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最後の魔法は竜の背で  作者: 奥雪 一寸
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第一章 雛竜の名前(4)

 エリオル。

 それが最初から自分の名だったとでもいうように、シルフィナが何の意味ももたない言葉を口にした瞬間、竜の雛はその名に反応した。

「がう!」

 これまでで一番力強く鳴くと、前肢をもたげ、後脚の二足だけで、のしのしと歩き出す。目指す先は竜の巣の出入り口で、まるで自分が巣立ちの時を迎えているのだと、最初から分かっていたように、雛の足取りには迷いがなかった。

「エリオルでいいの?」

 エルカールに背を向け、視線で雛を追うシルフィナが問いかける言葉に、半分だけ彼女を振り向いた雛は、

「がう」

 としか答えない。だが、シルフィナに向かって伸ばされた前肢が、エリオルと名付けられた竜の雛が、それでいい、行こう、とシルフィナを誘っているのだと、彼女自身にも分かった。

「エリオルもその気でいる。どうか、よろしく頼む」

 戸惑うシルフィナに、エルカールが後押しの言葉を掛ける。エルカールも雛をエリオルと呼んだ。その名で良い、と言っているのだ。

「はい。何処までやれるか分からないけれど。はい」

 シルフィナは頷いた。エリオル自身がそれを望んでいるのだ。ここに至り、その手を拒絶する選択肢は、シルフィナには浮かばなかった。

「行きましょう、エリオル。わたし、あなたがそうしたいって言うなら、頑張ってみます」

 シルフィナがエリオルを追い、差し出された手に、自分の手を重ねた。エリオルはまだ、言葉で何かを伝えることができないが、態度で、自分の気持ちを、シルフィナに伝えた。

 置かれたシルフィナの手を傷つけないよう、エリオルは鉤爪を当てないように柔らかく握り、ふわりとシルフィナの全身を引き寄せて、器用に背負う。そして背にシルフィナを乗せ、前傾姿勢で巣の出口の向こうの光の中へ駆け出すと、背の翼を広げ、山の斜面から跳躍するように、飛び立った。

 上昇。強い向かい風を、シルフィナも感じた。見る間にマデラ山中の岩肌は遠くなり、その山裾に広がる樹海が、緑の絨毯のようにはるか眼下に一望できた。

「あれが、獣達の楽園、妖精の樹海です」

 何も知らないエリオルに語って聞かせるように、シルフィナは告げた。向かい風で息苦しく、声も出しづらかったが、エリオルに明瞭に聞こえるように、できるだけ大きな声を、絞り出した。

「その向こうに広がる平原が、ドラー平野。平原の中に見える円形の街が、わたしが住んでいる都市、カルザークです。もう少し行くと、そのさらに向こうに、この辺り一帯を統治している銀塔の都サーラが見えるはずです。……ほら、ずっと向こう。見えてきました」

 空は青く、雲は白い。薫風は新緑を謳い、陽光はすぐそこの夏の訪れを告げていた。シルフィナの語る内容に、エリオルは言葉を返さないものの、先を促すように体を揺すったことから、聞いていることはシルフィナにも伝わった。

「カルザークやサーラが見えるってことは、わたし達は今、東に向かって飛んでいます。本当に、空からだとドラー平野が一望できますね。そのずっと先の、大地の、大陸の端、ホト海岸の白砂浜まで見えそうです。でも、わたし達はこのまま東に飛び続けてはきっと駄目です。南に向かい、南の都市ララーカのむこう、角ヶ峰の中腹にある、ロダルーシュの集落を目指すべきだと思うんです。ただ、その前に、わたし個人が済ませておかなければならないことがあります。マデラの近く、樹海の縁に小さな村があるのが見えますか? レンの林村といいます。あそこで、わたしはエルカールの討伐を請け負いました。失敗を報告して、謝らないといけません。落胆されるのと、何を言われるのかが、ちょっぴり怖いですけど。逃げ去る訳にも、いかないです」

 このまま行方を晦ませては、ひょっとすると、心配した村人達が、シルフィナの捜索を別の旅慣れた人間に依頼してしまうかもしれない。それは駄目だと、彼女にも分かる。彼女自身が罵られるよりも、ずっと問題だ。

「あの近くに、一度降りてくれますか? あなたを村の人達に会わせる訳にはいかないから、失敗の報告は、一人でします」

 正直、恐ろしくはある。逃げてしまえれば楽だとも、シルフィナは思う。エリオルに頼めば、寄らずにずっと遠くへ連れ去ってくれるだろう。それも分かっている。

 シルフィナが、請け負った討伐に失敗したのは、実際、これが初めてのことだ。勿論、相手が強すぎたと正直に申し開けばその通りでしかないのだが、情けをかけられておめおめと逃げ帰って来たと思われれば、ひどく罵倒されることになるだろう。その経験がないだけに、シルフィナはただ想像に怯えるしかなかった。

「がう」

 エリオルが発せられる声は、それだけだ。ゆっくりと旋回しながら、マデラ山の山裾にむかって下降する。やがてエリオルは樹海近くのなだらかな斜面に着地し、シルフィナが背から降りるのを、片手で助けた。

 エリオルの眼差しは、シルフィナを心配するようでもあり、励ますようでもあった。言葉として発することができない想いを、優しげな目元が雄弁に語っていた。

「ありがとう。行ってきます」

 戻れないかもしれない、そんな恐怖を、シルフィナはちらりと抱いた。もしかしたら、討伐を諦めるという選択肢を許してもらえないかもしれない。生きているならば、倒せるまで挑めと言われたら。どうすればいいのか、シルフィナには分からなかった。足が震えた。

 それでも、行かないということは、考えられない。重い脚に鞭打ち、シルフィナはエリオルの傍を離れ、レンの林村に向かった。その名の通り、主に林業で成り立っている村だ。それだけに、村人の大人達は、皆、筋肉質で、上背以上の威圧感がある。そんな大人達に囲まれて責められたら、言葉が出なくなるのではないかと、恐かった。言ってしまえば、今のシルフィナは、魔導師としてのプライドをぺしょぺしょにへし折られた、ただの子供でしかなかった。

 ゆっくりと歩いたシルフィナだったが、村は意外な程に近かった。すぐに木製の壁が見え、村とその外を隔てる門も見えた。その前に、形ばかりの武装をした、兵士とも言えない見張りがいる。見張りは二人で、両方とも男だ。おっかなびっくり歩み寄るシルフィナに彼等は気付き、小走りで駆け寄ってきた。

「無事だったか」

「生きていたか。何よりだ」

 シルフィナの予想に反して、彼等の反応は、むしろシルフィナに同情的なものだった。よほど心配していたのだと分かる顔で、

「何も言わなくていい」

「生きて帰れただけで十分すぎるくらいだ」

 と、彼等は温かい励ましの言葉を、揃ってシルフィナに告げたのだ。そして、

「聞いた時は肝が冷えた。子供に人食い竜の退治を押し付けるような奴は人間じゃない」

 とまで憤慨していた。

「……はい。全然、敵いませんでした」

 シルフィナが半泣きで答えると、

「当たり前だ! 君は悪くない!」

 大きな声で、見張りの男の一人が叫ぶ。

「君が噂通りの稀代の天才だったとしても、相手は年期の違う筋金入りの怪物だ。一人で戦わせて勝てる筈がない。とんだバカ者共だ」

 シルフィナ一人で倒せるようなら、とうの昔に、名うての戦士か誰かが退治している、と見張り達は力説した。シルフィナが心配するまでもなく、レンの林村の聡い大人達は、最初から討伐失敗を確信していたのだ。

「怖い思いをしただろう?」

 見張りの男達は、シルフィナの萎れた顔を、笑うこともなかった。

「休んでいくか? もし村の連中に顔をあわせづらければ、無理に立ち寄る必要もないぞ。生きていたことは、俺達から伝えておこう。村に入るのが辛ければ、このまま行きなさい」

 男達は、シルフィナの心情を慮り、村で報告する必要はないと告げる。村人の中には、過度の期待をしていた者達もいるということなのだろう。彼等の言葉尻には、そういった者達に会わせたくないという気持ちが滲んでいた。

「ありがとうございます……失敗して、ごめんなさい」

 それでも、謝る必要はある、それが責任だと、シルフィナは感じた。謝罪の言葉は思ったよりも簡単で、声に出したことで、何となく、心が軽くなった気がした。

「お疲れ様」

「頑張ったな」

 見張り達に、本来、村を代表する権限などないのだろう。ねぎらいの言葉も個人的なもので、それ程の意味は持たなかったのかもしれない。

「ありがとうございます」

 それでも、シルフィナは救われた気がした。

「このまま行きます。格好つきませんし」

 ぎこちなくだが、笑うことができた。

 踵を返して、歩き出す。足取りは軽かった。しばらく歩いて、背後で村の門に見張り達が戻っていくのを感じると、

「失敗して、ごめんなさいっ!」

 一度振り返り、勢いよく深々と頭を下げて、シルフィナはエリオルのところへ走り出した。


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