66. 苦い気持ち。優しい味
ぼーっとしていると扉をノックする音が聞こえる。
「はい……」
返事をしたものの、まだ起き上がる気になれなくてそのまま布団の中に顔を埋める。運ばれて来たカートからは食べ物の匂いが漂っていて——
「うっ……」
匂いに気づいた途端に口の中に不快感が広がった。昨夜の生ぬるいあの感触を思い出して思わず嘔吐く。それを予期していたかのように、すっと横から盥とゴブレットが差し出された。
「口を濯いでごらんなさい」
ゴブレットからはニョキニョキとハーブがはみ出していて、その爽やかな見た目のおかげで口に含む気になれた。お礼を言う余裕なんてなく、奪い取るように掴んで含むと、想像通り爽やかな香りが口の中に広がる。汚いものを清めてくれるような気がした。
何度も、何度も口を濯ぐ。その間侍女さんは咽せそうになるオリヴィアを落ち着かせるように背を撫ぜてくれていた。どのくらいそうしていただろう?——やっと落ち着いた頃に顔を上げて、オリヴィアは危うくゴブレットを取り落としそうになった。
側で背を撫ぜてくれていたのは侍女さんではなく、この屋敷の当主様だった。
「……ありがとう、ございます…」
急に気まずさが込み上げてくる。少し前まで心の中で苦手だと考えていた人にお世話してもらったんだもの。
「食欲は……」
ぶんぶんと首を横に振った。苦言の1つや2つ言われるだろうと思うとシーツを握る手に力が入る。
「そうですか。これも……食べられそうにありませんか?」
予想に反して当主様はワゴンを振り返ると、豪華なお肉やお魚の料理を避けて、端の方に置かれたお皿を1枚手に取るとオリヴィアの顔色を伺いながらゆっくりと差し出してきた。
それは透き通った黄金色のスープだった。
「お日様みたい…」
「え…?」
「…?」
なぜか驚いたような顔をした当主様は取り繕うように何でもないと言い、それで、食べられそうなのかと問いかけてきた。再びスープに意識を戻す。深い色味に反して爽やかな匂いが立ち込めている。
(これなら…大丈夫かな?)
でも、もどしてしまったらどうしよう?と考えていると、吐き出してもいいから口に入れてみるようにと言われ、恐る恐る口に運ぶ。
薄い味付け。沢山の野菜にハーブ、あとは……お魚かな?さっぱりしているけれどすごく栄養が詰まっているような気がする。
「……おいしい」
もうひとくち、口に運ぶ。またもうひとくち。この屋敷で食べたモノの中で、これが1番美味しい。じっと眺められているけれど、構わずスプーンを口に運ぶ。倒れるまで血を奪われた後なのだもの、身体は栄養を必要としている。
黙々と完食してほっと息を吐くと、オリヴィアを眺めていた当主様が食器を片付ける。もう少し寝るようにと言って扉を開けた彼女は、そこでふと立ち止まった。どうしたのだろう?と思っていると、少し逡巡した様子を見せた後、ぽつりと呟く。
「スープ……」
「……?」
「気に入ったのなら……また用意しましょう」
「うん…あ、はい……」
オリヴィアの返事にコクリと頷いた彼女は『さぁ、もうおやすみなさい』と言い残して部屋を後にした。
何だか拍子抜けしてボケッとした返事をしてしまった。当主様のこと、いつも凛としていて揺らぐことのない人だと思っていた。鋼鉄みたいな無機質な感じもするし。けど、さっきのは、なんか違ったよね……
(当主様も悩んだりするんだ…)
少し意外に思った。スープを用意するか?とか、そんなことで悩むんだ。当主様が作るわけでもないだろうに。何でもこなせそうな当主様でも料理は流石にできないよね。貴族様だし、包丁持ってる姿も想像できないし…
エプロンをつけた当主様はいつもよりもっとお母さんに似てるんだろうなーなんて考えていると睡魔がやってくる。ほんのりと温まった身体がどっぷりと底なし沼に浸かっていくように……今度起きた時にははちゃんと起き上がれるような気がした。
***
やっとだ———
国境にある街。バルク王国からの留学生であることを証明する書類を見せて検問を越えたのがついさっきのこと。そのついさっきまでは、もっとワクワクするものだと思っていた……
昨晩から好奇心は膨れていた。商人でもない限り国外に出る機会なんてほぼ無いからだ。一生を自分の生まれた国で過ごす人がほとんどで、生まれた町から出ない人だっている。そんな中、目的はどうあれ滅多にない他国に足を踏み入れる機会を手に入れたのだから、ワクワクもする。
けど、門を潜って街を目に入れた途端にすっと波が引くように高揚が静まっていった。
僕は違う国にいるんだ——
特別おかしなことは何もない。すぐ側を通り過ぎて行ったお兄さんは仕事場に向かうのか、肩から道具袋のようなものを提げている。向こうにいるおばさんは家族のために食材の買い出しをしていて、反対の道ではおじさんが荷車を引いている。この国の人たちが今日という日を生きている、目の前に広がったのはただの日常の一コマ。なんの変哲もないはずのそれが、僕にはとても強烈に映った。
——ここはバルクの街じゃない。
ユディちゃんがいたらもっとしっくりくる言葉を聞けたかも。リーデちゃんやゾエの精霊様なら何か辛辣な事を言ったかもしれないし、グスタフ君がいたなら的確なこの国の情勢を教えてくれただろう。僕ではすごく月並みな言葉しか出てこない。
すっと浮き上がっていた気持ちが沈んで、やがて心が苦しくなってきた。親しい人もいない中、この街へ来た彼女は何を思ったんだろう……?と。
見上げればバルクで見るのと同じ空が広がっていて、今日も呑気に雲が流れている。目の前にあるのは何のことはない日常で。
……たった1つ、壁を潜っただけなのに。頬を撫でる風は異国の匂いがした——




