11色目-巡ってきた幸福-
翌朝、一階のリビングに降りていくとテーブルの上に置いていた手紙はなくなっていた。どうやら同居人は拒むことなく読んでくれたらしい。ゴミ箱にはそれらしき残骸も入っていない。それを確認するとまたいつもの様に朝食と昼食のお弁当を作る。今日は何を作ろうか。
もう既に色が見えないことで生活に支障はなくなっていた。というよりも、慣れてきていた。どの色が消えても今までの知識を総動員して推測していれば今のところ何の問題もない。困るのは色を訊かれた時だけだ。
今のぼくが料理をする時において最も重要視しているのは見た目ではなく味だ。美味しいと喜んで貰うことを一番に考えて作っている。
色が識別できないというのは絵を描くぼくとしてはととても厄介で、どんどん描けなくなっていくことには悲しさを感じてしまう。このままどんどん見えなくなっていったとすればぼくは一体どうなるというのだろう。そのうち光まで失ってしまうというのだろうか。完全なる盲目、それがぼくを待っている末路なのだろうか。もし仮にそうだとするとそれはとても恐ろしいことではないだろうか。
人間が視力を失う原因というのは今のところわかっていないものが多いというが、多くの場合は精神的なものが多いという。ストレスから見えなくなる事だってあるらしい。しかしながらそれならぼくはどうして未だに見えているというのだろう。そういった場合、大抵失うものは色ではなく光。それなのにぼくはどうして色だけを失っていくのだろう。――そんな詳しいことは知らない。ただの高校生がそんな事を知っているわけもなく、ましてやそんな事を調べる機械すらなくてぼくはただこの原因不明の、病かどうかすらわかっていないこの現象に怯えながら生活していくしかないというのだろうか。
今はまだいい。でもそのうちぼくは色が識別できないが故に命を落とすことになるだろう。信号の色がわからなくて、踏み切りの赤いランプが見えなくて、他にも色々死因は考えられる。この一年のうちで死ぬんじゃないだろうか。
――そんなのごめんだ。折角友達と呼べるものが出来たのだ。家族が出来ようとしているのだ。幸せを掴もうとしているというのに、死んでたまるか。ぼくはなんとしてでも生き抜いてみせる。
心のうちの決意は固く、今までの短い人生の中できっと最も熱い気持ちを持っていたに違いないだろう。
「……さ……。梓」
「……え? 何?」
「どうしたの? さっきからぼーっとして。寝不足か何か? それとも体調が――」
「なんでもないよ。少し考え事してただけ。文化祭は成功するかなってさ」
「なら――いいけど。」
文化祭の準備をしている間中ずっと意識はここに無かったみたいで、美影には大層心配をかけたらしい。
「これが終わったら私たちは家族になるんだね」
夕闇に染まる教室の中で美影は小さな声でそう呟いた。普通なら聞こえないであろうその声も二人だけの無音の空間では耳に入る。
「――この苗字も捨てなきゃいけないね」
「っ!!」
空気が張り詰めた。――いや、美影の身体が強張ったからそれに誘発されて周りの空気も張り詰めてぼくのところまで伝わった。
「これからは同じ苗字だよ」
「――そう――だね――」
何処か寂しそうに、悲しそうに、物憂げに美影は言った。
「苗字が変わるのは――嫌?」
「そう――じゃないけど……」
「けど?」
「この名前で呼ばれていたことを忘れるのは――寂しいと思っただけ。お父さんとお母さんが出会って同じ名前になって、生まれてから一度として手放したことのないものをいきなり手放すっていうのは寂しいと思って」
「なら――ずっと持っていればいいと思うよ」
美影が出会った頃と同じような驚き方をしてぼくを見た。
「手放したくないならずっと美影が持っていればいいよ。確かに表面上では名前が変わるかも知れない。でも美影は今の名前をずっと心の中に大切に持っていればいいよ。時々ぼくもその名前で呼んであげる。だから、何も心配することなんてないよ」
ぼくは――上手く笑えているだろうか。最初と同じように美影を安心させられるよな優しい微笑を見せられているだろうか。
「梓――どうして――そんな顔しているの?」
美影の口から出てきた言葉はぼくの予想を大きく裏切った。
ぼくは今、どんな顔をしている?
「どうしてそんな、寂しそうな、泣きそうな顔してるの? 梓も寂しいの? 今までの名前で呼ばれなくなることが……」
そんなこと――。
ない、なんて言えなかった。ぼくは家族を何より大切にしていたし、両親もぼくを大切にしてくれた。だからぼくは大好きな両親から貰ったこの名前を手放したくなんてなかった。それでも目の前にある大きな幸せの前にはそれを諦めざるをえなかった。天秤にかけてしまったのだ。でもそれのどこがいけないというのだろうか。人間は手に入れるために比べなくてはいけない。選ぶために比べなくてはならない。ぼくもそうしただけなのに。それなのにどうして涙が止まらないのだろう。
「悲しいの? 名前をなくしたくないの? なら私が呼んであげる。梓。安心して家族になろうよ」
――ずっと、欲しかった言葉がここにある。欲しかったぬ温もりがここにある。ああ、ぼくは何を躊躇っていたのだろう。躊躇うことなんて何もないじゃないか。失うものなんて何もないのだから。さっき自分で言ったことを忘れたのか。名前を呼んでくれる人がいるのだから何も手放すことなんてないじゃないか。
「美影」
「な……わっ!」
ぼくは振り向きざまの美影を抱き寄せ、強く抱きしめた。いなくならないように強く、強く。
「この文化祭、必ず成功させて家族になろうね」
この時の美影の表情はわからなかった。なんだかプロポーズ染みたことを言っているような気もするけれどそんなの気にしない。これはまぎれもなく今のぼくの本心だった。
「明日、完成させてそれからはゆっくりしようね」
明日からは文化祭準備期間に入る。二日間あるその日は全日休講で授業はない。ここまで地道に作業してきたのだから明日頑張ってしまえばぼくらは何もすることがなくなる。つまりはゆっくり休めるという訳だ。ぼくはそれを目標に頑張っている。美影とゆっくり過ごすって言うのも楽しそうだ。
「そうだね」
美影から帰ってきた返事は短くそっけないものだった。
それからぼくらは準備を進めて予定通り準備期間の一日目で完全に作業を終えた。準備さえ出来てしまえばすることはないから帰宅しても何も言われない。クラスメイトは早々に全員帰ってしまった。
「これからどうしようか」
ぼくらは教室に残って最終点検をしてこれからのことを話した。
「遊びに行くにしてもこの街には遊べるところはないよ」
「電車で隣町に行くって言うのも悪くないかもね」
「隣町で何をするって言うの? それよりだったらこれからの私たちの家に行ってみない? 挨拶と下見を兼ねて遊びに行くのも悪くないんじゃない?」
そういわれると確かにそうだ。顔も知らない人といきなり家族になるなんて少し難易度が高い話だ。一度挨拶を済ませておくのは人として大切だろう。行こうと思っていた方向とは正反対だし旧市街の方だから行くのに時間が掛かるし、かなり歩くことになるだろうけどぼくたちはそこに行くことを決めた。どうせすぐにその道を歩くことになるんだから問題ないだろう。
「じゃあ、行こうか」
ぼくらは学校を出て荷物を持ったまま家とは正反対の方向に向かって歩き出した。他校の生徒はまだ授業がある時間帯でなおかつここら辺を通る大人なんてあまりいないから今は人通りが少なかった。
「何もなしに行ってもいいのかな?」
「気にしないと思う。あの人たちは仕事もないからいつも家でゆっくりとお茶を飲んでる」
いつもそうだから、と美影は付け足した。その口ぶりから、美影は相当その親戚と仲がいいのだろうと推測できた。
「ここからは一本道だから迷うことはないよ」
美影は道もわからない旧市街を器用に歩いて行き、開けたところまで出た。ぼくは美影と行った丘以外には行ったことがないから旧市街の道順なんて知る由も無かった。
美影とぼくは道なりに歩いた。道はどんどん道と呼べる形を崩していって、最後にはただの森だった。
「ねえ、美影……こんなところに本当に家なんてあるの?」
「あるよ。とても立派なお屋敷が一軒だけ立ってる。森の中だから静かで住みやすいと思うよ。絵も好きなだけ描けると思うし」
ズキン、と。何かが刺さったみたいに胸が痛んだ。
「そうだね。今よりもっと絵を描く時間が取れるようになるかもね」
家事をしなくていいとなるとそれは相当楽になるかもしれない。でも料理だけは楽しいから続けたいなとそんな妄想をしながら森の中の道を歩いた。
「着いたよ。ここが新しい私たちの家」
美影に言われて見たその建物は確かに家というよりは屋敷と呼ぶ方が合っている、そんな建物だった。
絵本に出てきそうな大きな洋館、それがぼくらの新しい家だった。
「こんな大きな家に……これから……?」
「そう。私たちはこれからここに住むの。――行こう」
開いた口が塞がらないぼくの手を引いて美影は屋敷の玄関を開ける。
「こんにちは。おじさん、おばさん、いますか?」
美影の呼びかけはしんとした屋敷に響き渡り、そして吸収された。誰もいないのではないかというほどに生活している跡がない。だからついつい疑ってしまった。ここに誰かいるのかと。
「――はいはい、いますよ。美影ちゃん、よく来たね。あら、そちらは?」
しかし少しすると屋敷の奥のほうから声が聞こえ、その声の主の姿も見えた。
「はじめまして。御上梓です。数日後からお世話になるので今日は挨拶に来ました」
「まあ、貴方が梓くん? 随分と優しそうな男の子ね、美影ちゃん。言ってた通りいい子そうね」
屋敷の主と思われるその女性は柔らかい声でぼくたち二人を迎えてくれた。
「こんなところで立ち話もなんだからあがってちょうだい。ちょうどお茶にしようと思っていたところなの。おじいさんも喜ぶわ」
どうやらここにはいないがもう一人居るみたいだ。そういえば美影もおじさんとおばさんが居るといっていたような気がする。
「お邪魔します」
ぼくは靴を脱いで用意されたスリッパに履き替えた。案内された部屋はきれいに片付いてはいたものの、玄関から見えたような生活感の無さはなかった。人が生活している跡がある。
「おじいさん、梓くんと美影ちゃんが来てくれましたよ。今お茶を入れますからおきてくださいね」
おばあさんに呼ばれたであろう男の人はひざ掛けの上に読みかけの本を置いて眠っていた。
「もう、おじさん、風邪ひくから起きて」
美影はおばあさんに呼ばれても起きないおじいさんを揺り起こしている。ぼくはおじいさんと対面するように置いてあるソファに腰掛けた。
「お待たせしました。梓くん、生クリームは平気?」
「はい。大丈夫です」
おばあさんがそんな事を訊いた意図は簡単にわかった。お茶と一緒にトレーの上においてあるお茶菓子のケーキには生クリームが贅沢と言っていいほど使われていた。
「このケーキ、とても美味しいのよ。よかった。今日美影ちゃんたちが来てくれて。二人では食べきれないのよ」
元々切り分けられた状態で売られていたのではないかというほどにきれいに切り分けられていたがどうやらホールケーキらしかった。
「さあ、熱いうちに飲んで」
差し出されたカップを受け取り早速お茶を口に含む。すると紅茶の香りがふわりと広がった。紅茶に詳しくないぼくでもとてもいい茶葉を使っているのだろうなということだけが解った。
「美影ちゃんも。おじいさんが起きないなら私が起こしますから美影ちゃんは座っていて」
「はい」
「おじいさん、起きてください。二人が遊びに来てくれていますよ」
見ていると美影とおばあさんの起こし方は全然違った。美影は大きくゆすって起こそうとしていたのに対して、おばあさんは呼びかけながらゆっくりと揺する。そんなゆるい起こし方で起きるものなのかと黙ってみていたけれど、やがておじいさんは目を開けて傾いていた頭を起こした。
「おはようございます。美影ちゃんと梓くんがきてくれていますよ」
少しの間虚ろな目をしていたけれどすぐに起きたみたいでおじいさんはぼくを見ると目を輝かせた。
「おお! 君が梓くんか! いやぁ、会いたかったよ! よく来てくれたね!」
おじいさんはとても機嫌がよかった。しばらくの間は学校のことや美影との話を聞きたがっていたからぼくは快く話した。二人とも楽しそうに穏やかな笑みを浮かべてぼくたち二人の話を時には相槌を打ちながら聞いてくれた。
「――あの」
「どうしたんだい?」
「ぼく、今日はお二人に挨拶に来ました。文化祭が終わってからこちらでお世話になるのでその挨拶に。どうかこれからよろしくお願いします。あまり迷惑を掛けないようにしますので……」
「何を言ってるんだい」
途中で話をさえぎられた。ぼくは何か失礼なことを言ったのではないかと内心ビクビクしながらおじいさんの言葉の続きを待った。
「迷惑を掛けずに生きていける人間なんてものはいないよ。迷惑大いに結構! それに私たちはもうすぐ家族になるんだ。迷惑なんてお互い様だろう?」
おじいさんはそこまで言うと紅茶をすすった。
「あ……あ…………」
そんなことを言われたのは初めてだった。そんな風にぼくらを心から受け入れてくれた人なんて両親を覗いて今まで居なかった。だから――だからとても嬉しくて、胸がいっぱいになって、ぼくの両目からは涙が溢れ出てしまった。
「ど、どうしたの梓くん……」
「おじいさんが変なことを言うからですよ。ホラ、梓くんが泣いてしまったでしょう? 謝ってください」
おばあさんも言っていることは厳しいけれどもその口調はとても優しく本気で怒っている訳ではなかった。
「ちが……ぼく……うれしくて、それで……」
そんなことで泣いてしまう情けなくて更に涙が溢れた。
「梓。泣かなくてもいいんだよ。ここでは何も心配しなくていい。何も怖いことなんてない。私たちは安心して家族になっていいんだよ。幸せになっていいんだよ」
美影の言葉は先程の二人のように温かくぼくの心に浸透していった。
ああ、ぼくはこんな素敵な人たちと家族になれるんだ。なんて幸せなんだ。今日ここに来て本当に良かった。これから家族になる人に会えて本当に良かった。
「ありがとう……」
思わず言った言葉にそこに居た全員が微笑んだ。暖かくぼくを迎え入れてくれた。何一つ後悔することなんてない。今までの不幸だって全て乗り越えられる。忘れはしない。あの不幸を味わったお陰で今の幸せがあるんだ。決して忘れない。これからは不幸の上にある幸せの中で生きていけるんだ。全てやり直せるんだ。




