68. 皇都
石畳の上、夜の気配を残した冷たい路、何処かのパン屋から漂う香ばしい香り——
1日の始まりを知らせる鐘の音が冷え切った空気を揺らし、大通りに行き交う人々は慌てて足を早める。細い路地の上では、小さく切り取った空を横切るように色とりどりの服が風に揺れている。
太陽が高い所までの登る頃には、誰かが屋台で買った串肉の脂っこい匂いや甘い菓子の匂いに、煙草の残り香が漂う。入り混じる香りの中で時折、花売りが抱えたカゴから清涼な匂いがフッと香り、思わず足を止めた人が手を伸ばす。
忙しない人通りのすぐ側、ぎゅっと肩を寄せて並ぶ屋根の上では煙突から顔を出した煤払いの少年が新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んでいることだろう。
何処からか楽器の音が鳴り響き、市にやってきた人たちで賑わう広場の隅では大道芸人や踊り子が衆目を集めている。けれど気を取られている間に誰かにぶつかったなら、直ぐに持ち物を確認するのが賢明だ。
賑やかな通りのすぐ側には不用意に歩かない方が良い通りだってある。眩しい光と対になるように。そうゆう治安の悪い一角には、貧しい者や事情を抱えた者が、ならず者に怯えながらひっそりと暮らしていて、その日手に入れた僅かな食事を誰にも取られまいと急いで胃に収めているものだ。
それが、僕の知っている街。だけどここには・・・
「花売りが、いないんですね」
国境を越えてからも何度か馬車を乗り継ぎ、ようやくイルビス皇国の皇都に着く頃には、赤い色をした独特なシチューの味にも慣れていた。皇都に着いてからは休む間もなく手続きに追われ、あっという間に夕暮れが近づいていた。これからお世話になる研究所の研究員さんに連れられて街を歩いている今、やっとゆっくり周りを見渡す余裕ができていた。
「花売りですか?」
「あ、いえ・・・日銭を稼ぐ子供達がいないなと」
この時間帯なら仕事帰りの大人に花を売りつけている子を1人くらいは見かけるものだ。そう思って咄嗟に出た言葉だったけれど、僕は少し間違っていたのだろう。『整然と並ぶ街並みが素晴らしいですね』とか、『あの赤いシチューは不思議な味だ』とか、もっと当たり障りのないことを言えばよかった。せっかく話題を振ってくれた彼は、少し困惑した表情を浮かべている。
「日銭を子供が・・・?この国では身寄りのない子供達は教会の孤児院で施しを受けることができます。ですが、バルクにも孤児院はあるのでは?」
「はい、あります。けど、孤児院に入っていない貧しい子もいますし、孤児院の子達も少し大きくなると仕事を見つけて働きますよ?」
「そうなのですね。こちらとは、事情が違うようですね。花売りの子供が全くいないとは言いませんが、それをしなければならない子は少ないでしょう」
教会に全ての貧困が救える?——本当に?
母国バルクは貧しい国ではない。農耕と交易で安定した治世が続いている。それでも花売りをしなければやっていけない子供達はいる。施しは無限じゃない。そんな思いが顔に出ていたのか、彼は付け加えた。
「・・・彼らは大切な民ですから」
「そう、ですね。貧しい子供が少ないのは・・いいことですね」
目を逸らしながら言われると無意識に何かあるんじゃないか?と思ってしまう。僕が気にし過ぎているだけかもしれないけれど。
知らない土地だからって何にでも敏感になり過ぎている自覚はあるんだ。だから喉に何かがつかえた時のような違和感に見ないふりをした。今日会ったばかりの彼と根掘り葉掘り話すことでもないだろうし。曖昧に話しを締め括ると、彼はほっとした様子を見せた。
そこからは話題を替えていろんな話をした。特に異国での研究の話はとても興味深くて、あれこれ質問している内にあっという間に時間は過ぎていった。店を出る頃には、感じていた違和感は頭の隅に追いやられていた。
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「ユディさんが訪ねて来るなんて、もしかしてエヴァに何かあった?」
「あ、いいえっ!そうではないんですラザ先輩。エヴァはその・・・」
彼女はどこか痛いのでは?というような表情をしていた。やっぱり、エヴァはヴィアがいないと・・・
「相変わらず、かな?」
こてり、と頭を下げるのに釣られてユディタ・バイガル嬢の髪がフワフワと動く。純粋な金よりも緑に近い、柔らかな色。エヴァとヴィアが最初に学院で仲良くなった少女だ。どこか神秘的な雰囲気から『妖精さん』と呼ばれて、変な噂まで出回っていた。
『偶然見かけるとラッキー、妖精と遊んでいれば尚よし、一緒に精霊を連れた少年(アレシュ君のこと)がいるのを見かけた日は文句なしの1日を送れる!!』
という噂だ。これが僕の学年では流行っていたようだけど、今も続いているのだろうか?
後追いするように『決して妖精さんの邪魔をしてはいけない——邪魔すれば・・・』という情報が出回ったことで、偶然見かけてはこっそりと喜ぶスタイルになったのが本人にとっては幸いだった。でなければ、いろんな人に呼び付けられて煩わしいことになっていたと思う。
おそらくあの友人たちの誰かが噂を流したんだろう。
ラッキーアイテム扱いをされるだけあって、ユディさんには雰囲気がある。それはふと目を逸らした瞬間にいなくなりそうな儚さであり、誰とでも打ち解けられそうな朗らかな社交性であり、それらが共存したなんとも形容し難い不思議な雰囲気である。
人当たりよくニコニコと微笑めば大抵の人は毒気を抜かれるだろう。彼女はそれを自覚しているタイプだ、と僕は思っている。『妖精』の御伽噺が可愛らしいものばかりではないように、彼女も博愛主義者というわけではないのだろう。
(うちの子達は、ほんとクセの強い子と友達になったな・・・)
普通の子がいない気がするのだけれど、それをヴィアたちに言ったら『ラザお兄ちゃんもでしょ?』と言い返されそうだ。
「ラザ先輩?」
ユディさんが首を傾げていた。ほら、やっぱり考え事をしていることに気付かれた。とても聡いんだ、彼女は。周りをよく観ているし、絶妙な距離感を心得ていて、鋭い。
なんとなく敵に回したくない人だと思うのは、同族っぽく思える部分があるからだと思う。ユディさんに商人的な気質があるのは生家が商家なのだから当たり前と言えば当たり前なのだけれど、彼女のふわふわとした外見からは想像し難い気質だと思う。
「なんでもないよ。それよりユディさんは大丈夫かい?アレシュ君も留学してしまって、なんと言えばいいか・・・心配事が、多くなったんじゃないかな?」
彼女は少し固まって、それからふっと口元を緩めた。それは時折自覚して作る微笑みではなくて、自然に出た表情のように見えた。
「ラザ先輩は優しいですね。ヴィアとエヴァが頼りにする気持ちが少しわかるかも」
「優しいかはわからないけれど。でも僕にできることがあるなら頼って欲しいな」
ユディさんは望み通りの言葉が聞けた、というように微笑む。そして、ふわふわした愛らしさも商人のような狡猾さも消して、ただ真剣な表情になった———
「今日は先輩にご相談したいことがあって伺ったんです」
「なんだい?」
真っ直ぐに見つめる琥珀の瞳は、何かを決意したような強い色を帯びていた。神妙に頷くと彼女が切り出す。
「先輩、私を———」
ユディさんは琥珀の瞳でこちらを見据えたまま、じっと返事を待っている。肩口には妖精がちょこんと立っていて、応援するように一緒にこちらを見ている。ユディさんの淡い髪を一束ぎゅっと握りしめて真剣な顔を作っているのが愛らしい。
「・・・本気なんだね。けれど、それは君以外に任せてもいいんじゃないか?」
「いいえ、これは私がするべきことで、今から準備しておくに越したことはありません」
きっぱりと言い切ったその言葉は、妙に力強かった。
『決して妖精さんの邪魔をしてはいけない——』
後追いするように流れたあの噂の言葉が、僕の脳裏に浮かんだ。妖精は自分の好きな者を愛し、邪魔者には冷たいのだ。自然と口角が釣り上がるのがわかった。
「ラザ先輩?」
「ああ、うちの子たちは良い友達を持ったなと、思っていたんだ」
「前から思ってましたけど、先輩って——」
「ユディさんが思っていることは、否定しないよ」




