第一節 能力主義の破綻と血統主義への回帰(前編)
景初二年(二百三十八年)の末、洛陽の宮殿は重苦しい死の気配と、次なる権力闘争の予感という息詰まるような暗雲に完全に包み込まれていた。魏の第二代皇帝であり、祖父たる武帝、曹操の覇気と、父たる文帝、曹丕の冷徹な法治主義を受け継ぎ、巨大な帝国を牽引してきた明帝、曹叡の肉体は、もはやいかなる名医の治療をもってしても抗い難い重篤な病魔に蝕まれていた。明帝の治世は、西の蜀漢における諸葛亮の執拗な北伐を凌ぎ切り、南の孫呉の侵攻を幾度も退け、さらには遠く遼東半島で独立を企てた公孫淵を討伐するなど、対外的な軍事面において魏帝国の版図と威信を確固たるものとした輝かしい時代であった。しかし、その華々しい外征の勝利とは裏腹に、明帝の死の床を囲む宮廷の内側には、帝国そのものを根底から崩壊させかねない、恐るべき構造的危機が静かに、そして決定的に進行していたのである。
明帝が直面していた最大の、そして最も絶望的な悲劇は、彼自身の寿命が尽きようとしているその瞬間において、自らの後継者として帝位を託すべき斉王、曹芳が、わずか八歳の幼弱な童子に過ぎなかったという事実である。専制国家において、君主が幼少であるということは、国家の全権力が一時的に「後見人」と呼ばれる臣下の手へと合法的に移譲されることを意味する。もしその国家が、強固な親族の連帯によって守られ、皇室の藩屏となるべき有力な諸侯王たちで満たされていれば、幼帝の玉座も幾分かの安全性は担保されたであろう。しかし、前章において詳述した通り、魏帝国の皇室は、文帝、曹丕が強迫観念的に推し進めた「宗室去勢の法理」によって、自らその武力と行政能力を完全に解体し尽くしていた。皇族たちは領地に幽閉され、軍事経験を奪われ、一切の実務能力を持たないまま、ただ監視に怯える虚ろな存在へと成り下がっていたのである。
皇族が実力を失った巨大な権力の空白地帯を埋め尽くしたのは、曹操がかつて「唯才是挙(ただ才のみを是として挙ぐ)」という実力至上主義の旗印の下に引き入れた、他姓の重臣たちであった。とりわけ、その頂点に君臨していたのが、太尉として国家の全軍を実質的に掌握していた司馬懿である。司馬懿は、蜀漢の諸葛亮という不世出の天才軍師との数年にわたる死闘を制し、魏の西方防衛線を死守しただけでなく、景初二年には皇帝の特命を帯びて四万の精鋭を率い、遼東の公孫淵を電光石火の用兵で滅ぼすという、他に並ぶ者のない圧倒的な武功を打ち立てていた。この時、洛陽に帰還する途上にあった司馬懿の威望は、全軍の将兵の崇拝を集め、中央の官僚機構にも強固な人脈を張り巡らせた、文字通り「臣下としての限界を突破した」絶対的なものであった。
病床の明帝は、自らの死後に必ず訪れるであろう政治的現実を、冷酷なまでに正確に予測していた。わずか八歳の幼帝、曹芳が玉座に座り、その傍らに百戦錬磨にして天下の軍権を握る司馬懿が後見人として並び立った時、果たして何が起こるか。明帝の脳裏をよぎったのは、かつて自らの祖父である曹操が、後漢の幼き皇帝であった献帝を擁立し、その名において天下を号令し、最終的には父である曹丕が合法的な手続きを経て漢王朝から帝位を簒奪した、あの「禅譲」という名の歴史的簒奪劇の再来であった。
魏帝国は、正統な血筋や伝統的な権威を否定し、「国家を統治する能力と実績を持つ者こそが、天下の頂点に立つべきである」という、過激な実力主義を建国の根本理念として成立した国家である。曹操や明帝自身が成熟した大人であり、他を凌駕する決断力と威厳を持っていたからこそ、有能な臣下たちを統制し、その能力を国家の利益へと結びつけることができた。しかし、玉座に座る者が何の判断能力も持たない八歳の子供であった場合、この実力主義の論理は、そのまま皇室に対する「合法的な死刑宣告」へと反転する。有能な士大夫層からすれば、国家の危機を救い、実務を回しているのは自分たちであり、何もできない幼帝を戴き続けることは国家にとっての不利益でしかない。儒教的な易姓革命の思想と、魏帝国が自ら掲げた能力至上主義が結びついた時、最も実力のある重臣(すなわち司馬懿)が、無能な幼帝から玉座を譲り受けることは、魏の法制と理念に照らし合わせても、ある種の歴史的必然性を帯びた「正義」として正当化され得るものであったのである。
明帝がここで到達した戦慄すべき真理は、「能力」や「実績」という土俵で臣下と戦う限り、魏の皇室にはもはやいかなる勝機も存在しないということであった。司馬懿をはじめとする士大夫層は、九品官人法を通じて官僚機構を支配し、外敵との絶え間ない戦争を通じて軍隊を完全に私物化している。能力で対抗しようにも、もはや皇族の中には一軍を率いて外敵を打ち破れるような人材は一人も残されていない。実力主義という土俵に立ち続ける限り、必ず他姓の重臣が勝利し、皇室は確実に敗北して滅亡する。これが、皇帝の権力が自らの作り出した官僚機構によって完全に包囲され、呑み込まれようとしている「帝権の黄昏」の真の実態であった。
この絶望的な完全包囲網から幼き後継者を守り抜くため、明帝が死の淵でひねり出した起死回生の防衛策こそが、実力主義という魏帝国の根本理念そのものを強制的に破棄し、それとは全く次元の異なる古い価値観、すなわち「血統主義」へと強引に回帰するという、極めて反動的かつ奇手とも言える権力配置の構想であった。他姓の重臣たちが突きつけてくる「能力と実績の暴力」を無効化するためには、彼らがどれほど努力しても決して手に入れることのできない、理屈を超えた絶対的な神聖不可侵の権威を、宮廷の最上位に物理的に鎮座させなければならない。
その「絶対的な神聖なる権威」の器として明帝が選び出し、全軍を統帥する国家の最高武官である「大将軍」に指名した人物こそが、燕王、曹宇であった。
大将軍という官職は、古代中国の軍事制度において、三公(太尉、司徒、司空)と呼ばれる朝廷の最高行政官をも凌駕し、自らの司令部である幕府を開いて独自の属官を任命する特権を持ち、国家の全軍に対して直接的な指揮命令権を行使することのできる、軍事と政治の絶対的な頂点である。かつての曹操も、この大将軍(後に丞相)の地位を足がかりとして天下の覇権を握った。魏においてこの地位に就くということは、文字通り皇帝に次ぐ、あるいは幼帝を凌いで国家の全権を握る最高権力者となることを意味している。
しかし、この国家の命運を左右する絶対的な職位に抜擢された曹宇という人物の経歴を紐解く時、後世の歴史家は誰もが強烈な違和感と戸惑いを覚えずにはいられない。なぜなら、曹宇は魏の建国から明帝の治世の末期に至るまで、国家の政治や軍事の第一線において、ただの一度たりとも特筆すべき功績を挙げたことのない、文字通りの「完全なる無実績」の皇族であったからである。
陳寿が編纂した正史『三国志』魏書・燕王宇伝によれば、曹宇は魏の建国者である武帝、曹操と、その愛妾であった環夫人との間に生まれた実の息子である。明帝から見れば血の繋がった叔父にあたる。この環夫人は、曹宇の他に曹沖という息子を産んでいる。曹沖は幼くして象の重さを量った逸話で知られ、曹操が自らの後継者として最も深く愛し、その早世を身を切るように嘆き悲しんだという、伝説的な神童である。曹宇は、この曹操が最も愛した天才と同母の弟であり、その身体には建国者の最も色濃く、最も周囲から期待された血脈が流れていた。
すでに文帝、曹丕の過酷な粛清と監視の歴史のなかで、曹操の血を引く第一世代の兄弟たちの多くが非業の死を遂げ、あるいは寿命を縮めていく中において、曹宇は武帝の実の息子として生き残っている、極めて稀有で尊貴な存在であった。明帝が、自らの死後に権力を託すべき相手として、能力に長けた別の若い皇族(例えば夏侯玄や曹肇など)を大将軍の単独筆頭にするのではなく、あえて一段上の世代であり、何の実績もない叔父の曹宇を選んだ最大の理由はここにある。曹宇を大将軍に据えるということは、魏の宮廷の最上位に「曹操の実の息子」を直接座らせることを意味する。それは、人事異動という次元を超え、魏帝国の権力の源泉を、曹操が天下を制したあの建国の時代へと強制的に巻き戻し、皇室の絶対性を回復させようとする、壮大なる歴史的・宗教的な政治儀式であったのである。
古代中国の思想において、祖先の霊廟に連なる血統というものは、極めて絶対的で呪術的な権威を持っていた。皇帝の権力は天から与えられたものであるが、その天命を最初に受けて王朝を開いた建国者の直系の血族には、建国者自身の霊威が宿ると固く信じられていたのである。司馬懿がいかに卓越した軍事的天才であり、国家の危機を幾度も救った大英雄であろうとも、彼はあくまで「曹操に見出され、曹氏の国家に仕えることを誓った臣下」であるという絶対的な大前提が存在する。明帝は、司馬懿をはじめとする他姓の重臣たちの頭上に、彼らがかつて忠誠を誓い、その底知れぬ武威の前に平伏した大いなる建国者の実の息子を君臨させることで、重臣たちの野心を精神的な根底から縛り付けようと図ったのである。
いかに司馬懿が強大な武功を誇ろうとも、いかに中書省の文官たちが高度な法解釈を操ろうとも、彼らはあくまで「曹氏の臣下」であるという大義名分の上に立っている。建国者の実の息子が皇帝の名代として全軍の指揮権を握った場合、表立ってこれに反対し、あるいは力で排除しようとすることは、自らの臣下としての正統性を自ら否定し、建国者に対する直接的な反逆を宣言する行為となる。明帝は、曹宇の圧倒的な「純血の威光」を巨大な盾として用いることで、他姓の重臣たちが突きつけてくる「実績と能力の暴力」を無力化し、彼らを政治の中枢から遠ざけるための大義名分を構築しようとしたのである。




