3色目-青が薄れる-
翌朝、けたたましく鳴り響くアラームを止めるべく毛布から這い出て腕を伸ばす。枕元にある絶賛振動中のタッチパネル式携帯は画面に指が触れたとたんに鳴りやみ、あたりを静けさが包む。
(そろそろ起きないと……。でも眠い……)
眠いのも無理はないでしょ、と言い訳したくなる。誰にとかは訊かないでほしい。答えられないんだから。
外はまだ暗い。携帯の画面に表示されたデジタル時計は04:03で、まだ誰も起きてこない時間帯だろう。
ぼくだって何もなければこんな時間に起きたりしない。理由があるんだ。ちゃんとね。
のそのそとベッドから這い出てクローゼットを開ける。ハンガーにかけてある制服に手早く着替えると、静かに階段を降りる。顔を洗って台所に立ち入ると、散らかっているのがよくわかる。同居人は片付けも家事も苦手だというのは四年前からわかりきっていたことだ。今さらどうしようもない。ぼくがやるしかないんだ。
片付けをしていると不思議に思うことがあった。いつも使っている皿の色が、心なしか黒い。鮮やかな藍色のはずだけど、今見ているのは明らかに藍色を通り越した紺色だ。おかしいなと目をこすっても見間違いではないらしい。
料理を盛ったからといって色が変わるような皿ではないし、変な化学薬品を入れたわけではない。多分変色はしないはずだ。薬品にそんなに詳しくないからわからないけど。
とりあえず色のことはどうしようもないから洗い終えたその皿は食器棚にしまった。
そしていつものように朝食を作り始める。ぼくはお米が好きだから、朝はいつも和食だ。基本的に朝起きてこない同居人の分は考慮しなくていいから、ぼくは好きなように作らせてもらっている。まあ、材料が許す限りでだけど。
そういうわけで米を研ぎ、水に浸す。そしてその間に味噌汁を作る。水を張った鍋に煮干しを入れて火にかける。具は乾燥ワカメと油揚げだから沸騰するまでに油揚げを切ってしまえば特にすることはない。おかずも卵焼きさえあればそれでいいから、しばらく待つことになる。その間に少しぼくの話をしようか。
ぼくは十二歳の時に両親を亡くした。不慮の事故だった。交通事故というよりは、仕事での話だね。
両親は共に化学薬品を扱うところで働いていた。品質管理とかをしてたんだろう、きっと。どちらも化学者だったんだ。
小学生だったぼくは詳しい仕事内容を知らなかったけど、すごいことをしていたんだなっていうのはなんとなく知ってた。
そんなある日、事故は唐突に起こった。後から知ったことなんだけど、部下の一人がある薬品を間違って混ぜてはいけない溶液に混ぜてしまったらしい。それは起爆性のあるものだったから、想像できる通りに爆発し、研究室は熱風と高温、そして業火に包まれた。当然、人なんて生きていられるはずのない環境だから、研究員たちは全員死亡。遺体どころか骨すら残らなかったという。そのせいかどうかわからないけど、ぼくは両親が死んだという実感が持てなかった。……いや、今でも持てないでいる。いつか迎えにきてくれるんじゃないかと思って暮らしている。
その後ぼくは遠縁の親戚に引き取られたけど上手く馴染めず色んな家を点々とした。二年間そんな生活を続け、今の家に落ち着いた。夜の仕事をしている今の同居人とは生活時間が合わず、実質一人暮らしをしているようなものだからお互い何も迷惑をかけずにすむ。案外心地のいい生活かもしれないと満足してはいる。
お互い大きな物音さえ立てなければ何をしてもいいのだから、これ以上の好条件はないだろう。
生活費も毎月親戚が一応面倒みてくれているから問題ない。管理の仕方はすぐに覚えた。
そんなことがあって今の生活に至るんだけど、特に困ったことはない。強いていうなら早起きかな。徐々に慣れ始めてはいるけど、やっぱりまだ苦手だ。低血圧はそう簡単に治るものじゃない。
あ、お湯が沸いた。ワカメと油揚げを入れて少しまた加熱する。その間に卵を二つ取り出して割る。その後適当に味をつけて焼いて盛り付ければ完成。ちょうどよくワカメも戻ってきたから味噌を溶き入れて完成。ごはんも炊けたしすぐに食べられる。
でも今日はもう少し作る。お弁当だ。美影とぼくの二人分。今日の早起きはこのためだ。色々考えたけど、お金もあまりないから贈り物なんてできない。自分にできることを考えて、思い付いたのがこれだけだった。
それに美影、昨日何も食べてなかったし、あんなに細かったんだからきっと家でも何も食べていないんだろうと思う。だから、食べてほしかった。何でもいいけど、なるべくなら暖かみのあるもの、誰かが作ったものの方がいい。
冷蔵庫から挽き肉やら玉ねぎやらほうれん草やら色々取り出す。
ほうれん草はおひたしに、挽き肉と玉ねぎは肉団子にして弁当に詰める。あとはミニトマトがあるからそれを半分に切ってバジルを振りかける。和風にしようと思ったけれど、トマトはこの食べ方が一番美味しいと思ってるから譲れない。なんかイタリアンな感じになるけど気にしない。
全部が完成した頃には既に6:18だった。そろそろ朝ごはん食べよう。
覚めた味噌汁を温め直して盛り付ける。そして食べて歯を磨いたらぼくは家を出た。まだだいぶ時間はあったけど、風景画を描きたくて早めに出た。灰色やくすんだ色しかない路地裏もたまには描いてみないと練習にならない。
いつもとは違う道を通って路地裏に抜けると、猫たちがいた。縄張りらしいけど、ぼくは荒らしにきたわけじゃないからそこにただ立ってひたすらにその景色を描く。彼らも威嚇する気配はないから少しほっとして画材を取りだし描き始める。
その時ある違和感に気が付いた。建物と建物の間から見える空――それが色を失ったかの様に白っぽい。天気予報では雲がかかる素振りなど見せず、快晴だったと思ったけど……。
天気予報も万能ではないみたいだ、なんてひとことで片付けられる問題ではない。雲がかかっているなら太陽の光も遮られるはずだ。でも、それがない。ということは空は晴れ渡っているわけだ。どうしてこういう現象が起こっているのだろう。ここにいる猫たちはそんなのお構い無しにのんびりとしている。ぼくの目がおかしいの?
気分が乗らない。そこにあるはずの色がないなんて、おかしいことだ。不気味と言ってもいいかも知れない。何だか気持ち悪かった。心なしか、色鉛筆の青色と水色も色が暗くなったり、薄くなったりしていたように思えるけどそれは杞憂であってほしい。ぼくが愛してやまないその小さな世界にだけは裏切られたくなかった。
ぼくは色鉛筆のアルミケースに蓋をすると、鞄にしまって学校までの道を歩き出した。
教室には――というより学校にはまだ誰も生徒はいなかった。――と、思ったけれども、教室には人影があった。最近では見慣れた黒髪の制服姿。美影だった。
「――おはよう、美影」
「――梓……。おはよう。――それは?」
美影はぼくの手元に目をやると、興味ありそうに訊ねてきた。
「お弁当。作ったんだ。昨日助けてもらったお礼もかねて、美影の分もね。昨日何も食べてなかったのが気になって、ね?」
「――梓は私のこと、よく見てるね」
「まあ、一緒にいる分、わかることは結構あるからね」
ぼくは気恥ずかしくなって視線を逸らして頬を掻く。
「私の家族でも、できないことなのに……」
ポツリと呟いた言葉を聞こえないフリは出来なかった。
「えっ……?」
「――なんでもない。忘れて」
いつもの無機質な声でそう言う。
「ねえ――美影――」
「本当になんでもないから――忘れてくれるとありがたいの――」
「……わかった。でもいつか――話すことで楽になるなら、ぼくに話してね。ぼくは何もバカにしないし、美影の味方だから――」
「やっぱり梓は優しいよ。ありがとう」
美影はクスリと笑った。ああ、なんだ……。笑えるようになってるじゃないか。
ぼくは美影が感情を出せることが嬉しくなった。そして空の色がおかしいことなんて忘れて、チャイムが鳴るまで美影と他愛もない話をしていた。
お昼休み、昨日と同じように美影を連れて屋上に上がる。
「梓。これ、作ったって言ってたけど、肩はもういいの? 料理……できるんでしょ?」
「あ~……。そのことね……。実はその……先生の忠告を……無視して作ったんだ……」
非常に言いづらいことだから、思わず目を逸らしてしまった。
美影はじっとぼくを見ている。
「――料理ができるなら、私のノートはもう必要ないね」
美影も視線を逸らした。
「美影――」
「私はもう用済みだね。今日でおしまいだよ」
美影は言った。その言い方はやっぱり裏切られたか、と自分を嘲笑っているようで、なんとも痛々しかった。
「――そんなことない! 用なんてなくても今みたいに話せるよ! だってぼくたちもう友達でしょ?」
美影が下に向けていた顔を上げた。
「本当に……? 本当に、梓は……私と今までみたいに話してくれる……?」
「もちろんだよ! 用事がないから話しかけないなんて、そんな寂しいことぼくは言わないよ」
美影はぼくの言葉を聞くと、くるりと背を向けた。
ありがとう、と消え入りそうな小さな声で呟いたのをぼくは聞き逃さなかった。でも何も言わない方がいいと思ったから口を閉じていた。
「美影、せっかく作ったんだから、食べようよ! お昼休みもまだ長いんだからさ」
「――うん」
美影は笑顔でこちらを向いてくれた。
それからぼくたちはお弁当を平らげた。美影はどの料理を食べても美味しいと言ってくれた。
「美影はさ、好きな食べ物とかあるの?」
「好きな――食べ物…………」
美影は少し考えてから言った。
「あまりものを食べたりしないから、どんなものが好きなのかもよく解らない……」
美影の精一杯の答えだった。この数日間で美影はよく自分のことを言えるようになったと思う。やっぱりあの景色を見てもらったのが正解だったのかな……。
「食べないって……。どうして?」
「あまり、食べたくない。食べることが気持ち悪い……と、思う」
美影は申し訳なさそうにこちらをちらりと見ると言葉を紡ぐことを迷ったように途切れさせた。
「食べ物が気持ち悪いの?」
「ううん。食事という行為そのものが……気持ち悪い。食べ物を噛み砕いて、ぐちゃぐちゃにして、そんなものを飲み込むっていうのが……何だか……」
「もしかして、拒食症?」
「そう……かもしれない……。でも病院には行っていないし、食べてはいるから違うかとは思う」
「食べてるって言ってもほんの少しでしょ? 食べないと身体に悪いよ。食べることは生きることなんだから……ね?」
「わかってるけれど……難しい。でも――」
「?」
「でも――梓が作ったご飯は――とても美味しかった」
「――本当!?」
「嘘を言ってもどうしようもない。梓の作ったものは温かくて、優しい味がした。私はあんなに美味しいものを食べたことはない」
「――じゃあ、ぼくが作った料理なら食べられるってこと?」
「そういうことになる」
「じゃあ、ぼく、毎日美影にお弁当作って来るよ! 美味しいって言ってもらえて本当に嬉しいよ! ありがとう」
「どう……いたしまして……」
美影は照れ臭そうに笑った。
「じゃあ、明日は何が食べたい? 美影が食べたいものを作ってくるよ」
「私はまだ食べ物の味をよく知らないから……梓が美味しいと思うものを……食べさせて?」
「うん! わかった。明日も楽しみにしていてね!」
「楽しみにしてる」
ぼくたちはその後しばらく風に当たり、教室に戻った。教室で起こっている、日常の惨劇を予想もせずに、浮かれた気分のまま……。