にいなかった。
「ここさ、朝はいつも猫がいっぱいいるんだ」
「そう……なの……」
「うん」
「それは全部、飼い猫? それとも野良猫?」
「どうだろう。そこまで細かくは見ていないから解らないな」
「そう……」
「どうかしたの?」
「ううん……。何でもない……」
美影の声は明らかに落胆を表していた。
「そっか。ねえ、この空の色、綺麗だと思わない? 紫とオレンジが混ざったようなさ」
「綺麗……というよりは不気味だと思う。私は色についてそんなによく知らないから……上手く言えないけれど……そんな感じがする」
「不気味……かぁ……。確かにそうだね。でもそれが魅力の一つっていうかさ」
わからない? と、美影に笑いかけるけれど彼女は首を傾げるばかりで共感はしない。別に共感してほしいわけじゃないんだけどね。
「……そろそろ日が暮れる。遅くまでここに居てはだめ。また梓が危ない目に遭うかもしれない」
「そう……だね。帰ろう」
本当はもっと描いていたいと思ったけど、美影が心配してくれている。帰らないといけない。
帰り道、やっぱりぼくたちは無言だった。お互いの帰り道が分岐するいつもの十字路まで、一言も声を発することはなかった。
「じゃあ、また明日ね」
「また明日。……気を付けて」
美影は最後にぼくを気遣う一言を添えた。
「うん。またね」
手を振って美影を見送った。
帰宅すると、目の錯覚はその誤差を大きくしていた。「青色」が完全に見えない。光の強弱でしか「青色」を認識出来ないということがはっきりと分かった。
「どうして……」
「おい、梓。帰ったのか? 飯食いに行くぞ」
「あ……はい……」
帰宅早々戸惑っていたぼくを迎えたのは同居人だった。この時間から家にいるなんて珍しい。何かあったのだろうか。
「あの……仕事は……?」
「ん~? 店が改装工事らしいからな。しばらく休みだ」
ということはしばらくは家にいるということか。
「それより、飯食いに行くぞ。腹減った」
「はい」
ぼくは決して愛想がいいとは言えない同居人のあとを付いていった。
夜の繁華街のある店に着いたところで同居人は足を止めた。
「ここは……」
「俺の行き付けの店」
ぶっきらぼうにそう言い放った同居人はズカズカと店に入って行った。
こんなふうにこの人がぼくを連れ出すなんて珍しいから何かあるんじゃないかと思ったけど、今のぼくには何もわからないし、何もできない。着いていかなければいけない。
その店はいわゆるバーのようなところだった。
「あの……どうしてぼくをここに?」
「単なる気まぐれだ。深い意味なんてない」
「そう……ですか……」
座らされたカウンターの奥には色とりどりの酒のビンが並んでいて、光をこちらに反射していた。
「というかお前、こういうの好きだろ?」
ぼくは驚いた。いつもお互い関心を示さないこの同居人がぼくの好きなものを知っているというのはあり得ない話だからだ。
「そんなに驚くなよ。部屋にあれだけ色鉛筆ありゃ、分かるだろ?」
「それは……そう……ですけど……」
よもやそれだけとは思えない。だって四年間ぜんぜん会話どころか顔すら見ていなかったというのに。それだけで分かるというのはなんとも人間離れしたことではないか。
「だから、な? お前も飲め」
「えっ……」
「折角連れてきてやったんだ。付き合えよ」
「でも……ぼく、未成年だし……」
「そんなの気にするなって。ここじゃ気にする奴らは居ねぇよ」
同居人はそう言ってカクテルを二つ注文した。
バーテンダーがシャカシャカと酒を振り混ぜる音がする。
まもなくして差し出されたのは、透明な炭酸の液体にさくらんぼが添えられたものだった。
「どうだ? こんな青、お前好きだろ?」
青――といわれてもぼくには透明にしか見えない。液体がそこにあるというのは光の反射でわかるんだけど……。
「飲め。旨いぞ」
同居人はぼくにそれを飲むことをすすめ、自分もそれを煽る。
どれだけすすめられても未成年が飲むというのは気が引ける。ぼくはグラスに手をつけずにただ呆然とグラス内の炭酸の泡が弾けるのを眺めていた。その間にも同居人は酒の肴となるものを適当に注文し、黙々と飲み続ける。ぼくは――ただ座っているだけだった。
無言の時間が続いた。それはどれくらいだったのか、この店には時計がないしぼくも腕時計を持っていなかったからわからないけど、一時間以上は経っていたように思える。
「――おい」
そんな沈黙を破るように同居人が低い声を発した。
「お前、さっきから一口飲んでねぇじゃねぇか。あれか? 俺の酒は不味くて飲めねぇってことか? あぁ?」
すでに酔っていた。機嫌が悪い。
「そんなこと……」
「だったら飲めよ。飲めるんだろ? 何のために俺がこの店に連れてきたと思ってやがる。このためだろうが」
圧力をかけてくる同居人の口調は穏やかなものではなかった。ぼくを見るその目は怒りに満ち満ちていて、断ることが許されない状況を作り出していた。
「……い……いただきます……」
小声でようやくそう言ってグラスに指をつける。透明な液体は口に近づくほどに泡が弾ける音を大きくした。
グラスの端を口につけ、少しだけ傾ける。さくらんぼが少し回転して、傾けた方向に落ちてくる。口の中には炭酸の刺激と、苦い酒の味が広がった。それを無理やり飲み込むと、喉に焼けるような痛みみたいな違和感が広がった。
気持ち悪い……。吐き出したい……。
そう思ってもそれは許されない。必死に堪えるしかない。
気分が優れないぼくは明日も早いからと嘘をついて席を立った。おぼつかない足取りで路地裏に抜けるとコンクリートブロックの壁に背を預けてもたれていた。
(吐いちゃだめだ……。もう少しだけがまんしないと……)
気力だけで持ちこたえるものの、それもそろそろ限界にきていた。気づけばこみあげてくるものをこらえきれずに膝をついて吐き出していた。みっともない、醜態をさらしていた。でも誰も見ていないのだ。何ら気にすることはないはずなのだ。それでもなんだか嫌だった。
自分が吐き出したものを見て更に気持ち悪くなって、二回目の嘔吐をした。
もう胃の中は空っぽで、胃酸が喉を焼く。口の中には酸性の液体特有のすっぱい味が広がった。
「うぇ……うぅ……」
呼吸が乱れる。ゼェ、ゼェ、と荒い呼吸はしばらくの間治らなかった。
*
どこかで猫の鳴き声がした。
……ああ、そっか。路地裏にいるんだもんね。猫くらいいるか……。
ミャァ。
また一声鳴いた。目を開けるとそこには一匹の白い猫がいた。青いはずの目は色を失って薄い灰色だ。
「……目、覚めた?」
聞きなれた声のする方向に目を向けると、美影がいた。
どうして彼女がここに……?
ぼくは路地裏に倒れて……。
そう思ってあたりを見回すけど、そこは路地裏なんかじゃなくて、ひとつの部屋だった。
「ここは……」
「私の部屋。部屋から人が倒れているのが見えたから、様子を見に外に出たら梓が倒れてた。具合、どう?」
「だいぶいいよ。ありがとう。今……何時?」
「十二時を過ぎた所。もう遅い。泊まっていけばいい」
「でも……」
「未成年が深夜に出歩いたら補導される。知らないはずはないでしょ?」
「そうだけど……でも……」
女の子の家にいきなり泊まっていいものだろうか。
「家族は? 迷惑じゃないの?」
「誰もいない。私は独り暮らしだから」
「ぼくと……同じだ……」
「え?」
「え? ああ……なんでもないよ」
「梓も独りなの?」
「……うん。一人暮らししてるのと同じだよ……」
うつむき、笑みを浮かべる。
「同じってことは、誰かと一緒に住んでるの?」
「遠縁の親戚だよ。さっきまでい一緒にいたんだけどね。さきに帰ってきたんだ」
「具合が悪くて?」
「まあ、そうかな。……お酒、飲まされたんだ」
「お酒……」
美影が苦しそうな表情をした。もしかして美影も飲まされたことがあるのかな?
「私も……飲まされた事がある……。苦しいのはよく解る……」
「そっか……」
ぼくたちは黙り混んだ。
「何か……飲む? アルコールが残ってるなら薄めないといけない」
「じゃあお水がいいかな?」
「待ってて」
美影はそういって部屋を出ると、部屋は静まりかえった。
やることもなくなったぼくは部屋中を見回した。さっきは部屋にいるってことくらいしか認識できなかったけど、よく見ると女の子らしい部屋とは言いがたかった。
かわいらしい小物もなければ家具すらろくにない。ぼくが寝かされていたベッドと小さな机くらいだ。洋服をしまうところすらろくになくて、きっと制服しか着ていないのだろう。
「梓、お待たせ。冷えてないけど、飲んで」
「ありがとう」
ひとつの小さなコップに入れられた透明の液体を口に含むと水の美味しさに感動した。水ってこんなに美味しいんだ……。
「私、もう寝るね。梓はその布団使っていいから」
美影はそう言うとおもむろに制服を脱ぎ始めたからぼくはあわてて後ろを向いた。
「? 梓? どうかした?」
「美影っ、着替えてるからっ……!」
「別に見たって構わない。私は気にしない」
「いやっ、でもっ!」
「着てるから問題ない」
「……え?」
思わず振り向くと、そこには茶色のTシャツと黒のスパッツを履いた美影がいた。
「寝よ。おやすみ」
美影はそう言って床に寝転がった。
「電気は?」
「好きにすればいい。スイッチは枕元」
「消すよ」
「うん」
「おやすみ」
「……おやすみ」
お互いそう言ってぼくは電気を消した。




