第68話:『錯乱の鏡面』のダミーデータと、想定を上回る悪意(ゼロデイ攻撃)
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完璧な休息と栄養補給を終え、活力を漲らせた五人は、いよいよ第64層『錯乱の鏡面』へと足を踏み入れた。
そこは、壁も、床も、天井も、すべてが磨き上げられた巨大な鏡面で構成された、方向感覚を著しく狂わせる異常な空間だった。
無数の自分たちの姿が全方位に反射し、少しでも気を抜けばどちらが進行方向(正規ルート)なのかさえ分からなくなる。
「……うわぁ、目がチカチカするわね。どこを見ても自分だらけよ」
ミクが目を細めながら、慎重に足を進める。
「足元も鏡だから、スカートの中が見えちまわないかヒヤヒヤするね。……おっと、魔物のお出ましだ」
ヴァレリアが戦斧を構えると同時に、周囲の鏡の中から音もなく、全身を銀色の流線型装甲で包んだ人型の魔物――『ミラー・アサシン』が「三体」、滑り出るように姿を現した。
『…………』
「ユリウス、敵のステータスは?」
「厄介だぞ。奴らの装甲自体が光学迷彩の役割を果たしている。さらに……」
ユリウスが警告を発した瞬間、三体のミラー・アサシンがゆらりと揺れ、瞬く間に分裂した。
三体が十体になり、十体が三十体になり、四方八方の鏡に反射しながら、無数のアサシンが五人を完全に包囲したのだ。
「げっ!? なんだいこの数は! さすがのバッチ処理でも骨が折れるよ!」
「落ち着け、ヴァレリア。大半はただの光学的な幻影だ。……だが、どれが実体の三体なのか、鏡の乱反射のせいで魔力探知でもロックオンできない!」
ユリウスが舌打ちをする。
アリアの広範囲炎魔法があれば、空間全体を熱波で焼き尽くすことで、幻影ごと実体を炙り出す(総当たり攻撃)ことができた。しかし、今の彼らにその面制圧力はない。
「ミク! アタシが手当たり次第に斧を振り回そうか!?」
「ダメよヴァレリア! 空振り(無駄な処理)はスタミナ(リソース)の無駄遣いよ!……それに、奴らの狙いはあなたたちじゃないわ!」
極限の状況下。ミクの頭脳は、敵の存在意義を高速で解析していた。
(あいつらは『アサシン(暗殺者)』。つまり、重装甲のヴァレリアやガストンを正面から狙うような非効率な処理は絶対にしない。幻影で前衛の目を逸らし、その死角から……装甲の薄い『後衛』の急所を狙ってくるはずよ!)
ならば、敵の思考を逆手に取る。
サイバーセキュリティにおける『不正アクセスの誘導と特定』――【ハニーポット作戦】だ。
「ユリウス! 後衛守護のガルドから、あえて『半歩だけ』外に出なさい! あなたを囮(意図的な脆弱性)にして実体を誘い込むわ!」
「……! 了解した!」
ミクの指示の意図を瞬時に理解したユリウスは、鉄壁のガルドの背後からわざと身を乗り出し、無防備な肩を晒した。
前衛のヴァレリアとガストンにも指示が飛び、彼らは幻影には一切構わず、ユリウスの周囲にのみ意識を集中させる。
直後。
ユリウスの背後、頭上、右側面の空間がわずかに歪み、必殺の刃を振り下ろす実体の三体が、同時にその姿を現した。
「掛かったわね、バグ共ッ!! ガルド! ガストン!」
ミクの鋭い声が響く。
「後衛を舐めんなよォッ!!」
ドンッ!! ユリウスの右側面から迫った一体目を、ガルドが大盾で完全にブロックする。
ガァァァンッ!! 背後から迫った二体目は、前衛から一瞬で後退したガストンの大盾がカチ上げる。
そして頭上の三体目を、跳躍したミクが双剣で縫い留めた。
「まとめてスクラップ(ゴミデータ)にしてやるよォォォッ!! 『撃滅の断頭斧』!!!」
三ヶ所で完全に動きを止められたアサシンたちの中央へ、待ち構えていたヴァレリアの規格外の戦斧が叩き込まれた。
凄まじい衝撃波と共に、三体のアサシンは銀色の装甲ごと文字通り粉々に粉砕される。
「……やったか!?」
ヴァレリアが息を吐いた、その瞬間だった。
『…………』
粉砕されたはずの三体の残骸が、ノイズのように「ブレて」消滅した。
そして――空間を埋め尽くしていた三十体以上の幻影は、何一つ消えることなく、未だに彼らを取り囲んでいたのだ。
「なっ……幻影が消えない!? じゃあ今の三体は……!」
ミクが驚愕に目を見開く。
「……奴らも『囮(高度なダミー)』だ! 本命は別にいる!」
ユリウスが鋭く叫び、杖を構え直した。
アサシン(暗殺者)という存在のアルゴリズム。
それは「用意された脆弱性(囮)に馬鹿正直に飛び込む」ような単細胞ではない。彼らは最初から、ミクの仕掛けたハニーポット作戦すらも逆手に取っていたのだ。
高度なダミー三体をあえて囮として突撃させ、パーティーの『絶対防壁』と『最大火力』の全リソースを完全に消費させること。
それが、真のオリジナルである【四体目】の狙いだった。
「――ッ!!」
ヴァレリアは戦斧を振り抜いた致命的な硬直中。
ミクは空中で体勢を崩し、ガストンとガルドはダミーの迎撃に盾を振った直後。
前衛と後衛のすべての防壁が機能不全に陥った、そのコンマ一秒の完全な空白。
パァンッ!! と、最も安全であるはずの陣形の中央――ルカの足元の鏡が砕け散った。
砕けた鏡の破片の乱反射(光学迷彩)に完全に溶け込み、息を潜めていた『真のオリジナル(ルート権限)』が、パーティーの真の生命線である治癒士の喉笛めがけて、必殺の凶刃を突き出す。
「ルカッ!!」
ユリウスは四体目を警戒してはいた。しかし「足元の床下」という三次元的な完全な死角からの奇襲には、魔法の展開がコンマ数秒遅れた。
誰のカバーも間に合わない。
ルカの白い喉元に、凶刃が届く――その直前。
「舐め、るなァァァッ!!」
凄まじい咆哮と共に、迎撃で体勢を崩していたはずのガルドが、自らの体を物理的な盾としてルカの前に覆い被さった。
大盾を構え直す時間はなかった。彼は己の肉体そのものを、ルカと凶刃の間に割り込ませたのだ。
ズバァァァァァッ!!!
「がっ……はぁッ!!?」
鈍い肉を裂く音。
暗殺者の凶刃は、ガルドの分厚い胴鎧を紙のように貫き、彼の左脇腹から背中にかけてを深く、残酷に切り裂いた。
鮮血が空中に舞い、美しい鏡面の世界に赤い斑点を散らす。
「ガルドォォォッ!!」
ミクの悲鳴が響く。
「ごふっ……!! 抜か、せるか……ッ!」
口から血を吐きながらも、ガルドは崩れ落ちることはなかった。それどころか、己の肉に深く食い込んだ暗殺者の腕を、分厚い両腕でガッチリと抱え込み、完全にロック(拘束)したのだ。
『……!?』
一撃離脱を前提としていた暗殺者が、想定外の拘束に機動力を奪われ、初めて狼狽の挙動を見せる。
「撃て、ユリウスッ!! 俺ごとヤっちまえ!!」
ガルドが血みどろの顔で咆哮する。
「……ッ!! 削除だ!!」
ユリウスが杖を突き出す。魔力制御を極限まで絞り込み、ガルドへの巻き添えを最小限に抑えた指向性の雷撃を至近距離から放った。
ズガァァァァァァンッ!!!!
雷撃が暗殺者の頭部を正確に吹き飛ばし、その内部コアを完全に蒸発させる。
四体目のオリジナルが消滅した瞬間、空間を取り囲んでいた無数の幻影たちもアクセスを失い、一斉に掻き消えていった。
「ガルド!!」
ルカが悲鳴のような声を上げ、膝から崩れ落ちたガルドを抱き留める。
「ルカ、さん……。無事、か……?」
「馬鹿者! なぜ体を張った! 私の治癒魔法なら多少の傷は……ッ!」
「へへっ……後衛守護が、守るべき相手に……傷を負わせるわけには、いかねえだろ……」
ガルドの傷は深い。ルカが即座に最大出力の治癒魔法を施し、切り裂かれた肉と血管を強引に繋ぎ合わせていくが、傷が深すぎる上に、暗殺者の刃に塗られていた致死性の毒が彼の体力を急速に奪っていた。
「……私の解毒魔法と治癒で、命に別状はない。傷口も塞がる。……だが、失われた血液と激痛のショックによるデバフは、すぐには回復しない……!」
ルカが悔しそうに唇を噛む。
「……私の、責任だ」
ミクが、ガルドの血で濡れた鏡の床を見つめながら、ギリッと拳を握り締めた。
「私のロジックが甘かった。敵の狡猾さを測り違え、ハニーポットなんて小手先の戦術に溺れたせいで……絶対防壁の一角を破損させてしまった」
「気に、すんな……ミク。俺が、勝手にやったことだ」
息も絶え絶えなガルドが、力なく笑う。
ヴァレリアとガストンも無言で周囲を警戒し直すが、その表情には先ほどまでの余裕は微塵も残っていなかった。
「……血の匂いが、他の魔物を引き寄せる。ミク、どうする!?」
ヴァレリアが戦斧を構えながら鋭く問う。
ミクは一つ深呼吸をして、強く噛み締めていた唇を離した。感情を切り離し、PMとしての冷徹な顔を強制的に取り戻す。
「……作戦中止。現時刻をもって、本システムは直前の安全地帯まで撤退するわ」
ミクが、明確な運用停止を宣言した。
「ま、待てよミク……! 俺の傷は塞がった。歩ける! せっかく第64層まで潜ってきたんだ……ここで戻ったら、またイチから……!」
ガルドが無理に這い上がろうとするが、ミクはそれを冷たく、しかし確かな気遣いを込めて制止した。
「却下よ、ガルド。破損したパーツを抱えたまま、気合いと根性だけで未知の環境(本番)へ突っ込むような運用を、私のシステムは許容しない。……それに、アリアが捕らわれている中枢はまだ遥か底よ。こんな序盤で無理をすれば、いずれ確実に全滅するわ」
「……ミクの言う通りだ」
ユリウスも即座に同意し、退路の安全確認を始める。
「今の我々は、致命的なバグを抱えた状態だ。これで底が見えない深層を強行突破するなど三流のやることだ。……ガルド、お前の命をここでロストするわけにはいかない」
「ユリウス……」
「ヴァレリア。あなたの攻撃タスクは一旦すべて破棄して。ガルドを背負い、彼の移動補助(リソース維持)に専念しなさい」
「……分かった。アタシの筋肉は、今はガルドを無事に生還させるために使うよ」
ヴァレリアが戦斧を背に収め、慎重にガルドの巨体を背負い上げる。
「ガストン。ガルドが抜けた以上、このパーティーの『盾』はあなた一人よ。最後尾で、追撃の全プロセスを一人で捌ける?」
「へっ……愚問だな。後退戦の殿こそ、重戦士の華ってもんだ」
ガストンが大盾を構え、血走った目で周囲の鏡面を睨みつける。
「来た道を戻るわよ。……氷を砕き、沼に橋を架けた私たちなら、帰還ルート(既存のインフラ)は既に確保されているわ。急ぎつつも、確実に退くわよ!」
ミクの号令と共に、『三律の連環』は一切の未練なく踵を返した。
奪われた仲間を取り戻すための道程は、想像以上に長く、そして過酷だ。システム全体を維持できなければ彼女を救い出すことなど不可能だという冷厳な事実を、彼らは誰よりも理解している。
ガルドという防壁を半壊させられた手痛い敗北。
だが、彼らは決して崩壊することなく、重傷者を抱えながらも完璧な後退陣形を組み、泥臭く切り開いてきた帰還ルートを静かに、そして確実に戻っていった。
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