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 宿は静かだった。客がいないというわけでもない。何度かすれ違うこともあった。しかし、子供を連れて旅をしている者は少なく、この宿に泊まっている中ではシャジーチだけなのではないかと思えた。

 男はベッドの柔らかさを感じながら天井を見ている。ミハージィは男の手や足、腹に触れながら転げ、腹に頭を乗せて同じように天井を眺めるのに落ち着いた。スーウェンは静かにそれを眺め、シャジーチはテーブルで酒を飲んでいる。

 男はシャジーチのことを考えていた。なぜシャジーチは二人を連れて行こうと思ったのか。スーウェンを連れて行くのは理解できる。スーウェンは美人だ。それだけでも客商売をする上で便利であるし、その上で力もある。反面、ミハージィに懐かれているというだけの理由で素性の知れない男を連れ歩くことなどあるだろうか。それが実際にあるとしても、他の理由を探さずにはいられない。シャジーチは薄々ながら感じているのだろうか。ミハージィとの間になにか理解できないものが横たわっているということを。娘が父親に擦り寄るのを不思議とは思わない。しかし、見ず知らずの男に懐いて父親に見向きもしないなどということがあるだろうか。そう考えればシャジーチに不満があってもおかしくない。あるいはシャジーチ自身、自分に自信が持てず父親としてなにかを与えてやりたいと思っているのかもしれない。

 男はそこまで考え、今の自分を眺めた。何を求めるでもなく、着いてこいと誘われたから着いてきている。去れと言われたなら去るだろう。しかし、それはミハージィに対するシャジーチの気持ちを人質にするような行いではないか。不実。それについて思うことはあってもそれを払拭するような考えは浮かんでこない。逆らう理由もなく、自らそうしたいと思う理由もない。なにも要求しない、それだけが誠実さの証明であるように思える。ミハージィに対して好意を抱くことも、これ見よがしに可愛がることも打算であるように感じられてならない。あるいはそうするべきなのかもしれないが。


 シャジーチは喉を焼くような酒を飲みながら明日のことを考えようと努めていた。今年も去年と同じように過ごせるだろう。そう願いながらもそうならないであろうことを直感していた。それが信じるに足る感覚だとは到底思えないにしても、やはりそれを無視することは難しく、四人で旅をするのだという不安が肩によりかかっているように感じている。男は何も言わない。この男はどれだけ信じられるだろう。静かで無欲な男という印象が間違っていたら? すべてを失うかもしれない。そうなったとき、スーウェンは助けてくれるだろうか。スーウェンが旅に出ると言ったのは多分にこの男が理由なのだと思う。そうであるなら、男が善良でなくとも助けるだろうか。スーウェンがどちらの側に立つのか、それすらもはっきりと言えることはない。男はその気になればいつでも自分を昏倒させることができる。これはスーウェンにも言える。スーウェンが男を諫めようとしたところで殺すことはできまい。脅かすことも無理だ。その点、この男は何も持たない中で覚悟だけは持っているように見える。死ぬことを厭わない。それだけで向かい合うことは避けたい相手だ。何も持たないからこそ。

 ミハージィはどう思っているのだろう。もしも男に恋をしているというのなら……。

 恋をしているというのなら、どうするべきなのか。

 シャジーチは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。なにもかも忘れてしまいたい衝動と共に酒を一口流し込む。

 もう十一が近い。ミハージィの人生を邪魔したくはない。すべてを失うとしても。男はどう思っているのだろう。すべてを差し出したなら、ミハージィを幸せにしてくれるだろうか。スーウェンは許してくれるだろうか。

 ミハージィは賢い子だ。しかし、商売は差し引きだけで上手くいくほど簡単ではない。弱い者は奪われる。それは商談相手に限らない。賊の類は少なくなったとはいえ噂が流れてくることもある。見る目があるといってもそれは表向きだ。人の裏側まで見通すことはできない。どんな聖人でも死を前にすれば足掻くものだ。

 男がもしミハージィを大切にしてくれるのなら願ったりだ。力を振り回す姿は想像できないにしても、あの痛みがある限りは。

 ……痛みがなくなったら? 

 あの痛みが消えたとき、男には本当になにもないのかもしれない。外から見える覚悟も痛みあってこそのものかもしれない。それがなくなったとしたら、男はどう変わるだろうか。そもそも、変わるのかすらわかりはしない。

 シャジーチは額の裏の熱さを掻きむしりながら視線を落とした。


 みんなで仲良くやっていけばいいじゃない。それが許されるうちは。


 シャジーチはキナーの顔を思い出そうとした。左右に揺れる頭だけが感じられる。自分の外側が重く、遅い。変わりのない意識と輪郭の暈けた世界。ゆっくりと立ち上がり酒瓶に蓋をする。ゆっくりと自分のベッドに倒れ込む。


 誰かが許せなくなったらお終い。それでいいじゃない。


 無理に未来と向き合うことはない。キナーはそう言っていた。誰がどんなことを思っているのか、どんなことを感じているのかなんてのは誰にもわからない。だから誰かのことを考えるし、誰かのことを思うことができる。


 裏切り


 キナーは許せなくなったのだろうか。

 だから裏切ったのか? 言った通りに。

 許せなくなったのか? わからない。

 言葉の通りなら、キナーを忘れていないなら、お終いのはずだ。裏切りじゃあない。


 裏切りじゃあない。


 シャジーチは逸れていく考えをそうと分からず考えていた。何度も何度も繰り返し胸の中で呟いて涙が流れる。


 裏切りじゃあない。


 裏切りじゃあない。


 …・…お終いでもない。



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