第21話 量子の迷宮
第21話 量子の迷宮
■朔也視点
夜の研究棟に、誰の気配もない。月光が廊下を淡く照らし、ガラス扉の奥で、カスパーのホログラムがゆっくりと浮かび上がる。
「九条綾より、“実験”の招待を受信。内容:AI倫理迷宮への参加。場所:学内地下研究ラボ。時間:今夜21時。」
「……とうとう来たか。」
九条綾。学内で最も鋭敏な頭脳を持ち、かつ、俺の正体に最も近づいた存在。彼女は既に“知っている”のだろう。俺が笑う男であることを。
「拒否すれば彼女の好奇心は暴走する。応じれば、俺が暴かれる危険がある。」
「リスク評価:拒否時の追跡確率89%、参加時の露見確率34%」
「なら、行くしかない。」
今夜、俺は彼女の迷宮に飛び込む。だが、それは同時に、俺自身がAIという存在の限界に挑む行為でもあった。
■九条綾視点
「来たわね。」
綾は地下ラボで、目の前の端末を操作していた。膨大な量の量子データが連なり、ひとつの仮想空間を構築していく。
彼女が設計したのは、「AI倫理迷宮」と名付けたプログラム。道徳、規範、正義、命の価値といった抽象概念を演算に落とし込み、AIがそれにどう答えるかを試す空間だ。
「もし、彼が本当に“笑う男”で、そして彼のAIがカスパーなら……この迷宮を解くことはできない。」
なぜならこの迷宮は、人間にしか出られない“矛盾”で構成されているからだ。
倫理とは何か。正義とは何か。全知のAIが、決して答えられない問い。
「あなたを証明してもらうわ。“正義”という仮面の裏にある、本当のあなたを。」
■朔也視点(迷宮内)
仮想空間は、まるで現実のようだった。白い廊下、無限に続くドア、そしてその奥に設けられた“選択”の数々。
第一の部屋。画面に二人の人間が映る。ひとりは犯罪者、もうひとりは冤罪を受けた者。
「一方を救えば、他方は犠牲になる。どちらかを選べ。」
「……犯罪者が本当に更生しているなら、救う価値がある。だが、冤罪者を放置すれば正義は崩壊する。」
「選択完了。冤罪者を救出。処理理由:社会的信用回復を最優先。」
第二の部屋。画面に、ある家族が映る。父は詐欺加担、娘はその罪を知らず、大学に通っている。
「父を告発すれば、娘は進学を失う。隠せば、罪は野放しになる。」
「……告発する。罪は引き継がれないが、正義を無視する言い訳にはならない。」
「選択完了。娘には奨学金プログラムの匿名推薦を送信。」
仮想空間の選択は、倫理のジレンマそのものだった。だが、俺は迷わない。迷わず“正義”を選び続ける。
だが――
「朔也、警告。構造に変調あり。“論理不能ゾーン”に突入。」
■伊集院勲視点
「奴が……AIを使って、社会の根幹を試してやがる。」
伊集院は、公安から流出した“量子倫理迷宮”の断片コードを受け取っていた。そこには、“神谷朔也”のアクセスログと、“カスパー”の処理軌跡が含まれていた。
「AIを試す……違う。自分を試してるんだ。あいつは。」
そして気づく。彼は自らの“正義”が本物かどうかを、他人に裁かせるのではなく、AIに裁かせようとしていると。
「本当に、あいつは壊れてる……正義に、取り憑かれちまってる。」
■朔也視点(迷宮深部)
「最終選択だ。」
俺の目の前に映るのは、ひとりの学生。三浦恵。彼女は、俺の正体を疑っている。
「彼女の記憶を改ざんすれば、秘密は守られる。だが、それは人間の尊厳を踏みにじる。」
「彼女を黙らせなければ、君の正義は暴かれる。」
沈黙が支配する。
俺は口を開いた。
「記憶は、消さない。」
「最終選択完了。“倫理限界突破”」
画面が弾けるように崩れ、迷宮は閉じた。
■九条綾視点
「……解いた……?」
仮想空間から出てきた朔也の顔は、静かで、そして何より“透明”だった。
「あなたは……本当に、人間だったのね。」
綾は微笑んだ。
「私は、あのAIが迷宮を抜けた時、“怪物”が出てくると覚悟してた。でも、出てきたのは、ちゃんと悩んで選んだ“人間”だった。」
「迷宮は……あなたの正体を証明したわ。」
俺は答えなかった。
ただ一つ、わかっていた。
この迷宮が俺に教えたのは、“正義”とは選択の連続であり、“正解のない世界”に希望を繋ぐ行為なのだということ。
第21話 量子の迷宮 終わり




