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湯船の中で男は目を閉じている。
先ず痛みがあり、次に音。光と、水。温かさは外側にある。感じること、感じている自分と痛みの序列が入れ替わり続けている。意識の焦点が定まらない。意識と感じるそれが自分でないような客観。焦点を合わせているその瞬間、それが自分になる。痛みを感じている、痛みに焦点を合わせている瞬間には意識がない。音も光も、暗闇すら、それを見ようとすればそこに。常日頃感じる雑多な世界がどれほど騒がしく魅力に満ちているのか、それを見ようとすればどれほど自分を忘れられるのかを強く思う。
自分は、人間とは結局のところなんなのか。
すべてを見ようとする。
長い時間そうしていた。世界のどこか、あるいは自分の中に目を奪われ続ける。努めて全体を眺めようとすればするほどにどれか一つしか見ることができない。
砂時計の砂が流れている。
焦点を合わせようとしているなにかに気づく。言語的な、あるいは映像的な思考とは全く異なった反射的なそれ。本能とも衝動とも区別のつかない。それらと同じか、あるいはそのどれでもない。直感、習慣、連綿と続く運命を刻んだなにか。
血の記憶
自分の中にある自分としての本質を垣間見る。これが魂と呼ばれるものなのだろうか。自分を自分として感じる以前に存在する規範。そうしなければならず、逃れることはできない。なによりも自分の奥底にあり、なによりも自分を動かしている。自分が意識だと感じていたものがその実、取るに足らない外側の面に過ぎないと思い知る。
男は立ち上がり体を拭く。髪を切られ、髭を剃られ、垢を落とした。世界が違うように感じられる。自分が自分でないのかもしれない。すべてが変わってしまったのかも。
服を手に取り、それが昔よりも汚れていないことに驚く。独り土に塗れて歩いていた頃を思い出す。少しばかりほつれ、穴が開いているとしても、それは遙かに清潔だった。
それとも、昔からそんな風だっただろうか。すべてが変わってしまった。昔を思い出すことはもうできないのかもしれない。手を動かす度、脚を上げる度、袖を通す音と共に忘れていく。すべてが、自分の意識すらも外側にあるような違和感。似たような感覚は以前からあった。しかし、意識がそれを理解してしまった。
もう二度と自分を生きることはできない。そんな直感だけが残った。
最後の砂が落ちる。女中の声が響く。
扉を開く。
女中がそれとわからぬほど目を開き動きを止めた。
軽く頭を下げる。
ミハージィが座っている。テーブルにはミルクのカップが置かれている。スーウェンはまだのようだ。前に座り、軽く手を振る。自分はこれほど愛想良く誰かに接したことがあるだろうか。自分自身、酷く滑稽な印象を受け、道化の独り芝居のようにも思える。
ミハージィが微笑む。ミルクが口元に少しついている。
なにを話すでもない。スーウェンが来るまではこのままだろう。良くも悪くもない、実感の遠ざかった世界。変わらないはずなのに精彩を欠く。すべてが見慣れて見窄らしく、遙か昔からあるくすんだ絵のように。
「ねえ。手、触ってもいい?」
ミハージィに右手を差し出す。テーブルの上に置かれたそれをミハージィが丁寧に触れる。沈むように柔らかな指先、細く、温かい。少女が手に触れている。なんのことはない些細なことが穏やかさを感じさせる。その穏やかさを見ている自分を感じる。見ているというよりも見られているというのが正しいかもしれない。
どれくらいの時間待っただろう、ミルクが半分ほどになった頃、スーウェンが戻って来た。以前と比べれば柔らかな印象を受ける。張り詰めたような空気が緩み、穏やかな柔らかさを纏っているように見える。表情の角がとれたと言えばいいのだろうか。話しかければ応えてくれるような、そんな雰囲気がある。それとも、スーウェンは前と変わらず、自分の見方が変わったのだろうか。わからない。
「さっぱりした。髭も、髪も。似合ってるじゃない」
スーウェンはミハージィに同意を求めるように首を傾げた。ミハージィは微笑んでそれを返した。右手に触れる指に少し力を感じた。
「父さんは?」
ミハージィが男を見て言った。一緒に居たのだと思っている。
「用事があるから待っててくれって言ってた。その為に時間も長くとったみたいだし」
スーウェンが答える。ミハージィが頬を膨らませて頭を揺らした。
「私には聞いてないって?」
ミハージィは笑って首を傾げた。
「ま、いいわ」
「怒らないでよ」
「大丈夫よ。冗談でしょ?」
二人の遣り取りが夢の中のもののように感じる。こんな風に二人は話すだろうか。これはすべて夢や一時の空想に過ぎないのではないか、そんな風に思いながら。
それでも、二人は現実に話し、たわいのない遣り取りを繰り返している。馬車の中ではない、疲れのとれた今だからこそ、それは本物なのだろう。
考え、感じるものを知ろうとすればするほど現実が分からなくなる。自分の外側に、あるいは内側にある焦点を定めるそれが捉えられなくなる。
気づけば男はミハージィの手を眺めていた。どうして手を見ようと思ったのか、なぜ手を見ているのかわからない。この無意識こそが本当の自分なのだと考えている。どうすれば自分自身を理解することができるのかを考えている。自分が何者で、この痛みはなんなのかを知りたいと思っている。
男はミハージィの手を握った。ミハージィも握り返して男の目を見た。手を握りたいと思った自分がどこかにいる。ミハージィもそうだろうか。わからない。
「おう、待たせたな」
シャジーチが戻って来た。スーウェンの横に立って言う。
「今日は宿に戻って休みだ。明日からは客先周りで忙しくなる。ミハージィは顔合わせについてきてもらう。二人は馬車の番を頼む」
二人はどちらともなく頷く。シャジーチもそれを見て頷いた。
「よし、じゃあ戻るぞ」
そう言ってシャジーチは風呂屋の女中と少し話して店を出た。三人もそれに続く。
男は後ろを歩き、何とも言えない匂いに戸惑っていた。




