六話 遺された言葉
家から一歩出る、ということがこれほど緊張するものとは思わなかった。
少し前は、何のためらいもなかったというのに。ただ、あの詰め寄られた光景をふと思い出してしまうと、またあるんじゃないか、もっとひどいんじゃないか、そう考えてしまう。
とはいえ、家に引きこもっていられる身分でもない。買い物に行かなければ、今夜の食事が貧相どころではないことになる。具体的には野菜の切れっ端が少し浮かんだ、薄味スープだけになってしまう。自分一人ならそれも許容できるが、お客様がいる以上は避けなければ。
そんなわけでミシャは、セラに留守番を頼んで買い物に出た。念の為に彼女にはヒトの大きさになってもらって、できるだけ居留守を使うようにお願いしている。ただ、安全な相手にはそれなりに応対してほしいとも伝えた。具体的にはネールやリオ、ジュジュやカレンだ。
カレンは魔法嫌いだが、ああいう行為は好まないだろう。
もしこの予測が間違っていたならば、ネールが何かしら忠告をしてくれるはずだ。
それがないということは、きっと彼女は大丈夫と信じたい。
……という対応策を用意しつつ、ミシャはとりあえず買い物に出かけた。幸い、見知った多くの人々はいつもと変わらず暖かくて、不安はただの杞憂だったということを実感する。
中には、例の騒動を知って、ミシャを案じてくれる人すらいた。
「ごめんなさいね、ケガがなくてよかったわ」
そういって少し野菜をおまけしてくれたのは、いつも行く店の女将さんだ。
仕事柄、どうしても手荒れなどがひどいと悩んでいたらしく、ネールを介して薬草の配合を変えた薬を差し入れたところ、みるみるうちに良くなったと感謝されて以来の仲である。
そこからランドールの人々との交流が、ゆっくりとだが進んできた。
自分のことのように心配する彼女に笑顔を返し、ミシャは次の買い物へと向かう。にこやかな談笑の裏で、ちらりちらりと向けられる冷たい視線に、気づかないほど鈍くなれなかった。
逃げるように店から店をまわり、足りないものを買い込んでいく。調味料、日用雑貨、それから精肉店で加工された干し肉を少し買い、休憩のためにふらふらと公園へと足を向ける。
地域の人々しか来ない、しかし広くて見晴らしのいい公園だ。
いつか、散歩の時にふらりと来て以来、お気に入りになった場所である。
なにか特別な曰くがあるのだろう、ここはどうやらランドールの領主が私財を使って整えさせているらしい。それも何百年単位で、改修や補修を繰り返して。
詳しい話は知らない。
だけど、ここはランドールにとって重要な場所なのだろう。いつ来てもゴミなどは一切転がっていないし、よく近所の誰かが落ち葉などを丁寧に掃除している姿を見かける。ミシャの家はここからそこそこ離れているが、自宅周辺の住民もわざわざ掃除に来ているぐらいだ。
今はお昼前で誰もいないが、時間帯によっては子供らが走り回っていたり、若い夫婦や恋人同士がゆったりと歩いていたり、とてもなごむ穏やかな『日常』が広がっている。
ミシャは、そういうのを見るのが好きだった。
――憧れがある。
自分が生まれてまもなく失ったものだろう、家族というものに。
それが見れないことを残念に思いつつ、考えたくないことを頭から追い出し、ミシャはふらふらと公園を歩きまわった。思えば、いつもベンチに座って周囲を見回すだけで満足し、中を全部見て回ったことはなかったと思い出したのだ。少し気分を変えたいというものあって、セラを家に残してきているとはわかりつつ、ほんの少し、と思いつつ歩みを進めた。
公園は石畳の道が、ところどころ緩やかなカーブを描きつつ敷かれている。
その道端には木が植えられて、木陰にベンチがあったり。あるいは色とりどりの花々が、風に揺られていたり。簡単な遊具のたぐいもあり、広い年齢が利用できる場所だ。おそらくそのために作られたのだろうと思うぐらい、ここは憩いの場として完璧に整えられている。
「……あれ?」
道なりに進んでいくと、木々の合間から向こう側が見えた。低い樹木をみっしりと植えることで壁のようにし、パっと見は気づかないようにされているかのような感じがする。
もちろん、道も繋がっていないし、気づかなければ――いや、気づいてもそれが公園の一部だとは思わないだろう。隣接する別の場所、という風にみなすのが普通に違いない。
そして、地元民なら公園の傍らにそれがあることは、もはや日常だ。
だから気にもならないだろう。
その、古びてひび割れ、欠けた石碑の存在など。
さくり、と草を踏みしめながら、ミシャはそれに近づく。陽の光を浴びて輝くことを狙ったかのような純白の石で作られていて、周囲は適度に整えられて、ここも公園のような感じだ。
周囲に高い木々はなく、そこだけがぽっかりと開けている。
近寄った石碑には、少しかすれているが――こんな言葉が綴られていた。
「わたしは……彼らを許さない?」
口に出して、その苛烈さにミシャは驚く。
石碑の由来も何もない。
誰の言葉ともない。
たった一言、簡潔にして明確な『憎悪』がそこには刻み込まれていた。
ミシャは思わず自分を抱きしめるようにして、のけぞりながら一歩下がる。背中にぞくぞくするようなものが這い上がり、それに逆らうように汗が流れていく感覚に襲われる。
腰の高さほどある、柱のような石碑。斜めに切り落とした断面は丸く、もしかしたらそのせいで一部が欠け落ちて文字が違うものに読めてしまったのかも。そんな淡い期待を抱くが、心の奥底では無駄な抵抗だと笑う誰かがいた。何度読み返しても目を疑っても、意味は無いと。
「なに、これ」
つぶやき、ミシャは更に下がる。
この石碑には、できるだけ近寄っていたくない。
恐ろしい、と思った。
魔法嫌いのこの街で『許さない』とされるのは、おそらく魔法使いだ。それ以外の候補をミシャは思いつかない。彼らがどれだけ魔法を嫌っているのか、身にしみて理解するからこそ。
だから、余計にわからなかった。
そして恐ろしいと思った。
古い――ざっと見積もって千年ほど昔に広く使われていた、今は魔法古語と呼ばれる古い魔法書専用の、おそらくは一部の学者か魔法使いぐらいしか読めないだろうその言語。
わざわざそれを用いてまで綴った憎悪が、恐ろしかった。




