64. 壊れて消えた
馬車が向かった先は宮殿と言って差し支えない立派な建物。
ここを訪れる時、大抵の場合は学園が終わって校舎を出ると、あの人が——オリヴィアの住む屋敷の主人が待ち構えていて、ここまで一緒にやって来た。けれど彼女が付き添うのはいつも宮殿の入り口までで、中に入ったのは最初の一度きりだった。
それなら、屋敷の使用人に任せてしまえばいいんじゃない?と思うのだけれど、いつも自ら学園まで迎えに来て、そしてまた用事の済んだオリヴィアを引き取りにやって来る。
今日もいつも通り迎えにやって来た彼女は、オリヴィアが馬車に乗り込むのを自然にエスコートした後、向かいの席に腰を下ろした。そこから何を話すでもなく、凛とした表情を保った彼女から視線を逸らすように窓の外をぼんやりと眺めてやり過ごす。ほとんどいつもこのパターン。
この沈黙の時間が気まずいと思っているのは、私だけなのかな?
馬車の中ちらりと見やった彼女は感情の見えない凛とした表情をしていて、オリヴィアにはそれが仮面のように思えた。
馬車が止まれば、先に降り立った彼女が手を差し伸べてくれる。そこでオリヴィアが手を乗せると、彼女の整った眉根がわずかに寄るのだ。
初めて見た時は何か無作法をしたのかと思ったけれど、そうではない。——いつも、彼女はそう。律儀にオリヴィアをエスコートするくせに、いざ手を乗せると気分を害したという表情をする。
私に触れられるのが嫌なの? それとも——馬車から降りて欲しくない、とか?
そんなわけはないか、と1人反論する。だって私が行かないと彼女は困るのだから。地面に降り立って振り返った彼女は、宮殿の使用人に対して膝を落とし、礼をとっている。伏せられた顔の表情まで伺うことは出来ない。滅多に表情を出さないくせに。何がそんなに気に入らないのか。
彼女が何を思っているのか、ちっともわからなかった。
彼女と別れた後は無駄に容姿の整った使用人に案内されて豪奢な広間へと通される。
部屋の奥、凝った意匠が施された大きな椅子には女性が腰掛けていた。深紅の扇情的なドレスに身を包んだその
女性は、一際存在感を放っていた。
両脇に幾人もの美しい眷属を侍らせる様は、まさに女王様のようだ。
『魔族は総じて顔立ちが整ったものが多いのですよ——人間好みの外見でないと困るもの。』
と、以前ヴィオルカさんが言っていたけれど、この魔族も例に漏れず美しい顔立ちをしている。
つり気味の目元、血が通っていないのではと思うほどに白く、艶やかな肌。はっきりした顔立ちの冷たく恐ろしい美しさ。気だるそうな雰囲気がまた、匂い立つような色香を増長している。
白すぎる肌に溢れ落ちた鮮血のような、赤い赤い唇が動く。低く艶のある音が広間に響く度、オリヴィアの背筋には冷たいものが走った。
まるで王様に謁見しているみたいだ——と、ここに来る度に思う。
管理されているように感じる屋敷や、息が詰まるような学園とも比べ物にならない——私は何よりもこの宮殿が嫌いだった。この女王様に会うのがすごく、嫌。
——それでも、ここに来ることを拒むことは出来ない。
(今日は私だけだ——)
広間に通されたオリヴィアは、よかった……と胸を撫で下ろす。今ここにいる「人間」が自分だけだったから。
初めて訪れた時には人間の女性が1人いて、まざまざと食事風景を見せつけられたのだ。あまりにも衝撃的だったそれが脳裏に浮かんで、扉が開かれる瞬間はいつも緊張してしまう。
自分とさほど変わらない年頃の女性が良いように貪られる様が、目に焼き付いて離れなかった——
女王様に牙を立てられた彼女は、血の気の引いた青白い顔なのに、頬だけはしっかりと赤らめ、瞳はうっとりと溶けるようだった。恍惚としたその表情が、ここに来る度に思い出されて……胸の中に苦い思いが広がる。
『これからお前もこうなるのだ——』
と、あの時こちらに寄越した目は語っていた。思いのまま女性が貪られていくのを、オリヴィアはただ、言葉も出せずに見ていることしかできなかった。
ぎゅっと、拳に力が入る。
内心の動揺も含めて、弄ばれている。外面を少しばかり取り繕ったところで、対して意味はないのだとわかっている。心臓の鼓動の音まで聞き取れる魔族には何もかも筒抜けなのだから。必死に平気な顔を取り繕う様子を眺めては、ニマリと口の端でも持ち上げているのだろう。
それでも——平然とまではいかないけれど、オリヴィアはこの場所に、背を伸ばしてしゃんと立つよう心がけている。何の効果もないのはわかっているけれど、これはたぶん、自分なりの……抵抗。
真っ直ぐに目の前の魔族と対峙できているのは、ロダ村を出てから王様と謁見したり、伯爵位を持つヴィオルカさんのお屋敷に何度もお邪魔したりして、身分の高い人に慣れていたおかげだと思う。
でも、怖いものは怖い。
今すぐ逃げ出したかった。そして、それ以上に彼女の前で背を向けるのも、目を逸らすことだって、怖かった。
目の前にいるのがヴィオルカさんだったなら、こんな風に相手を萎縮させないだろう。訪ねて行けば、きっと玄関まで出迎えてくれて、こんな時なら心が落ち着くようにと温かいホットミルクを出してくれるのに。
——それに何より、彼女なら私を食べたりしない。
ヴィオルカさんなら良かったのに……と考えたところで、目の前の女王様然とした魔族がヴィオルカさんに代わってくれはしない、よね……
「生意気な目だ——」
「——っ!」
耳元で聞こえた声にゾクリと身体中が粟立った。いつの間にか目の前に座っていた魔族の姿が消えていた。
そして今、すぐ後に自分を贄としか思っていないその魔族がいる。
人間ではありえない動きに驚いた心臓が、早鐘を打っている。オリヴィアの意思とは関係なく身体中が警笛を鳴らし、込み上げる嫌悪感で立っているのも辛い。
エーファも、ヴィオルカさんも、今まで周りにいた魔族はみんな人間の動きに合わせてくれていた。
ビックリさせないように、余計な恐怖を与えないように——
その気遣いがどれほど有難いことなのか、改めて気付かされる。
「さっきから、何を考えている?」
白く、細長く、人間の首など一瞬で掻き切ってしまえる凶悪な指が顎の下に添えられて、グイっと顔を持ち上げられる。指から逃れたくて顔を背けようとするけれど、ガッチリと掴まれた顎は万力のように固定されていて、少しも動かすことは叶わない。
「こちらを見よ」
無理矢理合わせられた魔族の瞳孔は縦に割れていて、煮詰めたワインのような禍々しい瞳が、顔がぶつかりそうな至近距離からオリヴィアの瞳を捉えていた。
他者を無遠慮に塗りつぶしてしまいそうな、いやな瞳だと思った——
ズグズグと赤黒い沼に引き摺り込まれるような心地がして、すぐにでも目を逸らしたいのに、それを許してはくれない。彼女の眼差しはちっぽけな人間の小娘を冷笑っているように感じた。
——ぢゅっ。
音を立てて首筋を吸われる。鋭く硬い牙が肌に触れたのを感じて、ビクッと体が震えた。この凶悪な牙を乱暴に突き立てられれば、オリヴィアの命なんて一瞬で消えるのだ。
この魔族は少しの躊躇いもなく、それをする。
人の命に価値を見出だしていないから。人間とはただ退屈な時間を楽しませるだけの存在。だから目障りになれば、鬱陶しくなれば、簡単に切り捨てる。そんな彼女だから、この国の人間は誰も逆らおうとはしない。
バルト王国にいた頃図書館で読んだ本に出て来た魔族たちと、このひとは同類なのだと….思った。
「——っつ」
ベロリと首筋を舐め上げられると、耐えきれない嫌悪と恐怖で目尻に生理的な涙が溜まる。クツクツと喉と鳴らした彼女は、やっと不機嫌な表情を緩めてオリヴィアの耳元に囁く。
「……噛みちぎったりはしないぞ?」
オリヴィアの心を見透かしたように告げると、つうっ——とへその上から心臓まで指を滑らせた。
——簡単に殺してしまっては面白くないから…ねぇ?
しなやかな指でトントンと心臓を叩かれると、オリヴィアの心臓は調子を崩したようにドクドクと激しく脈打った。
「ひっ——」
「はぁぁ——さっきまでの…反抗的な表情は、どうしたのだ?」
「………」
ぐいっと痛いくらいに頬を掴まれて覗き込まれる。いつの間にか高揚した様子の彼女の頬は赤みを帯びていて、獲物を捕らえた猛禽類のように瞳が愉悦に輝いている。
「いい、匂い…」
すんすんと胸元に鼻先を押し付けて、肌の下を流れる生命の香りを堪能される。この変態じみた行為を、オリヴィアはただ何もできずに受け入れるしかなかった。
自分の身体が意思とは関係なくおかしくされるこの感覚が、不快で、不快で仕方がない。
「んぅ…はぁ……。ふふっ——怯える顔もなかなか…」
「や、やめっ…」
ぐりぐりと両頬を撫でさすられたオリヴィアは思わず声をあげる。
「やめるわけがなかろう?他の魔族に粉をかけられていたようだが……」
グッと首元を締め上げられる。
苦しさに力が抜け、腕を引き剥がそうと魔族の腕を掴んでいたオリヴィアの手がだらりと垂れ下がる。その手首からは、いつも身に付けていた紫の石のブレスレットはなくなっている。首から下げていた、ヴィオルカにもらった時計も。
エーファやヴィオルカの魔力が込められていた品は全て、取り上げられてしまっていた。
「お前の全ては、妾のモノだ」
他の魔族の匂いを嗅ぎ取った時の苛立ちを思い出した魔族は、オリヴィアの口の中に無理矢理指を突っ込んで、無遠慮にかき回した。
「がっ…」
苦しさと、気持ち悪さで吐き気がする。思わず噛みつきそうになるのを必死で堪えた。そんなことをすれば、どんな仕返しをされるか……
苦しむオリヴィアの顔を見て満足したのか、目の前の女王様は一転して労るようにオリヴィアを撫でさすりだした。
「早う自分から乞うようになれ、な?」
すりすりと再びオリヴィアの喉元を撫でさすったり、ペロペロと舐め回した女王は、オリヴィアがぎゅっと目を瞑ったまま口を引き結んでいるのを見て、強情な餌だこと、と呟くとブツリとオリヴィアの肌に牙を突き立てた。
ズルズルと遠慮なく命を貪られる恐怖と、魔族の牙が持つ毒のような何かで強制的に身体が高揚する嫌悪感。
オリヴィアの眦に溜まっていた涙がついに一筋、ほほを伝って流れ落ちた。




