07. 月夜の約束 「死んじゃわなくて、良かった」
【注意要素】
怪我の描写、殿下セクハラ気味
「っ……」
「痛い?」
裂けた皮膚に直接、サイードの手が触れる。けれどその手は優しかった。
義姉のように、皮膚を切り裂いた後に文字通り塩を塗り込んだりするのとは違う。
こんなに優しく、血の出た傷口に触れられたことは、今までにはきっとない。
「傷は痛いですけど……痛くないので、大丈夫です」
「なんだ、それ。痛いのか痛くないのか分からないじゃないか。〈聖なる力よ、此の者の傷を癒やせ〉」
仄暗い部屋の中に、明るいオレンジ色の光が満ちる。温かさに触れた傷口が、みるみるうちに痛みを失くしていく。オレンジ色が薄くなり、やがては真っ白に。
そうして光はゆっくりと消え、部屋は暗闇に戻った。これで治癒魔法はおしまい。一度明るくなったせいか先程よりいっそう暗く感じる。
「まだ痛い?」
「もう痛くないですよ」
「触って、確かめて良い?」
「……どうぞ」
まだ幼い感じの喋り方が抜けないサイードは、エリエノールの肩を何度も擦った。その瞳はまだ何か不安そうで、見ていてなんだか辛くなるような悲哀を纏っていた。
「もう、血出てない? 治った?」
「出てないです、治りました。……殿下のおかげです。ありがとうございます」
「……良かった。死んじゃわなくて、良かった」
サイードがぎゅっとエリエノールを抱きしめる。彼の体が小さく震えているのが伝わってくる。
今日のサイードはなんか変だ。今日まさに大人になったはずなのに、いつもよりすごく幼く感じる。触れた胸から伝わる彼の鼓動は速かった。
「……こんな傷くらいで死にませんよ」
「うん、そうだよな。分かってる。……でも、誰かが血まみれで死ぬのを……もう見たくないんだ」
(もう見たくない?)
小さく悲しそうに呟かれたその言葉に、首を傾げた。もう見たくないということはつまり、以前見たことがあるということ。
誰かが血まみれで死ぬ姿を、彼は見たことがあるということ。
「エリエノール」
「……何、ですか」
初めて彼に名前を呼ばれた。彼は今まで一度も呼ばなかったのに。驚きの中に、ほんの少しだけ……喜びが、たしかにあった。
「寂しい」
「……そうですか」
彼の声に混じった涙に、気付かないふりをした。
「今日、僕の誕生日なんだ」
「存じております。……十六歳のお誕生日、おめでとうございます」
「うん……うん」
すでに血で濡れていた肩が、さらに涙で濡らされていく。何がこの王子様をこんなに悲しませているのか、エリエノールには分からなかった。
今日は彼の成人祭だ。主役である彼が、ずっと抜け出したままではまずいだろう。
(泣き止ませなきゃ、駄目だから)
シルバーグレーの髪に、ゆっくりと手を伸ばした。ぎこちなく、あやすように頭を撫でる。別に彼に触れたかったのではない。彼の涙に心乱されてしまったからでも、ない。
ただ、泣き止んでもらわないといけないから。こんなぐずった王子様のままなら、きっと外に出られないから。
彼とふたりきりでいる時間を減らすために、早く泣き止ませたいだけに、すぎない。
「……見苦しい姿を見せて、すまない」
徐々に泣き止んだサイードは、そう言うとエリエノールから離れた。頬に残る涙の跡にも、目元に残る赤みにも、気付かないふりをする。
「傷を治してくださって、ありがとうございました。殿下の見苦しい姿など、これっぽっちも見ておりません」
「……そうか」
彼の泣いている姿を、見苦しいとは思わなかったから。だからこれは、嘘ではない。
「そろそろ戻られた方が良いのでは? ……皆さんきっと、殿下をお待ちです」
ふたりきりの時間には、これでさよならだ。サイードはエリエノールのものではない。寂しくはない。
彼に外されたボタンをひとつひとつ自分でかけ直していく。袖が血に染まったドレスは、もう台無しだった。
「……姫」
「……はい、殿下」
まるで先程名を呼ばれたのは夢だったかのように。彼の声はいつも通りに、エリエノールを「姫」と呼んだ。いつも通りのその声に、少し悲しいと思ってしまったのは何故だろう。
「体は大丈夫か? 少しなら歩けるか?」
「大丈夫ですし普通に歩けますよ」
「じゃあ、ちょっとこっちに来てくれ」
自然にエリエノールの手を取ったサイードはゆっくりと、月の見える窓辺へと歩いた。明かりの点いていないこの部屋では、ここが一番に明るい。月に照らされるサイードは、とても綺麗だった。
「……君のドレス姿が見たかった」
「そうですか」
「可愛らしくないので驚いた」
「え、まさかの悪口ですか?」
ドレスは可愛いという自信があったので、「可愛らしくない」なんて言われて情けなくもちょっと傷ついた。
一部が血まみれだしそもそもエリエノールは貧相だし仕方ないのかもしれないが、わざわざ悪いところを言う必要もないだろうに。
「違う。思っていたより大人っぽくて綺麗で、ドキドキしている」
(下げてから上げる戦法かい)
傷心気味のところに褒め言葉を掛けてくるなんてずるい。悪く言われた後に褒められたら、その差で嬉しさが増してしまうではないか。
さすがは数多の女子からおもてになる王太子殿下。そういう技巧を持っているのかもしれない。
ドキドキしているなんて言われたら、エリエノールの方もドキドキしているような気がしてきてしまう。頭の中にふと〝吊り橋効果〟という何かの本で読んだ言葉が浮かんだが、おそらくちょっと違うだろう。これはただ、ドレス姿を褒められたから嬉しくなってしまっただけだ。
サイードがエリエノールの周りを歩いて、前も後ろもくまなく眺めていく。彼の目がいま何を見ているのか、彼がそれを見てどう思っているのか、少し不安になる。なんとなく居心地悪い中、何周か回り終えたサイードがエリエノールの背後で足を止めた。
「髪飾りもよく似合っている」
「ああ、ジャン様から頂いて――」
「前言撤回だ。全然似合わない」
「えぇ……」
(今度は上げて落とされた……)
驚くべき手のひら返しだ。こんなにくるくる言うことが変わると、なんだか信じられなくなってしまう。可愛いバレッタなのに、この魅力が理解できないなんて趣味が合わない。先程からサイードの言葉に一喜一憂させられている。
「――ふぇえっ!?」
突如項に感じた温かい風に驚いて、声を上げて仰け反った。柔らかくて温かいものが項に押し付けられ、背後から抱きしめられる。
「うなじ、えろい」
「なぁっ……!」
彼の唇の動きが項を優しく擦り、低い声を乗せた吐息がかかって背筋がぞくぞくした。離れようと身を捩ってもサイードの腕が抱きしめる力を強め、逃れようにも逃れられない。心臓がうるさく鳴る。
どうにかこうにか右腕だけを引き抜いて、項を守るように手で覆った。羞恥で血が上っているのだろう、ものすごく熱い。先程までここに彼の唇が触れていたのだと思うと、恥ずかしすぎて泣きそうになる。
「もうっ、やだ! 何なんですか! そーゆー目で見てるんですか!? へんたいっ!」
「僕も男だからな、仕方ない。……まあ安心しろ。君みたいなおちびちゃんを食べたりはしないから」
思わず「へんたい」なんて口走ってしまったエリエノールもエリエノールだが、サイードもサイードだ。
エリエノールのことを「おちびちゃん」なんて言った。低身長で痩せぎすなの、気にしてるのに。
優しいときもあるけど、やっぱりサイードは意地悪だ。そんな彼に振り回されているのがとても気に入らない。
相変わらず近くにあるサイードの唇から、覆いきれていない項に吐息がかかってぞわぞわする。こんな状態、これ以上耐えられない。エリエノールにしては大きな声で、喚くように言葉を吐いた。
「ええ、ええ、そうでしょうね! 食べられないなら良かったです! こんな鶏がらみたいなの美味しくないでしょうから! とにかく、そこで喋るのやめてくださいっ!! 近いです! ぞわぞわします! もう、駄目です……っ!」
「ああ。もう離れてやる」
本当に泣きそうになりながら最後まで言い終えると、ようやく近くにあった気配が離れた。息を整えていると、髪に彼の手が触れるのを感じる。
パチリとバレッタが外される音がして、まとまっていた髪が解れた。彼の指が髪をざっくりと梳かしていく。
「せっかく可愛くしてたのにぃ……」
思わずいじけたような声が出た。ドレスは血まみれで髪はぐしゃぐしゃ。もう全然可愛くなくなってしまった。
可愛くなれて嬉しかったのに、可愛いは簡単に壊れてしまう。貧相なだけのいつものエリエノールに戻ってしまう。
「君の良い姿をみんなに見られたくない。あんな無防備じゃ駄目だ」
「何ですかそれ。貴方は過保護なパパですか」
とは言いながらも、自分の父親がどんなだったかなんて知らないが。
エリエノールは捨て子だ。実の父親のことは何にも知らない。養父もほとんど関わりがなかったから、〝パパ〟というのがどういうものかなんて本で読んだ印象しかない。
(わたくしにも、優しいパパが欲しかったな)
温かい手で髪を梳かれながら、そんなことをぼんやりと考えた。髪から離れた青紫色のリボンと透明な花のバレッタを、正面に回ったサイードから渡される。
「君って、いつも香水とかは付けているのか?」
「付けてませんよ」
「へぇ。じゃあ元からそういう……あ、いや、違うぞ? 別に嗅いでいるわけではないのだがな。うん、全然嗅いでいない」
(嗅いでるんだな)
今日のサイードは誤魔化し方が下手っぴだ。きっと彼はいつもエリエノールの匂いを嗅いでいるんだろう。
(……え、気持ち悪っ!)
自分で考えておいて、なんか気持ち悪くなってしまった。ぞわぞわっと鳥肌が立つ。
(いやいや、ちょっと落ち着こう。憶測にすぎないかもだからね!)
一旦落ち着いて、先程考えてしまったことは憶測にすぎないと言い聞かせることにした。
そう、サイードは世間話として香水の話をしただけだ。別にエリエノールの匂いがどうとかいうことを言いかけたのではない。全然エリエノールの体臭なんて嗅がれちゃいない。だからこれは香水の話だ。そう思おう。うん、これは香水の話だ。誰が何と言おうとこれは香水の話だ。
「……香水、殿下は付けていらっしゃいますよね? 少なくとも今日と、初めてお会いした日は。でも普段学校では付けていないような気がします」
あくまでも香水の話ということにするために、サイードに香水のことを聞いてみることにした。今日の彼からは、爽やかな柑橘系の香りがする。ちなみに自然と気づいてしまっただけで、嗅ぎたかったのではない。
「なんだ、気づいていたのか。客人と会うときとかは付けているが、普段は邪魔だから付けていないな」
「けっこう好きですよ、その香り」
「……そうか。そういえば今気づいたが……君も泣いたのか? ジャンに泣かされたか?」
(君も、ね)
サイードの目元はまだ赤い。涙の痕跡のあるオレンジ色の瞳と、エリエノールの碧色の瞳が合う。エリエノールの目元にも、涙の跡があるのかもしれない。
「ジャン様のせいではありませんよ。ただ少し向こうの国での思い出に浸ってただけです。……泣いたの、おそろいですね」
「……ああ、そうだな」
サイードの手がエリエノールの頬を撫で、まるで愛おしいものを見るかのような瞳をして微笑んだ。サイードが頭を傾け、こつんとふたりの額が合わせられる。銀色の長い睫毛が、一本一本まで細かく見える。
「また君とは踊れなかったな」
「踊りたかったのですか?」
「うん。でも血を流した後に運動するのは良くないから、また今度だな。元気なときに、一緒に踊ろうな」
余計な関わりは絶つはずだったのに、また今度一緒にという言葉を吐くのか。ダンスならみんなやるものだから、別に良いということだろうか。
一緒にいたら駄目なのに、穏やかに弧を描く唇を見たら文句なんて言えなくなってしまった。
どうしてこんなにも彼に流されてしまうのだろう。
「……約束、します?」
「うん、する」
いつか本で読んだ一場面のような約束を。互いの小指を絡める約束の儀式をした。
「今夜は月が綺麗だ」
「ええ、そうですね」
夜の月明かりだけが照らす、ふたりきりの部屋で。誰も知らないふたりだけの約束を交わした。
✽✽✽
「今度」がいつなのかなんて。今度のときには今よりもっと遠く遠くのひとになってしまっているなんて。
このときはふたりとも、知らなかった。




