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虫食い姫は隣国の王太子殿下から逃れたい。  作者: 幽八花あかね
隣国の王太子殿下から逃れたい。1章

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20. 呼び方とボタンと黄色い蝶々 「わたくしは痴女なのではなく」



「やあ、エリエノール嬢」

「あら、ジャン様。こんにちは」


 試合を眺めているとジャンがやってきた。ミクの言った通りである。


(ジャン様なら、大丈夫)

 

 何故やってきたのかは分からないが、それなりに親しい仲なので近くにいられても特に困りはしない。

 ジャンはエリエノールの隣に座ってきたが、何処ぞの王太子とは違って適度な距離を保ってくれている。


「足怪我したらしいけど、大丈夫?」

「骨にひびが入っているそうですが、そこまで辛くはありません」

「そっか。じゃあ、夜の舞踏会は見てるだけになるのか?」

「そうですね。結局この合宿ではずっと、みんなのことを見ているだけになりそうです」


 昨日の飛行魔法訓練は見学の予定だったがそもそも見ることもできなかったし、今日の武闘会も見るだけで、夜の舞踏会も踊れないのでたぶん見るだけだ。


 明日は飛行魔法試験の後は学園に帰るだけの予定だから、エリエノールがまともに参加したのはせいぜい山登りの途中までくらいになる。


(別に良いけど、ちょっとだけ残念かも)

 

「……なあ、エリエノール嬢」

「何ですか? ジャン様」

「唐突だけど、これからエリエノールって呼んでも良い? 今までとそんな変わらないけど」


 意外な申し出だなと思いつつ、エリエノールはジャンの方を見た。ジャンはどこか緊張していそうな面持ちでこちらを見ている。

 いつもへらへらにこにこしている彼のその表情は、なんだか珍しかった。


(ジャン様でも、そういう顔するんだ)


 コミュニケーション能力のある人は人と関わるのに全然何にも緊張しないのかと思っていたが、そうでもないらしい。


(なんかちょっと、親近感?)


 エリエノールとしては、「エリエノール嬢」と呼ばれるのも「エリエノール」と呼ばれるのも特にあまり変化はないような気がする。


「嬢」がつかない分後者のほうが呼びやすいのかもしれないが、何にせよどう呼ばれようとあまり気にしない。だから特にこの申し出を断る理由もなかった。

 

「はい。もちろん良いですよ」

「ん、ありがと。エリエノール」


 名前を呼び捨てにすることを許可するとジャンは嬉しそうに笑った。はにかんで名を呼ぶ姿を見て、ちょっと可愛いなと思う。

 エリエノールはそんなに人の呼び方を気にしてはいないが、呼び方を変えると何かが変わるのだろうか。


(殿下は、一度も名前を呼んでくださらない)


 呼び方と言えば、今のところサイードには名を呼ばれたことはない。「姫」とか「君」としか言われない。もうその呼び方に慣れたが、なぜ名を呼ばないのだろう。


(ま、別にどうでもいいけど)


「殿下とアベル接戦だなー。今はどっちも黄色だ」

「では、次に攻撃に成功した方が勝ちということですね」


 あまり真面目に見ていなかったが、いつの間にか試合の状況は進んでいたらしい。サイードを応援する女子生徒たちがいつも通りきゃあきゃあと言っている。


(みんな元気だなぁ)



「エリエノールはさ、殿下のことどう思ってる?」

「どうとは?」

「やっぱり殿下に恋してるのか? ここの女子はそういう子ばっかりだろ?」


 エリエノールは、アベルと試合をしているサイードの方を真っ直ぐに見た。彼は今、アベルの攻撃をすんでのところで躱している。


(恋、ねぇ……)


 エリエノールはサイードに恋をしているのか。そんな質問への答えは考えるまでもなく決まっている。サイードの方を見ながらきっぱりと答えた。


「わたくしは、殿下に恋はしておりません。優秀で見目麗しいお方だとは思いますが、いちいち絡んでくるので(はなは)だ迷惑です」


 そう言うと、ジャンは吹き出した。何がそんなに面白かったのか分からないが、腹を抱えて笑っている。


(ジャン様もアベル様も、笑いのツボがいまいちよく分かんない)


「あははっ、『甚だ迷惑』か。面白いこと言うね。何か嫌なことあったのか?」

「……やたらと触ってくるので、気持ち悪いのです。いつも授業中でもべたべたしてきて、先程なんて……え、襟から手を入れてきて……」


 思い出しただけでぞわぞわとして、思わず肩を震わせた。本当にあの人は何なんだろう。

 そんなエリエノールをジャンはちらりと見て一瞬固まった後、納得したように頷いた。


「ああ、だからボタン開いてるのか」

「ボタン……? 開いて……」


 ジャンの不可思議な言葉を繰り返し、自分の襟元へと手を伸ばす。手が肌に触れ、首を傾げながらボタンを探す。


「えっ、あ……!?」


 そして、ようやっと気づいた。ブラウスの一番上のボタンが、ひとつ外れているのである。


(なんで?! 朝はちゃんと留めたのに――あっ! 殿下ですね!?)


 なんてことだ。あの王子、いったい何をしてくれたんだ。


(なんで、なんで誰も教えてくれなかったのよ?! 殿下は外した張本人だからまだしも、ミクさんが教えてくれてたら……)


 慌ててボタンを留めようとしたが、指先が震えてやたらと時間がかかってしまった。頬に熱が上り、涙目になる。

 別にボタンがひとつ開いていたくらいでは、さほど肌は露出していない。そういう面では問題ない。


 けれどエリエノールにとっては、ほんの少しでもサイードに服を(はだ)けられていたということや、そのことをジャンに指摘されたこと、そして言われるまで自分が気づかなかったことがたまらなく恥ずかしく、まさに穴があったら入りたいという気持ちであった。


(もう、泣きたい)


「……そっ、その、自分から開けたんじゃないんですよ? あの、気づいていなくてですね……だから、あの……えっと……わたくしは痴女なのではなく、そう、ただ……」


 しどろもどろの言い訳が口から出る。自分でも何が言いたいのか分からない。ただ何か弁明をして、この羞恥を紛らわせたかったのだ。


(もう無理)


 だがしかし言い訳も虚しくエリエノールは羞恥に耐えきれず撃沈し、膝を抱えて腕に頭を(うず)めた。恥ずかしくてジャンのことを見られない。辛い、引きこもりたい。


「エリエノール、大丈夫? 別にそんな見てないし、そこまで落ち込まなくても……。ていうか、殿下ってそんなセクハラ魔だったのか? どれだけ女子に囲まれても自ら触ったりはしないって評判だったんだけど」


「……じゃあ、その評判は間違いですね。平然と触ってきますよあの人は」


「ま、人の噂なんて分からないものだよな。エリエノールも噂と全然違――あー……いや、何でもない。ごめんな。余計なこと言った。忘れて。ごめん」


 ジャンは何かを言いかけた後、ものすごい勢いでそれを濁した。エリエノールの噂とはいったいどういう噂のことだろう。

 こうして中途半端に言われると気になるものだが、濁したということはろくでもない噂なのかもしれない。追及するのはやめておくことにした。


(知らぬが仏)


「はい。では、忘れますね」

「うん。そうして。……あ、エリエノール。なんか頭に蝶々(ちょうちょ)付いてる」

「え、何処ですか?」


 エリエノールは頭を少し上げ、ジャンに言われて自分の頭にぽんぽんと触ってみた。しかし、何処に蝶が付いてるのかよく分からない。


「ちょっと待ってストップ。エリエノール蝶々潰しそうなんだけど、どうしよ。……俺が取っちゃっていい? 触られるの嫌?」

「……蝶々を取るだけなら、触られても大丈夫です」


 サイードのようにべたべた触ってくるのは嫌だが、蝶を頭から取るという目的のためなら触れられても構わない。エリエノールも、自分で蝶を潰してしまうのは可哀想なので避けたい。


 視界の端に見えるジャンの手が、エリエノールの頭に近づく。



「ほら、取れたよ」


 少しすると、ジャンが指先に止まらせた蝶をエリエノールに見せてきた。顔をしっかりと上げ、まじまじと蝶を眺める。


(いつ取れたのか、分かんなかった)


 手が髪に触れたか触れていないかも分からないほどだったので、触らないように細心の注意を払ってくれていたのかもしれない。

 何処ぞの王太子とは違って、ジャンにはそういう気遣う心があるのだ。


「頭に付いてるときはリボンみたいで可愛かったよ」

「可愛い蝶々ですね。羽の色が綺麗です」


 エリエノールの頭に止まっていたという蝶は、鮮やかな黄色の小さな蝶だった。蒲公英(たんぽぽ)のような色の羽を、ジャンの指先の上で僅かにぱたぱたとさせている。


(あっ)


 しかしエリエノールが蝶を見ていられたのは束の間のことで、にわかに甲高いうるさい悲鳴が聞こえると蝶は何処かに飛んでいってしまった。


(あーあ)


 悲鳴を上げたのはサイードを応援していた女子集団。どうやらサイードとアベルの試合が終わったらしい。


「セクハラ王子の負けみたいだね」

「そうですね。全然見ていませんでしたけど」

「……なんか睨まれてない?」


 たしかにサイードがこちらを睨みつけているように気がする。エリエノールが真面目に試合を見ていなかったことに気づいたのだろうか。


(ご機嫌斜めな殿下とは、特に関わりたくない)


 サイードは女子生徒に囲まれているので、こちらにすぐには来られまい。エリエノールはすっと目を逸らした。


「気のせいということにしておきましょう。わたくしは医務室に戻ります。ミクさんは、どうせ殿下の姿を見て欲しかっただけでしょうから」


 もうレティシアも見たし、あとは特に見知った顔が試合に出るわけではないので見なくてもいいだろう。ミクに誘われなければ、医務室に籠もっていてもいいとエリエノールは思っていたくらいだ。


「ミクっていうと……ああ、神の声聞ける子ね。友だちなの?」

「はい」

「クラスにもちゃんと友だちいるみたいで良かった。俺、医務室まで付いていくよ」

「ありがとうございます」


 エリエノールはジャンと一緒に医務室まで戻り、ジャンはエリエノールを医務室まで送ると競技場の方へ戻っていった。


(ジャン様、優しいな)


 ジャンの優しさに心をほくほくとさせながら、ベッドに入る。サイードのことは頭から閉め出した(シャットアウトした)

 足を怪我しているせいか、少しのことでかなり疲れてしまう。怪我の回復には睡眠が必要だしということで、しばし眠ることにした。



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