第四章 自由への飛翔(5)
エリオルが、レイをなぐりとばした。勢いよく吹っ飛んだレイは地面を跳ね、シルフィナの足元まで転がる。上から見下ろすシルフィナと、目が合った。
殺される。
レイはそう怯えたことだろう。シルフィナの目には、虚しさだけが映し出されていた。それでも、シルフィナは、レイを殺さなかった。
「立ちなさい」
とだけ、告げる。
「なんで、ファリアス」
呆然としながら、シルフィナに言われるままに、レイは立ち上がった。エリオルがのっしのっしと歩いてくる。そして、シルフィナの隣に並び直し、
「がう」
ひとこと謝るように、シルフィナに向かって鳴いた。シルフィナは笑い、頷いた。
「お疲れ様。大変だったでしょうに」
エリオルにねぎらいの言葉を掛ける。実際のところ、シルフィナには最初から、エリオルがレイへの隷属を、いつでも振り切ることができると、見抜けていた。大人しく隷属の魔法に掛かっていたのは、シルフィナが時を待っていたのと、同じ理由だ。エリオルは、エリオル自身の意志で、然るべき時まで隷属していておく方がいいと、判断していたのだった。
「隷属の魔法を掛けたんじゃなかったのか。騙したのか」
レイは、憎々しげにシルフィナを睨む。そんなことを言われても、シルフィナにだってどうにもならないことは、ある。
「掛けましたよ? 解かれないとは、保証していませんでしたよね、わたし」
「……くそ」
歯ぎしりするように、レイが吐き捨てたが、
「お前自身が言っていたことだろう」
さらに追い打ちをかける言葉が、二階のバルコニーから浴びせられた。
「訓練もしていない人間が、扱える竜ではない。ましてやお前のような子供が考えなしに使って、操れると本気で思っていたのか?」
ロゼアが、呆れを通り越して、哀れみを込めた目で、レイを見下ろしていた。その通りだ。自分が言ったことも忘れるとは、お粗末な話だと、シルフィナも苦笑いするしかなかった。
「はは、ははは。そうか。確かに、僕自身の口でそう言いましたね」
急ぎすぎたのか、と、レイが呟く。そうとしか考えられないのが、彼の限界だった。
「いいえ。もしあなたが訓練を受けていたとしても、あなたにはこの子は扱えませんよ」
シルフィナが言い聞かせる。
「そんなことはっ」
そこまで否定されるいわれはない。この期に及んでも、レイはまだ絶望しきってはいない。もっともそれは、強さというよりも、ただ、無知なだけだった。
「いいえ。わたしだって無理です。この子は、単に自分がそうしたいから、わたしに優しくしてくれているだけなんですよ? きっと、どんな竜乗りや竜使いでも、この子がそれでいいと思っているのでなければ、言うことなんか聞いてくれません。それは扱っているのとは違って」
そう言って、シルフィナは微笑み、
「友達だと思ってくれているんです」
おそらくエリオルの真実であるだろう話を、教えた。
「では、僕は」
レイが、エリオルを見つめる。
「がう」
はじめて、レイに向かって、優しい声をエリオルが発した。
「そう。あなたはこの子の友達には、なれなかったんです」
「はは、ははは」
また、レイが乾いた笑い声をあげる。諦めたというには、あまりにも内に秘めた暗い感情が吹き出したような笑いだった。
「何が友達ですか。馬鹿馬鹿しい。兵士諸君。真実を話しましょう。あなた達は子の竜を討伐しなくては。だって、この竜は」
と、空に向かって。
「あの人食い竜、エルカールの子なんですからね。友達なものですか。人間の敵です。ええ、そうでしょう? 殺すべきです。国の平和の為でしょう? 何の為の軍隊ですか?」
彼の告発に、兵士達の間にも、動揺が広がる。まさか。だが、確かに。エリオルが尋常な竜でないことだけは、兵士達も感じていたことであった。
「討伐できるとしたら、雛でいる今のうちだけですよ? 大人になれば、エルカールがもう一匹増えるんですよ? 分かりますか?」
前庭に、レイの声が響く。シルフィナの耳にも、兵士の誰かが、弓を引き絞る音が聞こえたような気がした。
「いかん! 射るな! 下がれ! 皆、包囲を解くのだ!」
何かを察したように、ロゼアが叫ぶ。
「駄目だ! 雛を攻撃するな! 今すぐ城壁から退避するんだ! 早く!」
同じく、慌てたように、コッドも叫んだ。だが、どちらも、遅かった。
たった一本。されど、一本。
矢が、空を切った。そして、その矢が呼び寄せたように、空が翳った。その影の形は間違いなく竜で、それに気づいた瞬間、シルフィナはエリオルの背に飛び乗り、エリオルはレイを抱えて、飛んだ。
矢はエリオルには当たらなかった。エリオルがいた場所に、巨大な土煙の柱が上がる。巨体は前庭の樹木を押しつぶし、長い尾が、絶望を演出するように、城壁の一部を叩き崩した。
エルカール、襲来。
都から見た市民達は、その姿に恐れおののき、大混乱に陥っていることだろう。逃げ遅れた兵士達は空高く跳ね上げられ、巨大な雄竜は、そんな木端に興味はないと気にもとめなかった。
「俺の子を、狙ったな?」
睨んだ先には、ロゼアがいた。誰でも良かったのだ。運悪く、エルカールから目につく位置に、ロゼアがいただけだった。
「その代償は、分かっているのだろうな、人間共」
「わ、私ではない。私は止めた」
ロゼアが答える。ロゼアは腰を抜かし、立つこともできなかった。目の前に人食い竜の顔がある。その威圧感に、完全に怯え切っていた。
その様子を眺め、しばらく、エルカールは何も言わなかった。ロゼアは剣を放りだした。
「降参する! 私は敵ではない!」
「うむ。冗談だ。分かっている」
ロゼアの前から顔を引き、エリオルに抱えられている、レイを睨みなおした。
「分かっているぞ。お前だ。さて、どうしてくれようか」
脅すように言い、舌なめずりをする。遊んでいるようにもみえるが、人間からすれば、冗談や戯れで済む状況ではなかった。
「ひ、ひぃっ」
竜に恐れおののいたのは、レイもロゼアと同じだ。むしろロゼアより酷い有様で、両目から一気に涙が吹き出した。エルカールから名指しで狙われたのだ。その恐怖は計り知れないものだった。
「た、たすけろ。たすけてっ」
今まで殺そうとしていた相手だった、シルフィナに、レイは泣きついた。無理はない。シルフィナはこの場で一番強い人間だ。そして、常識的な人間の能力を超えた人間は、シルフィナしかいなかった。
「あー、無理。手も足も出ません」
可哀想だが、シルフィナも正直に答えるしかない。歯が立たないのは、彼女自身が、誰よりも身に染みていた。
「もう戦ったことがあるんですけどね。もう全然。これっぽっちも勝機なんかなかったです。わたし、それはもう、あっさり負けたんですよね」
エルカールは彼女にも止められない。その宣告に、レイは、本格的に、泣き喚いた。
「そんな、そんなあ」
子供らしいと言えばその通りで。そんな彼を、エリオルはそっと地面に降ろした。そして、
「がう」
シルフィナにも、背から降りるように、促した。彼女が、エリオルの態度に従い、地面に降りる。それを待ってから、エリオルは、
「がう」
父である、エルカールの前に、立ちふさがった。明らかに、戦うつもりの目で。
「まさか」
ロゼアが、やっと立ち上がる。
「嘘だろう?」
コッドも、思わず声を上げた。
「お前が?」
エルカールも困惑する。シルフィナを見て、彼女がかぶりを振ると、
「それがお前の選択なのか。お前自身の」
エルカールが、エリオルに、心底驚いたように尋ねた。シルフィナもこんなことは教えていない。エリオルが、自分で決めたことだ。
「いいだろう。俺はお前の敵だ」
それを、エルカールも認めたが、
「は?」
その巨体が、泳いでいることに、エルカール自身も気付くことが、遅れた。
殴られた。
エリオルに。
そう気づいた時には、父竜は、倒れていた。




