ep1 目が覚めたら魔王でした。
午前三時。
オフィスには、キーボードを叩く音だけが響いていた。
カタ、カタ、カタ――。
広いフロアに人影はない。
照明のほとんどは落とされ、俺の机だけがパソコンの青白い光に照らされている。
机の上には空になったコーヒー缶。
床には資料。
椅子には脱ぎっぱなしの上着。
そして、いつ食べるつもりだったのか分からない弁当。
俺は最後の資料を確認した。
「……よし」
明日のプレゼン資料。
完成。
保存も完了。
これで間に合う。
時計を見る。
午前三時十二分。
「……眠い」
当然だ。
朝からずっと働いている。
正確には、昨日の十九時にはタイムカードを切っている。
会社からの命令だった。
『残業を減らせ』
その直後に、
『ただし成果は絶対に落とすな』
とも言われた。
矛盾している。
だが、俺はプロジェクトマネージャーだ。
文句を言うより、解決策を考える。
だから十九時にタイムカードを切った。
そして、そのまま働いた。
「これぞ……完璧なリスクマネジメント」
自分で言って、少し笑う。
その瞬間だった。
「……っ」
胸に激痛が走った。
「……なんだ、これ」
胸を押さえる。
息が苦しい。
視界が揺れる。
スマホに手を伸ばそうとする。
だが、指が動かない。
「待て……」
救急車を――。
そう思ったところで、視界が暗くなった。
最後に確認したのは、パソコンの画面。
資料は保存済み。
「……五分だけ」
俺は机に突っ伏した。
――――。
――――。
冷たい。
頬に冷たい空気が当たっている。
「…………」
目を開ける。
知らない天井だった。
「……ここ、どこだ?」
身体を起こす。
白い天井ではない。
黒い石。
巨大な柱。
薄暗い室内。
「病院……じゃないな」
立ち上がった。
そして、自分の手を見る。
「…………」
黒い。
指先には鋭い爪。
「……なんだ、これ」
腕も明らかに人間のものではない。
恐る恐る頭に手を伸ばす。
硬いものに触れた。
二本。
「……角?」
嫌な予感がする。
俺は黒く磨かれた床に近づいた。
そこに映っていたのは――。
漆黒の髪。
鋭い赤い瞳。
二本の黒い角。
整いすぎているほど整った顔。
長身の身体。
「…………」
しばらく眺める。
「イケメンだな」
いや、そこじゃない。
「……誰だよ、これ」
その瞬間。
頭の中に声が響いた。
――《質問を確認しました》
「…………は?」
誰もいない。
――《私は補助思考システムです》
「……AI?」
――《その認識が最も近いです》
「なんで俺の頭の中にAIがいるんだ?」
――《現時点では不明です》
「お前でも分からないのかよ」
――《はい。私は万能ではありません》
「堂々と言うな」
――《事実です》
「……まあいい」
頭の中に変なものがいる。
それを考え続けても仕方がない。
「ここはどこだ?」
――《周辺環境を分析します》
少し間があった。
――《建築様式、魔力濃度、周辺設備、あなたの身体的特徴から総合的に判断します》
「判断すると?」
――《建物に中のようです。》
「…………」
「それは分析しなくても分かるって。」
俺は部屋を見回した。
巨大な玉座。
禍々しい装飾。
黒い石造り。
「城?」
――《はい60%の確率でお城です。》
(40%の否定材料はなんなんだ?)
「じゃあ俺は……」
胸元に何かが付いていることに気づいた。
黒い金属製のプレート。
そこには――。
『魔王』
「…………」
数秒、黙る。
「魔王って書いてあるやん」
――ファン!《本人確認が完了しました》
「名札で本人確認するなよ」
――《合理的な方式です》
「そういう問題じゃない」
前世の記憶はある。
会社員だったこと。
プロジェクトマネージャーだったこと。
そして、たぶん死んだこと。
だが、この身体についての記憶は何もない。
自分が何者なのか。
なぜ魔王なのか。
何も分からない。
その時――。
――ドォンッ!!
巨大な扉が開いた。
「魔王様!」
女が駆け込んできた。
長い黒髪。
漆黒の翼。
赤い瞳。
美しい顔立ち。
黒い軍服だが露出が多い…。
ただし――。
ものすごく怖い。
「魔王様……!」
女は俺を見るなり、目に涙を浮かべて駆け寄ってきた。
「お目覚めになられたのですね!」
「…………」
誰だ。
俺のことを知っている。
ということは、この身体の俺は彼女を知っているはずだ。
だが、俺にはその記憶がない。
どうする。
そんなことを考えていると、女が俺の顔を覗き込んできた。
「お身体は大丈夫ですか?」
「…………」
近い。
かなり近い。
「……っ」
心臓が跳ねた。
――《心拍数の上昇を確認》
(言わなくていい)
――《対象との距離、約二十センチ》
(分かってる)
――《顔面評価は非常に高いです》
(いい匂い…。)
―― (薔薇の香りのシャンプーの効果だと思われま
す。)
(今それ必要か?)
――《必要性は低いです》
(なら言うなよ)
女は首を傾げた。
「魔王様?」
「……なんでもない」
平静を装う。
女はほっとしたように息を吐いた。
「昨日は体調が優れないと仰って、早くお休みになられましたから……心配しておりました」
「昨日?」
なるほど。
この身体の俺は昨日、体調を崩して早く寝たらしい。
助かった。
俺は改めて女を見る。
そして、胸元にあるものに気づいた。
「……それ」
「はい?」
名札だ。
俺の胸元には『魔王』。
女の胸元には――。
『リリア』
「リリア……」
「はい?」
名前を確認したい。
俺は手を伸ばした。
「こっちへ」
「…………っ」
リリアの顔が一瞬で赤くなった。
俺の手が彼女の胸元へ近づく。
――《警告》
(なんだ?)
――《現在の行動は、別の意味に解釈される可能性があります》
(俺は名札を見たいだけだ)
――《理解しています》
名札を見る。
やはり、
リリア。
「……リリア」
「は、はい……」
「リリア」
「はい♡……」
なぜか声が震えている。
――《対象の精神状態が不安定です》
(なんでだ?)
(魔王様が私の胸元に手を…。)
(朝からなんて大胆な事をー)
(魔王様に仕えて数百年、ついにー)
――《あなたの行動に別の意味を感じている可能性があります》
(名前を見たかっただけなんだが)
――《その説明を推奨します》
「名前をしっかり見たかっただけだ」
「…………!」
リリアの顔がさらに赤くなった。
なぜだ。
俺は気にせず尋ねる。
「リリア」
「はい♡♡!!」
「君は人間ですか?」
「…………え?!」
俺は本気で聞いていた。
自分が魔王らしいなら、目の前の人物が何者なのか確認するのは当然だ。
しかし――。
リリアの顔色が変わった。
――《誤解が発生しています》
(何を?)
――《「君は人間ですか?」を、「人間のように軟弱な働き方をしているのか?」と受け取った可能性があります》
(なんでそうなるんだよ)
リリアは震えながら頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
「いや、何が?」
「決して……人間のように軟弱な仕事をしていたわけでは……!」
「…………」
分からない。
だが、今は別のことが気になる。
「リリア」
「はい……!」
「俺の名前はなんですか?」
「…………!」
リリアの目が大きく見開かれた。
なぜか痺れたような表情を浮かべている。
「俺の名前を言ってみてください」
「…………!」
(リリアとゆう甘い囁き)
(人間のように軟弱なのかとゆう質問)
(そして名前を言ってくださいと敬語で言うあたり)
(なんてツンデレなの?)
(このリリア、完全にくらいました。)
完全に何かを勘違いしている。
だが、リリアは震えながら口を開いた。
「ガノンザーク・フォン・ディザスター様……です!」
「……ガノンザーク・フォン・ディザスター」
俺はその名前を頭の中で繰り返す。
「長くね?」
――《長いです》
「だよな」
――《日常的な呼称としては、やや非効率です》
「じゃあ、フォンでいいのかな」
――《おそらくフォンは名前とはないと考えます》
――《「ガノンザーク」が個人名で、「フォン・ディザスター」が家名、あるいは称号を構成している可能性があります》
「じゃあ名前がガノンザークか…長いな」
――《妥当です》
「なるほど」
頭の中で整理する。
「じゃあ俺の名前はガノンザーク」
――《その認識が最も自然です》
「よし」
ようやく自分の名前が分かった。
「ガノンザーク・フォン・ディザスター……毎回フルで呼ぶのも面倒だし、ガノンザークでいい」
――《設定を保存しました。》
(設定?設定で合ってるのか分からないがまあいい…)
(それに俺はどうやら魔王のようだし怪しまれないように少し偉そうに喋ろう。)
「そうだ、リリア」
「はい?」
「ガノンザークでは少し長くないか?」
「……そうですね」
「なら、短くし。好きに呼んでみるがよい」
(喋りにくいな…)
「……好きに、ですか?」
リリアは少し考えると、ふっと微笑んだ。
「では……ハニー」
「……なんでハニーなんだ?」
「好きに呼んでいいと仰いましたので」
「いや、どこを略したらハニーになる?略してもない」
「……駄目ですか?」
「駄目というより…色々と誤解が生じるから、ハニーは駄目。」
「…………そうですか」
リリアは、あからさまに残念そうな顔をした。
「そんなに残念そうな顔をするな」
「では……冗談はこれぐらいにして」
(冗談には見えなかったが…。)
少し考えたあと、リリアが顔を上げる。
「ザーク様では?」
「ザーク様?」
「はい。ガノンザーク様から取って、ザーク様です」
「……いいね。」
「では、これからはザーク様とお呼びします」
「ああ」
リリアは嬉しそうに微笑んだ。
――《ザーク様、メモリーを保存しました。》
――《ハニー》
(…!!?)
(ハニーと言うなよ。)
――どうしてハニーが候補に入ったのかは、最後まで分からなかった。
俺は自分の胸元を見る。
魔王。
「名前じゃなくて役職しか書いてないんだな」
――《合理的な問題です》
「お前、さっきから名札に甘くない?」
――《名札には罪がありません》
「……まあいい」
俺は立ち上がった。
「少し家を見たい」
「家……?」
「いや。し、城の中を見たい」
俺は言い直す。
「魔王城だ」
「巡回ですね、ザーク様」
「巡回?」
「はい。ザーク様は以前から毎日のように城内を巡回されていましたから」
リリアと共に城内を歩き始める。
すると、こちらの姿に気づいた魔族たちが、途端に慌ただしくなった。
「魔王様だ……!」
「何か言われるぞ」
「早く仕事に戻れ!」
書類を整える者。
棚を片付ける者。
慌てて姿勢を正す者。
誰もが、こちらの視線を気にしている。
「……皆、妙に緊張していないか?」
「ザーク様は、巡回のたびに色々と仰っられますから」
「何を?」
「例えば……」
リリアが少し考える。
「『ここは改善しろ』」
「……それだけ?」
「はい」
「どう改善するかは?」
「ご自身では仰らなかったです。」
「…………」
「『もっと効率よくしろ』『無駄をなくせ』『環境を整えろ』など……」
「具体的な方法は、全て現場に任せておられます。」
「なるほど……」
俺は周囲を見渡す。
これは怖い。
何をすれば正解なのか分からないまま、魔王に「改善しろ」と言われるのだ。
しかも、次の巡回で改善されていなければ――
「……また何か言われる、と」
魔族たちは、こちらが通り過ぎるまで息を潜めるように働いていた。
俺は小さく息を吐く。
「……今の俺なら、もう少し具体的に言うんだがな」
その言葉に、リリアは少しだけ笑った。
「何かザーク様、なんとゆうかお優しくなられましたね。」
そして廊下の先。
壁際に妙なものが並んでいた。
「これは?」
骨で作られたラック。
そこに大量のカードが差し込まれている。
「タイムカードです」
(斬新なデザインだな…。)
「…………」
一枚を見る。
出勤 05:12
退勤 未定
別の一枚。
連勤 十八日
さらに――。
連勤 二十三日
「…………」
俺は無言になった。
――《分析しますか?》
「いや」
カードを戻す。
「分析するまでもない」
前世の記憶が蘇る。
深夜三時。
誰もいないオフィス。
十九時で切られたタイムカード。
そして――。
俺は死んだ。
「あり得ない。」
リリアが首を傾げる。
俺はタイムカードを見つめた。
「こんなん死ぬで」
――《その表現には問題があります》
「……表現?」
――《表現を変更してください》
「じゃあ……」
俺は少し考えた。
「長期的な組織運営に適していない」
――《適切です》
「ち、ちなみに私は15年連勤ですが…。」
「なんだそれは?15年連勤なんて初めて言葉にした…。」
「正確には15年と200日なので5675連勤ですが…。」
「あかんあかん!」
俺はため息をついた。
(上には上がいるもんだな…)
そして、もう一度タイムカードを見る。
ここがどこなのか。
俺がなぜここにいるのか。
魔王だった俺が何をしていたのか。
まだ何も分からない。
だが――。
少なくとも。
俺はこの世界に転生した。
そして、目の前には放置できない問題がある。
「……よし」
俺はタイムカードラックを見つめた。
「分からん」
リリアがこちらを見る。
「何も分からんが……」
俺はゆっくり顔を上げた。
「ここに来て、やるべきことは出来たみたいだ」
――《同意します》
「お前もか」
――《はい》
俺は小さく笑った。




