第1話 犬猿コント(前編)
あぁ、もうっ!
お腹の奥底で歯がゆい憤りをふつふつと煮えたぎらせながら、会社の廊下をどすどすと乱暴に踏み鳴らす。
──いっそ人目をはばからず大声をあげながら廊下を転げ回りたい。ここで、いますぐ。
そんな衝動に駆られながら、わたしは先ほど起こった出来事を思い返していた。
「これは経費として認められませんね」
そう言い目の前の人は、わたしが差し出した領収書を厚い眼鏡越しにちらりと一瞥してからすぐにパソコンの画面に目線を戻す。
そしてそんな同期に対しわたしは、ひくりと口元が引き攣るのをなんとか堪えたのだった。
無表情でキーボードを叩く同期、もとい経理部の戌丸朝日はいつもそう。
なんだかんだと理由を付けてわたし、猿渡夜宵の営業経費にいちいちいちゃもんつけては絡んでくる。
今日は急遽発生したタクシー代に関して細かく突っ込まれていた。
「ここ、電車で乗り継げば十分行ける場所ですよね。わざわざタクシーを使う必要はないかと」
「いやー、その一件前の取引先で思いがけず話が盛り上がっちゃって。アポの時間ギリギリになっちゃったから仕方なかったんですけど」
「そこまで予想してアポの時間を逆算するのも営業さんのお仕事だと思うんですけど」
「はい〜?」
話しながらも彼女の手は止まらない。
時折眼鏡を中指でくいっと押し上げつつもモニターから視線は逸らさないまま、軽やかに指先がキーボードを叩いている。
「あんたねぇ、そんな机上の空論持ち出されても現場ではどうしようもないことだって起こるし、毎回毎回予定通りになんて動ける訳ないでしょ」
「ていうか今日ってわざわざ客先に出向かなきゃいけませんでしたか? 電話で済ませれば移動代だってかかりませんよ」
「いやいや、顔合わせて打ち合わせしたいってわざわざお客さんから言ってもらってるんだけどね。お客さんと顔合わせることがない人にはわかんないかもしれないけど」
「はぁ。一体いつの時代の営業スタイルなんですか。だいたい猿渡さん接待多すぎませんか? 先週だってほぼ毎日」
「あーもー、仕事取ってきてるんだからいいでしょ別に」
「接待せずに仕事取ってきてる人もいますけどね」
「はぁ〜?」
あんまりな言い草に思わず舌打ちしてしまいそうになるのを必死に堪える。わたしには出来ないんだろって言いたいのかこいつ。
いやわたしだって頑張ってますけどね。いちいちそんなことでチクチク言わないでほしい。
そして暫しの押し問答の末、なんとか営業経費として計上してもらえるよう交渉に成功したわたしは、歪みそうになる顔を必死に押さえ込みつつ、荒っぽく足音を響かせながら自身のデスクに戻るのだった。
「先輩ってばまた犬猿コントしてきたんですか〜?」
席に着くと隣席の後輩、雉村小日菜から呆れたようにそう言われ、わたしはへの字に曲げていた唇がゆるゆると解けて思わず両手で顔を押さえた。
「わたしなんでこんな態度しか取れないんだろう……!」
机に突っ伏してそう言うと、隣から「やっぱコントしてきたんですね」と冷静につっこまれた。
「構ってもらえるのすごく嬉しいのに」
「嬉しいのに喧嘩腰になっちゃうんですか?」
「なっちゃうんです」
熱を持った頬が熱い。
毎度こんな喧嘩腰みたいな態度しかとれなくて自分に腹が立つけれど、それ以上に戌丸と話せたことが嬉しくて堪らなくて、机の下でどたばたと足踏みをする。
ひとしきりそうして喜びを噛み締めてから、平時と同じフラットな表情を浮かべてから身体を起こした。
「うわぁツンデレ」
後輩の言葉にむっと眉根に皺を寄せる。
そんなことは言われなくても自分自身が一番よくわかっている。
けれど彼女と話すどころか視界に入るだけでわたしは平常心ではいられなくなってしまうのだから仕方がないことだと思う。
「……だって」
「んふふ、恋ですねぇ」
朗らかにそう言われ、わたしは後輩をじとりと睨みつける。他人事だと思って面白がりやがって。
そう、なにを隠そうわたしは同期である戌丸に恋心を抱いている訳だが、始まりは本当にありきたりなことだった。
他部署の上司からしつこく食事に誘われ、困っているところに彼女が「それセクハラですよ」と助け舟を出してくれた。ただそれだけ。
それもいつものようにパソコンの画面から目を離すこともなく、爆速でキーボードを叩きながら。
彼女の指がエンターキーをタァーンッ! と勢いよく叩く音と共にわたしの心はがっちりと鷲掴まれ、そして気付けば彼女のことを目で追う日々が始まってしまったのだった。
「ちなみにどういうところが好きなんですか?」
そう尋ねられ、顎に手を当てて改めて彼女のことを思い返してみる。
まず戌丸といえばとにかく仕事が速い。トラブルに声を荒げることもなく、スマートに解決へ導き定時になると颯爽と退社していく。
なんならあの後ろ姿を見たいが為に定時辺りに経理部に行くこともあるくらいだ。だからといって対応が雑なのかというと全くそんなことはない。えっ、好き。
寧ろ常に周囲の様子をしっかり把握した上で、困っていそうな人には毎回さりげなくフォローを入れている。うん、好き。
そして本人には気付かれないよう、ひっそりと問題を収束させていることも多い。そんな面倒見の良いところに気が付いて、さらに目が離せなくなった。うわぁ、好き。
同期だけど経費の話以外では挨拶程度しか交わしたことはない。
けれど、気付けばわたしはそんな彼女のことを好きになってしまっていたのだった。
「うーん、たぶん……」
「多分?」
「……ぜんぶ、みたいな?」
えへ、と笑ってそう言うと、雉村は呆れたようにため息を吐いた。




