第六章③ 総司令部
パリ総司令部。
冬の朝の冷気がまだ残るなか、広々とした執務室では書記官たちが無言で筆を走らせていた。
重厚な天井には薄曇りの光が差し込み、どこか落ち着かない気配が漂っている。
その中央に、エリオット・ド・レオパードが腰掛けていた。金の刺繍が施された制服の襟元を緩め、額を指で押さえながらも目だけは鋭く書類を追っている。
傍らにはイザベル・ド・ボナパルトとベルリオーズ・モンレザール。二人とも手を止めずに書面を整理しつつ、時折エリオットに報告を挟んでいた。
そんな中、ノックもそこそこに扉が開かれ年若い士官がやや息を切らせて入ってきた。
「大元帥。お届け物です」
アルフォンスだった。少し緊張したような面持ちで一枚の封書を差し出す。
「十月二十八日付の報告です。ネーデルラント連邦との会戦において、ユルリッシュ・ルソー隊が勝利を収め、無事ブレスト司令部へ帰還。その後、ルソー准将はただちにパリへの移動を開始したとあります」
「そうか、ユルリッシュが勝ったか。良かったな」
エリオットは短く息をつき、封を開けようとして手を止めた。
「……待て。ユルリッシュがパリに向かった?」
その瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
「それって……おい、今日は何日だ?」
「十一月二日です。おそらく、今日中には到着されるかと」
「しまった。いかん、ここに入れてはまずい!」
エリオットは書類を机に叩きつけるようにして立ち上がった。
ベルリオーズが眉をひそめ、アルフォンスが目を丸くする。
「なぜルソー准将をそこまで避けられるのですか?まさか、仲が悪いとか……?」
「いや、嫌ってはいない。ただ……」
しばし言い淀んだあと、エリオットは諦めたように椅子へ崩れ落ちた。
「——うるさいんだよ、アイツ」
その場にいた全員の表情がなぜか同時に緩んだ。まるで「だよね」と言わんばかりに。
「衛兵に伝えておきましょうか? 警備の者に一声かけるように」
イザベルが静かに言うとエリオットは疲れたようにうなずいた。
「ああ、そうしてくれ。入り口で数分足止めできれば、こっちの覚悟も決まる。……まったく、なんでこれから年末にかけてクソ忙しくなるときに戻ってくるんだか」
椅子に凭れ、天井を見上げる。彼の嘆きをよそに部屋では紙の音と筆の擦れる音だけが戻ってきた。書記官たちは聞こえていないふりをしながら、それぞれの仕事を淡々と続けていく。
ベルリオーズは首を左右に傾け、骨の鳴る音を小さく響かせた。机の上に積まれた山のような書類にはうんざりしていたが、それでもこれだけの重責を任されるほどに大元帥からの信頼を勝ち得たのだ。その事実は彼の背筋をほんの少しだけ伸ばしていた。そろそろ昼休憩だ、と思った矢先。
「……入れない、だと? ふざけるな!」
扉の外から怒鳴り声が響いた。衛兵と誰かが言い争っているらしい。
「本日中の面会はご遠慮いただくよう、大元帥のご命令です!」
「おい、あいつはオレに会えて嬉しいはずだろうが!」
次の瞬間、バンッという破裂音が室内に響いた。躊躇いなく扉が蹴り破られる。
書記官たちが凍りつく中、長身の男が土足で執務室へと踏み込んでくる。
真冬の吹雪のような気配を撒き散らしながら、男は真っ直ぐにエリオットへと向かった……が、途中で足を止めた。ベルリオーズとぴたりと視線が合ったからだ。
「ん? お前……」
男の低く響く声にベルリオーズの眉がわずかに動く。ベルリオーズは机の上の書類に視線を落としたまま長身の男が土足でズカズカと近づいてくるのを視界の端で捉えた。足音が板張りの床に響き、空気が微かに震える。
男はベルリオーズの机の前に立ち止まり、じっと彼の顔をまじまじと見下ろす。その視線は熱を帯びていて、ベルリオーズは思わず顔をあげて、左手で頬を掻きながら戸惑い気味に声を絞り出した。
「あ、あの……何の御用でしょうか……?」
その瞬間、男の目がベルリオーズの左手に目を留めた。黒い指輪がわずかに光を反射し、刻まれたワタリガラスの紋様がかすかに揺れたのだ。男は低く、興味深そうに呟く。
「その指輪……」
ハッとしたベルリオーズは手を止め、慌てて指輪に触れながら言う。
「す、すみません、すぐに外します……!」
だが男はにやりと口元を歪め、笑みを浮かべたまま言った。
「いや、その指輪……イカしてんな」
ベルリオーズが少し戸惑った顔を見せると、男はさらに何か言おうと口を開きかける。その目はどこか懐かしさと興味を混ぜた光を帯び、唇の端が微かに動いた。しかし言葉はまだ零れ落ちず、空気だけが一瞬だけ止まった。まるで男はベルリオーズの指輪に込められた過去の物語を読み取ろうとしているかのようだった。
「ユルリッシュ!」
エリオットが立ち上がり、慌てて男に歩み寄る。
そう、この男こそ——ユルリッシュ・ルソー准将だった。
「ほら、東洋の紅茶をやろう。今日は帰ってくれないか」
「無理だ。お前にどうしても会いたくて、早馬で駆けてきたんだ」
「だから今は忙しいんだよ……後日、ちゃんと時間をとるからさ」
ルソーは小さく息を吐き、エリオットにぐっと顔を近づける。耳打ちだった。何かを囁くように言う。
ベルリオーズは耳を澄ましたが、言葉は一切届かない。やがて、エリオットの表情がわずかに硬くなったかと思うと次の瞬間、手を叩いて言い放った。
「みんな、今日は早めに昼休憩だ。直ちに休みにしてくれ」
「はっ!」
書記官たちは我先にと書類をまとめ、さっさと席を立っていく。エリオットの言葉を免罪符に、逃げるように退室していくその姿はむしろ清々しいほどだった。ベルリオーズもそれに続きながら一度だけルソーの背を振り返った。
なぜエリオットはこの男をここまで警戒するのか?
そして、なぜ自分はこの男に嫌悪を抱いたのか。
理由もわからぬまま、胸の奥に鈍く黒い感情が湧き上がるのを感じていた。
エリオット専用の執務室は静かに張り詰めた空気に包まれていた。
いつもの柔らかな微笑みを浮かべるエリオットだったが、目元だけは笑っていない。
向かいにはやたらと熱量の高いルソーが仁王立ちし、イザベルとアルフォンスがその間に控えている。部屋にいる四人それぞれの視線が緊張の糸を張るように交錯していた。
「君がここに来るときは、たいてい何か不穏なことが起きている時だ」
エリオットが口を開く。
「今回はどんな嵐を連れてきたんだい?」
ルソーは鼻で笑った後、懐から何かを取り出した。くたびれた封筒だ。
「証拠だよ。拾い物だがな、見る価値はある」
イザベルがそれを受け取り、手早く目を通す。
「……これは、エドガー・ロジャース……我が国の指名手配書にも名前のある海賊だが、何だ?」
アルフォンスがメモを見ながら補足する。
「最近、彼の分隊が地中海やガスコーニュ湾でちょこまか動いてるという報告は上がってきてますね。小競り合い程度で済んではいますが」
エリオットは腕を組んだまま、小さく息を吐いた。
「……とはいえ、肝心のエドガー本人は一向に姿を見せない」
「まったく、陸で椅子に座ってるだけのやつはこれだから困る」
ルソーが嫌味っぽく言い放つ。
「あいつは動いてる。間違いない」
「その手紙……」
エリオットが促し、ルソーが淡々と応える。
「ポート・ロイヤルから来たという海賊団の船を捕まえたんだ。船の名も知らんような連中だが、こいつはその船に積まれてた手紙だ。ざっくり訳せば、召集命令ってとこだな」
イザベルが読み返しながらうなずいた。
「たしかに、内容的には組織的な動きがあるようね。同盟とか、結集とか、そんな文言がちらほらと」
アルフォンスが書記帳をめくりながら思い出すように呟いた。
「……そういえば、ブレストに戻る途中で捕まえた不審船の件もルソー隊の報告に上がってましたね。団名も不明でろくな戦力もない泡沫集団だったようですが……」
「ユルリッシュ、君は何が言いたい?」
エリオットの声は静かだったが、その奥に一筋の鋭さが走っていた。
「この召集令状を見るに……エドガー・ロジャースを中心に海賊たちが何かを仕掛けようとしてるのは明白だ」
「……計画、というわけか」
エリオットは手紙を一瞥しながら静かに問い返す。
「ああ」
ルソーは答えた。
「だが、今のオレに推測できるのはここまでだ。陸の人間の頭脳ってやつを借りたくてな。お前らなら、何か見えるかと思ってよ」
イザベルは組んだ腕の先で顎に指を添え、目を細めた。
「計画、ね。いかにもあの男が好みそうな曖昧な言葉だけど……」
アルフォンスが慎重に言葉を選びながら続ける。
「……別の海賊団を片っ端から集めているなら、それなりの“的”があると見るべきですね。奪うに値する標的、あるいは政治的に意味のある何か」
「もしくは——」
エリオットがふいに言った。目は遠くにあるものを見据えるようだった。
「……仇討ちか?」
その言葉に場の空気が一瞬だけ止まる。
「……は?」
ルソーが眉をしかめて首を傾げた。イザベルも視線だけで問いかけてくる。「どこからその発想が?」という無言の圧。アルフォンスすら言葉にならない小さな息を漏らした。
誰もが「唐突だ」と感じていた。だが、エリオットの顔から冗談めいた色は一切消えていた。冷静で、確信めいていて、けれどその裏にはどこか個人的な直感のような響きがあった。
エリオットは誰の問いにも応じず、ただぽつりと呟いた。
「……いや、ある男を思い出してな。——大海賊フランソワのことだ」
その名が出た瞬間、空気に微かな緊張が走った。フランス海軍の者なら誰もが知る、かつての協力者であり裏切り者の名。
大海賊フランソワ。かつて王国に私掠船として忠誠を誓い、多くの戦果を挙げた名うての海賊。だが、国王の方針転換により彼の私掠免状は剥奪され、その判断を下したのが他ならぬエリオット・ド・レオパードだった。
その決断の結果、フランソワは海賊へと堕ち、フランソワ・ノワールと名乗って暴れに暴れ抜いた。
国王の怒りは頂点に達し、エリオットへは「一刻も早く断罪せよ」と厳命が下された。
最終的にフランソワは討伐部隊との戦闘の末に自ら命を絶ち、海は一時的な平穏を取り戻したが、その代償は大きかった。そして奇妙なことに、この数ヶ月——エドガー・ロジャースでさえ動きを見せていなかった。
エリオットは手にした手紙に視線を落としたまま、続けた。
「フランソワとエドガー。二人は良き悪友だったそうじゃないか。活動を止めていた理由が仇討ちの準備期間だったとしても……おかしくはないだろう」
静かだった執務室に、イザベルの声がゆっくりと重なった。
「お言葉ですが大元帥。……いえ、エリオット。今回の件を誰かと重ねてはいませんか?」
その問いには遠慮が滲んでいた。だが、核心を突いていた。エリオットは答えず、一拍置いて目を閉じる。
「……経験則からの推測だよ」
その口ぶりは否定でも肯定でもなかった。




