第5話 遥かなる国の向こうに
「……それからすぐに、上条くんが転校して。結局、好きな本の話はできませんでした」
「どんな本?」
「え?」
「その時教えたかった本。どんな本だった?」
夕日を受けて、北斗さんの顔が少し翳った。その声はやさしそうだったから、微笑みを浮かべているのは分かったけれど。
「それは……」
正直、今でも迷ってしまう。
好きな本はたくさんあるけれど、一冊には決められない。どの本もどの本も、たくさん好きなところがあるし、その本にしかない魅力がある。逆に言えば、この本でなければという決め手もない。
あの日の出来事を、心の中で再現してみた事がある。
でも、やっぱり決められなかった。
「今読んでるのは、『おちゃめなふたご』。でも、上条くんが好きなやつじゃないから……」
「それでもいいよ。おすすめを教えて」
「うーん……」
しばらく迷って、首をひねりながら考えて、ようやく綾乃は一冊の本のタイトルを挙げた。
――『遥かなる国の物語』。
「どんな話?」
聞かれるまま、本の内容を語っていく。
物語は架空の国で、王様の跡継ぎを決めるお話だった。王様には七人の息子がいて、それぞれ小さな国を治めている。その中のひとりが、巨大な王国の跡継ぎとなるのだ。
登場人物もさまざまで、たくさんの種族が登場し、物語を美しく彩っていく。まるで夢のような出来事に、夢中になって読み進んだ。
とても長いし、あまり知られていない作者なので、人に勧めた事は一度もない。
けれど、北斗さんになら教えてもよかった。
「面白そうな話だね。読んでみたいなあ」
「面白いです」
「――ああよかった」
北斗さんが深いため息をついた。
「それが聞きたかったんだ。聞けてよかった」
「え?」
「お――とうとに、そのことを最初に聞いてから、ずっと気になってたんだ。どうしても聞いておきたくて」
そのために来たんだと、北斗さんは綾乃を見た。
上条くんと同じ、綺麗に澄んだ茶色の目。
最初に聞いてというのは、上条くんにだろうか。でも、彼と綾乃は友達じゃない。わざわざお兄さんに話すとは思えないけれど。
それに、今の言い方だと、お兄さんはそのためだけにここに来たように聞こえる。家族が大変な時に、そんな余裕があるものだろうか?
それ以前に、上条くんはメールも電話もできないと言った。手紙さえ出す事はできないと。でも、手紙ならお兄さんに渡せばよかったはずだ。それができないというのはどうしてだろう?
何よりも、どうして、上条くん本人がやって来ないのだろう?
綾乃の疑問を、北斗さんはすべて理解しているようだった。
やさしく微笑って、けれど、答えてはくれなかった。
「隼人は今、ここにいない。多分返事はできないし、二度と会うこともないと思う。でも、隼人にとって、あれは心残りな出来事だったんだ」
「心残り?」
「転校先でもずっと気にしてた。とっくに忘れてるって言われても、今さらそんなこと言ったってって笑われても、ずっと覚えてたんだ。だから今日、俺が来た」
そして答えを聞いてみたかった。
「忘れてるなら仕方ないし、無理やり思い出させるのはルール違反。そういう約束で来たんだ。君は覚えていてくれた。ありがとう、感謝する」
「……よく分からないです」
「分からなくていいよ。俺も説明はできないから。ただ、これだけは教えてあげられる。隼人は今の言葉を聞いて、きっとすごく喜ぶよ」
北斗さんは泣きそうな顔をしていた。
今にも泣き出しそうに、それでも嬉しそうに笑っていた。
「隼人のことを覚えていてくれてありがとう。二人だけの思い出を教えてくれてありがとう。君に会えてよかった。話ができて、本当によかった」
「上条くん、どうしたんですか?」
「どうもしないよ。ただ――そうだな。俺がここに来たのは、本当に特別なことだから」
そういえば、家族全員で逃げたのに、戻ってきてもいいのだろうか。
今さら気づいて心配になると、それを見越したように「大丈夫」と笑われた。
「俺は大人だからね。それにここなら、誰も俺を捕まえないよ。心配しなくていい」
ありがとう、ともう一度言われる。
よく分からないがほっとして、綾乃は笑顔になった。
「今度、上条くんの好きな本も教えてください」
「好きな本、か」
そこで少し考えると、北斗さんは頷いた。
「多分、まだ難しいだろうから、大人になったら探すって約束できる?」
「約束します」
「人に話すのも、本棚をチェックするのも、お店の人に聞くのも、それまで絶対に駄目だけど……我慢できる?」
「できます」
本棚のチェックも駄目なんて厳しいけれど、そう難しい話じゃない。
即座に頷いた綾乃を見て、北斗さんはくすりと笑った。
「じゃあ、教えてあげる」