2-2 風使い
× × ×
異世界の旅路は時間がかかる。
飛行機が存在せず、大陸間の移動手段は風頼みの帆船に限定される。
思えば、前世の船旅は快適だった。
琵琶湖の遊覧船は荒波を進まない。平穏な水面を滑るように走る。
現代の造船技術の賜物である頑丈な船体。船酔いを防ぐ減揺装置。予定通りの運航を実現する内燃機関。彩りのある美味しい食事。自動販売機の温かい飲み物──。
低地地方の港町で僕たちが乗り込んだ帆船『ヒヤシンス号』にはそれら全てが存在しなかった。
常に軋み続ける船体。不規則に揺れ続ける足元。不味い酒。日ごと粗末になっていく食べ物。腐敗と潮の匂い。
風雨と荒波に抗いながら、木造の中型帆船は約二ヶ月かけて大西洋を渡る。
僕は出航から三日も経たずに白旗を揚げた。
船酔いで嘔吐を繰り返した僕は、早くも心身共に限界を迎えていた。
「ジーナ。低地に引き返そうよ」
「一般客のあたしらが、勝手に決められるわけないでしょ」
健康優良児のジーナもすっかりやつれてしまっている。
マケル老人は客室の隅で体育座りのまま眠っていた。生気を感じられないが、大丈夫だろうか。
ちなみに馬車の御者を務めてくれていた丁稚の少年には乗船する寸前で逃げられた。まだ死にたくないと叫びながら。
今思えば、彼の判断は正解だった。
僕は外の空気が恋しくなり、客室から甲板に向かう。
木造帆船『ヒヤシンス号』は三本マストの中型商船だ。低地地方の外洋船としては一般的な仕様だという。新大陸の植民地との往来用に貨物室が広く設けられており、自衛用の大砲も船腹で息を潜めている。
見上げれば、暗雲を背景に、白色の横帆が風を受けて膨らんでいた。前方に突き出た三角帆の働きといい、帆船として理に適った作りなのだろう。
一番目立つ帆には『CZS』と社名が印字されていた。低地地方でもっとも名の知られた民間貿易会社らしい。
僕は聞いたこともなかったが。
ぶっちゃけ。優秀な付き人に旅の手配を丸投げしていることもあり、恥ずかしながら低地地方・帆船については下調べを怠っていた。
今度勉強しておこう。
「坊ちゃん、船旅は初めてですかな?」
航海士の男性に声をかけられる。
顔面に染みついた疲労が人相を悪くしているが、他の水夫たちと比べると理知的な印象を受ける。出身階級の違いだろうか。
「はい。ここまで苦しいものとは思いませんでした」
「あと二ヶ月の辛抱です」
僕は改めて死刑宣告を受けた気分になる。
大西洋横断。飛行機であれば半日とかからないのに帆船だと多大な時間を要する。
魔法学校に入学したら一番始めに飛行魔法を習得しよう。僕は心に決めた。
航海士の男性は自分の表情に笑みを浮かべていた。
「坊ちゃんはライム王国の亡命貴族でしたな。正直、新大陸に逃れる人は珍しいです」
「そうなのですか?」
「大抵は奥州の他国に行く宛があるようですよ。貴族同士、国境を跨いだ親戚が多いのでしょうね」
「我が家も大君同盟に親戚が居ますね。僕は新大陸に用事がありますけど」
「ほほう」
航海士の男性は感心したようにうなづく。
日焼けした肌、細目、しゃくれたアゴ。
前世の予備校仲間に似ていて何だか話しやすい人だ。あいつは浪人一年目で本命の志望校に合格していた。
航海士はニヤリと笑う。
「なるほど。坊ちゃんは家柄だけでなく魔法の才能にも恵まれたわけだ。物語の主人公のようですな」
「家庭教師のジーナにも同じことをよく言われます」
「あの美人さんも見るからに才覚に恵まれていますねえ。いやはや世の中は不公平。どうりで自分の商売が上手くいかないわけです」
「航海士さんが商売をしているのですか?」
「船員はみんな会社の積荷とは別に私物扱いで商品を持ち込んでいます。例えば奥州名産のワイン、乾燥茶葉、毛織物等々。それらを外国で売り捌けば良い小遣いになります」
「なるほど」
僕は素直に感心する。
異世界の住民は逞しい。
利益・食い扶持を得るためなら機会を逃がさない印象がある。
自分も両親の庇護下から外れた以上、彼らを見習うべきかもしれない。
「昔はどんな安物ワインでも高値で売れましたが、近頃は新大陸の市場に目利きが増えました。以前は航海士一同で金を出し合って『風使い』を雇えるくらいボロ儲けしたもんです」
「その風使いは魔法使いとは別物なのですか?」
「いや。魔法学校の卒業生です。飯代はかかりますが、風使いが一人いたら大西洋を一ヶ月で渡れます。風が止まった時に助かるんですよ」
「凪ですね」
「よくご存じで。坊ちゃんも将来は我々の商船を前進させているかもしれませんね」
航海士の男性は船の前方を指差す。
異世界には「風を発生させる魔法」が存在し、帆船の推進力として利用されている。
浪漫のある話だった。
出来ることなら魔法を習得しても船関係の依頼はお断りしたいが。もう波に揺られたくない。
「そういえば、坊ちゃんはもう魔法を使えるんですか?」
「こんな感じで女の子になれます」
僕は性別を変えてみせる。
紅顔の美少女ジョセフィーヌちゃんの登場である。
航海士は「?」マークを浮かべながら首を捻った。
「自分には違いがわかりかねますが……」
「あれっ!?」
航海士から可哀想な人を見るような目を向けられる。
おかしい。いつも通りの感覚を再現したはずなのに。何度やっても女の子になれない。
僕の脳内では少年が少年のまま延々と尻を叩かれ続けている。
「な、なんで!?」
「坊ちゃん」
「嘘ではありません! 嘘ではなくて!」
「落ちついてください。王都の魔法使いから紹介状はもらったんですよね?」
「そんなの初耳ですけど、本当にいつもなら女の子になれますから! ものすごく可愛いですよ!?」
「おお。だとしたら。坊ちゃんは……ああ。風使いには向かないかもなあ」
航海士の男性は船の下甲板に降りていく。
僕が愕然としていると、彼は袋詰めの堅焼きパンを抱えながら戻ってきた。
付き人のジーナが『日干しレンガ』と呼ぶ代物だ。長期保存のために水分を極限まで飛ばしたパンであり、食べるたびに胸焼けする。おまけに固いから顎が痛くなる。さらに言うと口内炎製造機でもある。昨日飲み込むまでに何度口の中を噛んだことか。
「多分スタミナ不足なんですよ。坊ちゃん。もっと食べたほうがいい」
「食べても吐いてしまいますし」
「以前雇った風使いは毎日こいつを五袋ほど平らげてました。ビールに浸しながら。自分は詳しくありませんが、結局人間も馬も魔法使いも一緒だと聞きます。飯を喰わなきゃ始まらないんでしょ」
心優しい航海士から堅焼きパンの袋を受け取る。
去り際に名前を訊いておいて良かった。ヤコブと呼ばれているらしい。
客室に戻ると、付き人のジーナがパンの袋をにらみつけるなり「ファニョン家に帰りたい!」と泣き言をもらし始めた。
たしかに僕も実家の料理人が作った焼きたて白パンが恋しい。
波風に揺れ続ける船の中、僕は日干しレンガにかじりついた。悲しくなるほど固くて不味い。




