65. ロドニア
世界が、回ってる——
ううん。回っているのは、私の方…?
グラグラと揺れては意識が根こそぎ持っていかれるようにふわっと浮いて。ぎゅーっと押さえつけられるように頭が痛みを訴えている。
けれどもその訴えを無視して、足を前に出せ!と命じる。こんなところで倒れるなんて、絶対にごめんだ。
やっと解放された時にはもうフラフラだった。だんだん血を吸われる量が増えている気がする。
回復が追いついていないのか、それとも牙と一緒に身体を蝕むモノでも入れられているのか、オリヴィアにはわかりようもない。
けれどこのまま少しずつ弱っていって、いつか喰い尽くされるのだ——と、そう考えるほど身体が重くて、辛い。
ブツブツと弱音を吐いて、このまま座り込んでしまいたい。でもここにはオリヴィアを助けてくれる人はいない。ここで座り込んだならそのまま冷たい床で朝を迎えるか、運が悪ければあの魔族の所へ連れ戻されて続きが始まる。そんなの絶対に嫌。
自分を励ましながらなんとか外までたどり着いたところで、限界が来た。
グラリと大きく傾いた身体。力の抜けた状態で立て直せるはずもなく「ああ、これは痛いぞ…」と襲ってくるはずの痛みに身構えるのが精一杯。
——けれど、硬い地面に叩きつけられることはなかった。
触れそうなほど近くに整った顔がある。
いつもオリヴィアをここに連れて来る人で、ここまで迎えに来る人の顔。
暗がりの中、玄関の明かりを溶かし込んで暗く煌めく瞳は、よく見るとオリヴィアと同系の緑色をしている。薄暗闇に浮かび上がった彼女は陽の光の下で見るよりも大人っぽくて……お母さんの面影があった。
『どうしたの!?熱があるのかしら?』
オリヴィアが具合悪そうにすると、お母さんはいつもオロオロと心配してくれた。おでこに手を当てて熱を測ったり、お薬を飲ませようとしたり。なのに目の前の人はうんともすんとも言わない。
どうしてだろう?と不思議に思いながらじーっと見つめて……やっと当たり前のことに気が付く。
「あ……ごめんなさい」
(当主様は、私のお母さんじゃないんだから…)
ふわふわとはっきりしない頭を横に振った。グラグラと頭を揺らしたせいで余計に気持ちが悪くなった。自力で立とうと身を捩れば、綺麗な腕が伸びて来て引き戻される。
当主様はスラリとした見た目に反して危なげなくオリヴィアを受け止めたかと思えば、腕に抱えて歩き出す。
事務的に淡々としていて余計なことは喋らない。それが却って、咎められているように思えて情けない気持ちになった。
ただ運ばれているだけなのに、意識がすっと沈んでは浮いてを繰り返し気分は最悪。動きが止まっていることに気がついて瞼を持ち上げれば、当主様の顔が目に入る。何か言わなくてはと思っていると、制するように堅い声が降ってくる。
「屋敷へ戻ります。——このまま、お休みなさい」
ごめんなさいと言う元気もなくて、瞼を動かして返事をする。閉じかけた瞳の端で捕らえた彼女の表情が歪んで見えた。
あれ?と思ったけれど、もう一度確かめる程体に力が入らない。そのまま沈むように意識は遠のいてゆく——
***
朝眠りから覚めた時、瞼を開くまでの僅かな時間が好き。
瞼を開けるまではどこにだって行ける。ロダの家、学院の寮。何度もうたた寝をしたテラスもいい。
「っん……」
目を開いた先に想像したどれとも違う天井が見えて、一気に気分が下がる。漏れそうになるため息を何とか噛み殺した。ため息ばかり吐いていると幸せが逃げていくものね。
現実はオリヴィアに優しくはなくて、体はずっしりと鉛のように重い。それでも酷い頭痛は治っていて、少しだけ安堵する。
結局、当主様に抱えられたまま、帰って来たんだよね?
このベッドまで彼女が抱えて運んだのだろうか?重い体を運ばせて申し訳ない。意識がなくなる間際に見た当主様は凛とした顔を歪めていた。怒っていたに違いない。彼女に会ったら役目をきちんと果たせと怒られるんだろうか?
平民を無理に着飾らせたような自分を、貴族のお嬢様然とした当主様が白くて細い腕で抱えて運ぶ姿を想像する——きっと、とっても陳腐な光景だっただろうな……
ナジェジュダ・アルテミシオスヴィア・ロドニナ。
屋敷の主人で、ロドニナ家の当主で、血縁上オリヴィアの従姉妹にあたる人。
『それ以上でもなければそれ以下でもありません——』と、彼女は言った。血の繋がりを感じさせる緑の瞳がこちらを射抜いているように思えた。
彼女の話によると、お母さんの本当の名前はシャルロッタ・アルテミシオスヴィア・ロドニナというらしい。赤の他人の名前みたいに感じた。村ではいつもダーシャと呼ばれていたもの。
私のお母さんはダーシャ・ベルカ。シャルロッタ様なんて人は知らない。
けれどお母さんは確かにシャルロッタで、娘の私はロドニア家の血を引いているのだという。この緑の瞳を持つ者は珍しいらしい。ロドニア家以外で見られるのは、周辺の国ではバルク王国の王族くらいなのだとか。
それに瞳の色より何より、当主様——ナジェジュダ様はお母さんに顔立ちが似ている。母と似ているのだから、オリヴィアとも少しだけ似ている。凛とした彼女とオリヴィアとでは雰囲気が全然違うから、パッと見ではわかりにくいけれど。……だから、自分がロドニアの血を引いていることに疑問は感じなかった。
当主様はオリヴィアがあっさりと納得したことに驚いたようだった。それでも一瞬眉根をピクリと持ち上げると、何事もなかったかのように話を続けた。
本当はお母さんの役目だったのだ――アレに血を捧げるのは。
けれどお母さんはロドニア家を逃げ出した。役目も、家族も、この国に住まう民も置き去りにしてバルク王国へと逃れた。お母さんが、去った後、当主様の母君が、そして姉君が代わりを務めてきた。
当主様はまるで歴史を語るかのような調子だった。個人の感情なんて存在しないかのように振る舞う彼女のことが——わからなかった。
どんな気持ちで話していたのだろうか?
母と姉が犠牲になって――お母さんや、私のことを恨んでいるはずなのに。怒りをぶつけるでも無くただ丁寧に淡々と接する彼女が、私には怖かった。
お母さんに似た顔立ちの彼女に、感情の籠らない目を向けられるのが苦手だった。




