42. 暗雲
——遠くで戦争の足音が聞こえ始めた。
けれどそれは膜を隔てた向こう側からぼんやりと聞こえる警笛のような中途半端なもので。魔術学院の生徒達にとっては何処か遠くで起こった関係のない話のように思えた。——誰もがそう思いたかったのだ。
——魔王の軍勢が隣国への侵攻を開始——
そんな経験したことの無い事態をどう受け止めたらいいのかわからない。『世界の全てを手に入れる。』と宣言した魔王は魔族と魔獣を従えて動き出しているという。人間側の各国は協力体制を作るために動き出している。エヴァが課外演習の時に先んじて情報を得たおかげで大分時間を稼げたらしい。
バルト王国の国境付近では隣国からの難民の受け入れ準備が進んでおり、物資の援助や国境警備の強化も進められているという。
王国魔術師団の優秀な魔術師であるサシャ様は要人の護衛任務で出かけることが増えているらしい。それでも王都の様子はいつもと変わりなく。心だけがザラザラと奇妙な心地悪さを訴える。
学院生にとって一番大きな変化はカリキュラムがガラリと変更されたことだ。芸術系や一般教養の授業が極端に少なくなり、実技の割合が増えた。座学も戦術論や避難誘導、救護などの戦時に備えた授業が必修となった。カリキュラム変更は「今この国が戦時体制に入っていること」、「国の教育機関で学ぶ自分たちが戦力として動員される可能性があること」を学生達に思い起こさせた。
遠くから聞こえる不確かな魔王の情報と、実践用の訓練を日々積んでいる自分たち。噛み合わない現状に少しばかり淀んだ空気を抱えつつも、今日も平穏に1日が過ぎていく。
***
「失礼いたします。」
「やあ、よく来てくれた。」
「…リゲル・ブレシュ、お呼びにより参上しました。」
「今は魔術学院の教師だったな。魔王軍との戦況はどこまで?」
「街で流れている噂程度しか存じません。」
(…呼ばれたということは、あまり良く無いのだろうけれど。)
魔族の相手となると相手の戦力が未知数だから、手探りで戦うしかなくなる。かなりの実力者で無いと相手取れないのだから、魔族がホイホイ出てきたら人族では敵わない。
「他国との協力体制も出来つつある。いづれ国を超えた討伐隊を作ることになるだろう。だが、それが間に合うとは限らん。隣国が落ちれば次は我が国だ。…ブレシュ君、復帰する気は無いかね?」
(やはりそうゆう話か……。)
『3人でこの国のみんなを守ろう!』そう言ってかつて戦うことを選んだ。彼と私は騎士団に、彼女は魔術師団に——あの頃は実践の残酷さなど知らなかった。
「私は……」
「やはりまだ、気に病んでいるのか?」
「………申し訳ありません。」
「…ふむ。君の思っている通りだと思うが戦況は良くない。魔獣ならばまだ対処出来るが、魔族となると相手にできるものが少ない。何よりこんな形で対峙することがなかったゆえ、魔族との戦闘経験がある者はほとんどおらん。隣国も苦戦しておるようだ。」
復帰すると言えない自分は国民を見捨てる非情な人間、と言われても仕方ない。それでも…私は恐れている——炎を。
「そう、ですか…」
「……ふむ。君の気持ちはわかった。質問を変えるが、もし学院が襲われたら?その時君は戦ってくれるかね?」
「…生徒を守るのは、教師の役目ですから。」
「そう言ってくれて少しほっとしたよ。ならばやはり一時的に復帰してもらいたい。討伐に向かえとは言わん。任務は学院の守護だ。なに、万が一の時に素早く指揮系統を作るために軍属の者を置く必要があるだけだ。君が適任だろう。」
「…わかりました。」
いつぶりだろうか?記憶の中の騎士団での敬礼。思い出した通りにゆっくりと体を動かす。
「——っ。…マリー。」
握りしめた拳をコツンと壁にぶつける。
「リゲル。」
「…イグ。…そんな顔しないで。」
困ったように眉を下げる。騎士団のエース『雷神』が沈痛な面持ちでこちらを見ている。私が今日騎士団に来ることを知っていたのか。
「復帰するのか?」
「あくまで学院の安全のためだけれど。一時的に軍属に戻ることになったわ。」
「……そうか。」
「私の心配より、貴方の方が大変でしょ。……貴方は、無事に帰ってこないとだめよ?」
「ああ。俺は置いて行ったりしない。」
精一杯明るい声を出す。ぎこちないんだろうな…イグの表情は痛々しい者を見るように悲しげだもの。慰めようと思って伸ばしかけたのだろう手を途中で下ろして。それでもはっきりと約束をしてくれる。彼は逃げ出した私を、守れなかった私を責めない——
***
「アレシュ君、今日は何のハーブ?」
「今日はレモングラスがメインのブレンドだよ。すっきりするからね。」
「ほう〜。ありがと。」
「ヴィア、疲れてるわね。」
「魔力制御、難しくて…もう頭ぐるぐる。」
テーブルに突っ伏した頭をエヴァがよしよしと撫でる。
「「猫みたいだね。」だな。」
いいんだ、何と言われようと。今の私には癒しが必要なんだから。エヴァのナデナデがこんなに心地いいのが悪いんだ。
「Aクラスはどうなの?授業。」
「まあ基本は防御魔法と支援系が中心だな。リーデはそうもいかないみたいだが。」
「グスタフ君もでしょう?」
「どうゆうこと?」
「ある程度防御が出来るものは攻撃の訓練やってるんだよ。俺は家で多少習ってたし、リーデは実力が飛び抜けてるからな…」
Aクラスではより実践的な授業が行われているらしい。まあ魔力の多い生徒で構成されているから当然といえば当然なのかもしれないけど。
けどそれは、Aクラスの生徒が魔族との戦いに参加させられるということなのではないか?…胸に重いものがのしかかったような気持ちになる。
「心配しなくても、王国には正規の魔術師や騎士が沢山いるわ。魔王がこの国に攻めて来てもすぐに学生が駆り出されることはないから安心して。」
穏やかな声で、揺るがぬ瞳で言い切るリーデ。胸のつかえが取れる。こちらを安心させるに足る堂々とした彼女は、人の上に立つに相応しい風格があって。これが彼女のカリスマなのかな。
「そういえば、ラザお兄ちゃんは何だか忙しそうだったけどユディのお家も?」
「まあ、普段と違う注文が来てバタバタしているみたいだけど、ウチはラザ先輩のところ程大きくないからマシだと思うよー。」
今の時点で一番心配なのは…
「さあ、お茶入ったよ!…姉さんなら大丈夫。昔から1人で無理はする人だけど、その代わり絶対に無茶はしないから。」
「よーし、暗い話はこれくらいにして!練習の成果をご覧にいれよー。」
ゆるーくユディが言うと彼女の手元が淡く緑に光る。クルクルと蔓が伸びてティーカップに絡み一人一人の前まで運ぶ。コトリと優しく置くと、シュルリと蔓が解けてユディの手元へと戻って最後は光になって消えた。
「「わあー」」
「「「すごいわ。」」な。」
「へへっ。では、お茶にしよう?」
みんなの反応に満足げなユディ。テーブルには紅茶の他に黄金色のお菓子が。
「これは?」
「これはグスタフ君が手に入れてくれたマドレーヌ、です!」
「いや…アレナがここのは美味いって言ってたからな!」
「「「「ありがとう。」」」」
「礼なら今度、アレナに言ってやってくれ。」
みんなの目がグスタフ君に集まる。
「おい、その生暖かい目はやめろ…」
「アレナ様はお忙しいかしら?今度お誘いしてみて?」
「ああ、喜ぶだろ。けど余計なことは言うなよ!」
ここはバルド王国、王立魔術学院。戦火は遠くどこか現実味がないまま、もやもやと心に暗雲をもたらしていたが、それでも、学生たちは今日も学生生活を楽しんでいた。




