72. 壁の向こう
声が聞こえたのは気のせいだった——そう思いたい気持ちを込めて振り返る。もちろん気のせいではなかった。
目の前で形の良い目頭にしわが寄っていく。時間が引き延ばされてゆっくりと、けれど止まることなく進んでゆく。どんなにゆっくり見えたとしても、僕の身体はちっともいうことを聞いてくれない。まるで自分の身体ではないように。
今自分の表情を見ることができたなら、バカみたいにゆっくりと間抜けな顔に変化していることだろう。間抜け具合が倍増されている気がしてとても嫌だ。時間は着実に前へと進んでいて、それをいつもより早く回る頭でただ眺めることしかできないなんて。
土の匂いに混じって爽やかなハーブが香った。教会のあの悍ましさが浄化されるようだ。このハーブは地域によっては魔除けのお守りにも使われていはず。こんな状況でなければ心ゆくまで吸い込んで癒されたい。けれどもっと暖かい土地に生える品種だったと思う……ここで見ることになるとは思わなかった。
今気に留める必要のないことだとわかっているのに、生き生きと風に吹かれる葉っぱに目が向いてしまう。こんなことを考えている場合ではない。そうなんだけど。
目の前の人物は動きやすいワンピースを着ていた。いかつい警備兵ではなくて良かったと思いそうになる。警戒した表情の彼女は薄い黄金の髪に綺麗な緑の瞳。姉さんと同じくらいの年頃かもしれない。張り詰めた空気の中、上からしたまで観察されている。
懐かしい顔だと思った。初めて会うはずなのに。
けれど会ったことがあるだろうか?と、ゆっくり考える暇はなかった。彼女がこちらへと手を向けてきたからだ。何もない空間に向かって手を伸ばすのは魔法を使う時にやる仕草だ。その手から魔法が放たれたならば、僕には避けることも受け止め切ることもできない。
腕の動きに合わせて黄金の髪がキラキラと光を弾く。ついさっき教会で見たステンドグラスが思い浮かんだ。薄暗い中で唯一輝いていたあの女性の色。緑の眼差しが印象的で、ああ…けど、この顔立ちはもっと違う誰かに似ているような気がする。もっと僕のよく知っている——
「ヴィア……」
そう声に出した途端、すうっと魔力の動きが引いていった。どうゆうわけか魔法を放つのをやめた彼女はそのまま手をおろして今度はさりげなく園芸用のハサミを握りしめた。警戒を解いてくれるわけではないみたい。エプロン姿の彼女が片腕に抱えた籠には数種類のハーブと、手袋が入っている。ハサミで攻撃されるのも、十分痛そうだ。
「……貴方は、あの方とお知り合いなのですか?」
「…ヴィアちゃん、オリヴィア・ベルカのこと、ですか?」
こくりを彼女の首が動く。
「僕の……大切な、友人です。」
そうだと認めてくれないかもしれないけれど。いいや、頑なに拒絶されそうだ。
それよりこの人は誰なんだろう?ヴィアちゃんと顔立ちが似ているけれど、彼女の血縁なら貴族のお嬢様のはず。庭でエプロンをつけてハーブを摘んだりするかな?思い浮かんだ貴族のみんなは…あんまり参考になりそうにない人たちばかりで、ちょっと自信がない。
「失礼ですが……学園のご友人ですか?」
「ええ。バルクの学院で。」
「あちらで…では貴方が……。オリヴィア様は、彼方の国で…どんなご様子だったでしょうか?」
何もおかしい質問ではなかった。けれど今まで誰にも聞かれなかった。誰もがヴィアの一挙手一投足を気にかけているというのに、バルクでの様子を尋ねてきたのはこの人が初めだ。
「……よく、笑っていました。」
「そう、ですか…」
「はい。ヴィアは誰とでも仲良くできる子で、それから特に家族を大切にしていました。」
「家族……ですが彼女のご両親は……」
「ええ。けれど血は繋がっていなくとも、大切な家族がいます。」
彼女がピクリと目を見開いた。何かまずいことを言っただろうか? けれど、エヴァちゃんはヴィアの大事な家族だ。彼女は——
「今も、バルクで待っている。ヴィアのことが大切で、大切だからどうしていいのかわからなくなっているけれど。もちろん僕達だって。こんな風にお別れなんてできないんです。だから……あ、の…」
どうしよう……? 口で何と言っても僕は不法侵入者だ。
ハサミを握った彼女には隙がないように思えた。武術は得意ではないから、力量なんてわからないけれど、はさみじゃなくて剣を構えた人のよう。
「だから、ここに侵入したと?」
「・・・」
「連れ出せると思ったのですか?」
追っ手を仕向けられたら、僕がバルクまで見つからずに連れ帰るのは無理だろう。フリフリと頭を横に振ると、彼女の顔は一層怪訝なものになる。
「……知らないままなんです。何かに巻き込まれていることはわかっているのに、僕のことはただ遠ざけようとするばかりで。けど、さっき教会で見たんです。良くないものを。そしたらいても立ってもいられなくて。」
自分でも恥ずかしくなるほどに無計画。ただ…
「ただ……会いたい。」
「会って、問い詰めて彼女が素直に話すと思いますか?」
ヴィアよりもシャープな雰囲気の目の前の女性は、じっと暫くこちらを見つめた後、「はぁ——」と困ったように息を吐いた。
「バルクからここまで来るのは簡単なことではなかったでしょう。貴方のような友人がいらしたのは喜ばしいことです。ですが、教会の奥で行われていることを見たのですよね? 皇国民が皆、口に出したがらない事です。貴方が彼女に会ってなんとかできると?」
「……諦めません。」
急にすうっと細められた瞳に捉えられる。グッと重くなった空気がのしかかってくるように感じた。
「僕たちは、諦めない。」
鋭い視線をじっと見つめ返した。一瞬のことだったのか、もっと長かったのか、彼女の射抜くような視線が消えた途端に、自分が息を止めていたことに気づく。
「……貴方の気持ちが堅いことはわかりました。ですが、ここへ来られたのは良くありません。」
さっきまで鋭い視線に相対していた身体は、不穏な言葉にすぐ反応する。
「貴方は招かざる客です。皇国について知れば知るほど、貴方の身は危険になる。もうすでに危ないですが、深入りはしないに越したことはない。このままお帰りください。そして、今すぐにでもこの国から去るべきです。」
「いやです。」
「彼女を連れ出せないのに?」
「——っ。貴方の言うように僕1人の力では何もできない。でも、状況がわからないままではもっと助けられない。そうでしょう?」
だから、ヴィアちゃんに事情を聞くしかないんだ。それにしてもこの人はさっきからどうして兵も呼ばずに話してくれるのだろう?ひょっとして彼女もヴィアちゃんを連れ出したいと思っているのかな?そんな、淡い期待が膨らみ始める。
「……ですが、お嬢様に合わせるわけにはいきません。」
勘違いだったかもしれない。
「そんなっ「代わりに、私の知る範囲で、貴方の疑問にお答えしましょう。聞いたところで何かできるとも思えませんが、それでも知りたいですか?」」
「教えてください、ヴィアのこと。」
「聞けば、引き返せなくなるとしても?」
こくり、と頷く。
「……わかりました。何から話しましょうか。お嬢様の制服のカラーが他の方と違う色なのはお気づきになりましたか?」
「エメラルド、ですよね。ヴィアちゃんだけ。」
「はい、あれはロドニアだけが付ける特別な色なのです。ロドニアは他家にはできない大きな役割を、皇国の闇に関わる役割を担っています。貴方は教会で見たとおっしゃいましたね? それで、この国の裏に何かとんでもないものがいると、思い至ったのではないですか?」
「…魔族、ですか?」
「魔族だと……そこまで気づかれたのですね。ええ、彼らに差し出すための血を集めていたのでしょう。貴方が見たのは貧民から集める所ですが、それとは別格の血を提供する者がロドニア家から選ばれます。」
「それが、ヴィアちゃんだっていうんですか!?」
「ええ。彼女は今の贄姫です。ロドニアは贄の家系——魔族好みの血になるように代々交配されてきた一族なのです。」
「交配……」
そんなことが何代も繰り返されてきたのか。ヴィアより前に何人もの人がいて……彼女もまた無理に誰かとの子を——考えただけでゾッとする話だった。
「家畜のようですか?それがこの国が考え出した最善なのですよ……」
一段と重く冷たい声が突き刺さるようだ。
「魔族への大切な供物に人間如きが手を出すと大事になりかねません。あのカラーは権力の象徴というよりも、教員や学生が誤ってロドニア家の者に無礼を働くのを予防するためのものです。」
「供物だなんて……」
「皇国では”聖なる家系”と、聞こえ良く言われたりもします。」
はっ、何が聖なるなんだ!と、言葉も出てこない。
「魔族と関わるという役割の性質上、ロドニア家は貴族の中でも発言力は強いのです。過去には自分の立場を上手く使って権力を振るった方もいたようですし。そういう意味でも他の貴族から警戒されることは多いですし、学園での扱いも他国の方から見ると随分違和感があるでしょう。特にオリヴィア様は当代の贄ですからね。」
「贄……」
「あの方のおかげでこの国の民は随分と守られているのです。贄の血の代償として……。救い出すのなら、魔族をなんとかしなければなりません。それも1人2人ではなく。」
それは無謀なことでしょう?と言われているようだった。
「貴方に助けられなくとも、仕方のない事です……」
慰められているのか?それとも彼女自身が諦めてしまっているのか。僕が来たのは余計なことだったのか。
この人がどんな気持ちでいるのか、わからなかった——。わからないけれど、瞳の奥に強い思いが込められた顔をしていた。
今会ったばかりの人間には到底理解できないような複雑な感情が渦巻いていた。当たり前のようにヴィアを連れ帰った親族たちとは、違うのだと思った。
パシリと手を小さく打ち合わせると。その何とも言えない顔を冷静沈着なものへと戻す。
「何か、お嬢様に伝えたいことはありますか?それくらいなら私が承りましょう。」
「——この手紙を、彼女に渡していただくことはできますか?」
「ええ、確かにお渡ししましょう。先ほども言いましたが貴方は今すぐこの国を離れるべきです。皇国にとって貴方は邪魔な存在のはず。オリヴィア様がいなくなればその分の血も皇国の民が負うことになるのですから。何か策が有るにしろ、無いにしろ、このまま学園に通い続けるのはやめた方がいい。今こうしていられるのも、単に様子見をされているからかもしれません。誰が何をしてくるかは私にも分かりかねます。」
僕を邪魔に思うのは、魔族だけではないということだ。むしろ、この国の人間の方が厄介なのかもしれない。わざわざそんなことを教えてくれるこの人は、一体——
「あの、貴方のお名前は?」
「貴方が会ったのは少し物知りなこの家のメイドです。」
「え、……」
「……」
そうでしょう?という圧がすごい。
「……あ、はい、メイドさん?……バルクに、帰ろうと思います。」
「それがいいでしょう。では、塀の外に出るのを手伝いましょう。」
「あっ——」
ロープを壁の向こう側へ垂らしたままだった。危ない。真昼間に人様の家に侵入する犯罪者としては致命的なミスだ。
けれど彼女はそれについて咎めることもなく、兵士に僕を突き出すこともなく僕を逃がしてくれた。魔法で助けてもらった結果、入った時よりも簡単に壁の外へ出られた。やはりあのメイドさんはとんでもなく魔法が得意そうだ。あの時、咄嗟に『ヴィア……』と口にしなかったら速攻で始末されていたのかもしれない。
言われた通り、すぐにここを去ろう。シモン兄さんと学業を疎かにしないと約束したけれど、もうそんなことを言っている場合ではない。魔族が関わっていたのだから。一刻も早くみんなに、エヴァちゃんにこのことを知らせないといけない。とても僕1人でどうこうできる話ではなかった。
今すぐに屋敷から連れ出すことはできない——
その現実にやり場のない感情が湧き上がってきて、人の行き交う大通りを走るように帰った。
夕方になるといつもはしつこいくらいに漂うこの国独特のシチューの甘酸っぱい匂いが、今日は全く感じられなかった。
寮の部屋で急いで荷造りをする。皇国に来てから増えたものはあまりない。自分に出来たことの少なさを証明しているようで、やるせない気持ちになった。
バルクに辿り着くのに必要な最低限のものだけを纏めると、急いで皇国の都を後にした。




