16. 初めての気持ち
前からくると思っていた痛みは、やって来なかった。その代わりに、後ろからぎゅっと抱き締められる——捕らわれた腕の中は、優しい匂いがした。
よく、知っている匂い…オリヴィアを安心させる人の匂い。回された腕にしがみついてじっと目を瞑ったまま、グルグルと考えが巡る。
(こんなとこに、いるはず無いのに——私…もう死んじゃったのかな?)
そっと私の頭を撫でた後、その人物は低く冷たい声で『引け。』と告げる。決して大きくないはずのその声は妙に辺りに響き渡り、びっくりしたヴィアは目を開いて自分を抱える人を見た。
そこあるのはエヴァの顔で、先程の言葉はその口から発せられたものに違いない。けれどそれはオリヴィアが今まで聞いたことの無い声音で——表情も見たことがないくらいキリリとして厳しいものだった。 魔獣たちは警戒しながら後退すると、立ち去っていく。
瞳の奥に冷たい何かがあるように見えて、ぎゅっとエヴァの服を掴むと、彼女がこちらを向いてくれる。
「ヴィア。…もう大丈夫。大丈夫だから。怖かったね。」
いつもの優しい瞳に戻ったエヴァが、しっかりと抱き締めてくれて、緊張が切れたオリヴィアは意識を手放してしまう。
そんなヴィアを近くの木の根元に寝かせると、そっと額に口付ける。
「お肉が必要だよね...。少しだけ待っていてね。」
腰に提げた剣を抜き、怪我で逃げきれなかった個体に止めを刺す。手早く血抜きを済ませ紐で縛ると、ヴィアをしっかりと両手で抱え、ノーツブルクは引きずりながら家へと帰る。
暖炉に火を入れてヴィアを寝かせると、ノーツブルクの処理に取り掛かった。普段なら、魔獣の解体なんて怖くてやろうとも思わないはずなのに、ヴィアを襲ったモノだと思うと、恐ろしさを感じなかった。
彼女の”糧”とするために、淡々と解体を終わらせる。見慣れた塊の状態にまで解体が終わると、今日使う分以外は雪の中で保存する。たっぷりの肉とヴィアが採った茸を使って煮込み料理を作ってヴィアが目覚めるのを待つ。
*****
「–––ん。エヴァ?」
「ヴィア。起きたの?」
すぐに、エヴァがやってきてオリヴィアの顔を覗き込む。いつもの彼女を見たオリヴィアは、引っ込んだはずの涙が再び溢れてきて、エヴァに抱きついて泣き出してしまった。
「エヴァ。…ごめんなさい。」
ひとしきり泣いて、落ち着きを取り戻したオリヴィアは謝った。
「ヴィア。...怖かったわ。朝起きたらヴィアが居なくて、置いて行かれたのかと思った。森へ入ったようだと気づいて追いかけようとしたら、ブレスレットが光始めて…。なんだかとても不安になってヴィアを追いかけて、見つけたヴィアが襲われていた時すごく怖かった。もし間に合っていなかったらと思うと、今でも恐ろしい。」
「うん…」
「それにね、あの時、私の心は冷たくなって、黒い気持ちが湧いてきて、『全部、消えてしまえばいい』と思って。まるで自分じゃないみたいに、怖い自分になっていくようで——ねえヴィア、もう危ないことはしないで?一人で森へは行かないって約束して?」
『お肉もあるし、もう森に行かなくても大丈夫でしょ?』と、どこか子犬のように頼りなさげに尋ねるエヴァに、もう1人で危ない所へは行かないと約束した。
それから、2人で久しぶりにお肉がたっぷり入った夕食を食べた。彼女が、あの魔獣を倒してお肉にしてしまったことには驚いたけど、『せっかくヴィアが危険を犯して森に入って、目の前に弱った魔獣がいたのだから、捕まえないともったいないでしょ?』とエヴァは平然としていた。
(エヴァ、よく魔獣と私を両方運べたよね...。)
そう思ったけど、これは言ったらダメなやつだと思って心の中にしまっておいた。
夜眠りに就く時、エヴァは細い腕を回してきた。
「どうしたの?」
「寝ている間にヴィアが何処かに行かないようにするの。」
「もう行かないよ?約束したでしょ?」
じっとこちらを見つめるエヴァをの視線を真っ直ぐに見つめ返す。
「ヴィアにその気が無くても攫われたらどうするの?」
「……。」
少し瞳を揺らしながら問いかけるエヴァ——返す言葉に詰まってしまった。オリヴィアが思っている以上に、今日の出来事は彼女にショックを与えていた。
記憶がなくて不安定なのに、唯一の家族が突然いなくなり、殺されそうになっていたのだから…不安になるのは当然の事。いつもしっかりしているからエヴァは大丈夫だ、と勝手に思い込んでいた。
ぎゅっと彼女を抱きしめて、『不安にさせてごめんね。エヴァを置いてどこかに行ったりしないよ。』と伝えると、珍しく彼女の方がヴィアにグリグリと頭を寄せて来た。
頭を撫でていると、やがて安心したように彼女は眠りに就いた。