表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
141/141

138 『小聞丸の婚礼』と『大友家の臣従』

1547年7月


蝉の声が遠くで揺れていた。

池田城の大手門前に、伏見宮家の輿が静かに止まった。


白張りの御簾の向こうで、恵姫は胸の前で手を握りしめていた。


(……今日から、私は慶お姉さまと同じ楠予家の人になるのだわ)


侍女の小萩がそっと囁く。


「恵さま……いよいよでございます」


恵姫は小さく頷いた。

緊張で喉が乾く。だが、心の奥には確かな決意があった。


庭に面した広間では、

正重、源太郎、そして正光(小聞丸)が並んで座していた。


小聞丸は元服して正光を名乗るようになっていた。まだ幼さの残る顔立ちだが、背筋はまっすぐ伸び、十四歳らしく、立派に振る舞おうとしていた。


(……あの方が、正光様……)


恵姫の胸が高鳴る。

三条公頼が声を張った。


「伏見宮家の御息女・恵姫様、御入来にございます」


御簾が上がる。

恵姫は一歩、また一歩と進み出た。

白い小袖に薄桃の打掛。

京の姫らしい気品が、場の空気を変える。


正光は息を呑んだ。

(……可愛い……)


だが、すぐに表情を整え、恵姫の前に進み出て深く頭を下げた。


「正光にございます。

本日より、そなたを正室としてお迎えいたす。

どうか……末永く、我が家を支えてくだされ」


恵姫は緊張で声が震えたが、しっかりと返した。

「どうか……よろしくお願いいたします」


その瞬間、池田城の広間に柔らかな空気が流れた。




ーーーーーーー

3ヶ月後。

1547年10月。池田城・広間


楠予家は、5か月前に薩摩を完全に手中に収めた。現在では6カ国を支配下におき、大内家を抜いて、三好長慶と並び、日の本で一、二を争う大名にのし上がっていた。


伊予34万石

土佐21万石

豊後41万石

日向23万石

大隅国24万石

薩摩22万石

合計 165万石


上座に座る正重が静かに言う。


「皆のもの、此度こそは又衛兵の仇を討ち、大友家を滅亡させる。

女子供を除き、大友一族と戸次一族の降伏は許さん、皆もそう心得よ」


次郎は膝を叩く。


「当然にございます。男どもは切腹、女子供は皆寺に入れ出家させます。真律宗は婚姻可能ですが、例外として禁止とします」


玄馬が付け加える。


「大友家の石高は推定で筑後国30万石、肥後の国の半分の28万石。合計58万石ほど。農民兵と守備兵を含めた場合、最大兵力は2万を超える可能性がある。されど今の大友家の状況からすれば、1万も集められぬだろう」


軍部責任者の大保木佐介が頷く。


「軍部は大友攻めに向けて万全の体制を整えました。この1年は、兵力の増強と訓練に努めて参りました。常備軍の総兵力は今や75000。今回の遠征は6万の大軍勢を予定し、すでに薩摩に集結させつつあります」


吉田作兵衛が笑う。


「6万とは凄い! 楠予家も大きくなったものじゃ。大保木殿、ご苦労にござった」


「いえ、全ては軍部の予算を無制限とし、銭を湯水のように使わせてくれた統治部の功績にござる」


玄馬が笑う。


「それは全て次郎の手柄じゃ、鏡の貿易だけでこの1年で20万貫文の利益を上げたのだ」


玉之江甚八が口をパクりと開ける。


「20万貫……次郎殿はいつまでたっても我らの想像を超えてくる……」


作兵衛が頷く。

「うんうん、そうじゃのう甚八。次郎殿あっての楠予家よ」


次郎が首を振る。

「いいえ。私だけの手柄ではございません。職人たちの手柄にございます。それに統治部の功績はそれ以上。全体の収益は226万貫文です。鏡の儲けなどささいなものです」」


ーーー

明細

収益 合計226万貫文

※年貢収入の売却

 約20万貫文。

※商人からの税

 約1万貫文

※明への輸出

 約45万貫文

※南蛮との交易

 約10万貫文

※国内での商いによる儲け

 約150万貫文

(うち明国の輸入品の転売80万)


ーーーーー


※楠予家は貨幣経済に移行し、人口100万を持つに至った。現在の収入は、商業国家のベネチアすらも抜いていた。


商業国家ベネチア共和国

• 人口:10〜20万人

• 軍事国家+商業国家

• 年間国家収入:約100〜150万デュカート

※日本換算で 約100〜150万貫文。

ーーーーー



楠河昌成が驚きの声を上げる。


「226万貫文! ……大保木殿、聞くのが恐ろしいのですが、軍部の費用はどうなのですか? 以前お聞きした時は、利益と同じくらいの額が使われておりましたが……」


大保木が真剣な顔で応える。


「軍部の費用は約102万貫文でござる。

詳細を申せば、75000の兵の雇用費用は年間で15万貫文。

さらに全ての兵を出陣させた場合、危険手当が30万貫文追加される。

また重臣や家臣からの兵の、貸出料が約15万貫文。階級手当が約15万貫文。

それと工廠での武具防具などの製造費用が約10万貫文。水軍の維持費が約2万貫文でござる」


玄馬が言葉を繋ぐ。


「軍部以外の費用では、商いの拡大費用に約20万貫文。工事などその他の費用が約80万貫文。

軍部と合わせて、総費用は最大202万貫文になる見込みだ」


作兵衛が大口を開け、笑った。


「やっぱりか! 費用も随分と上がったものじゃ。まあ、でもそれだけ楠予家が強くなった証じゃ」



近世的商業国家に近い楠予家の弱点――それは収入も莫大だが支出も莫大になる事だった。


楠予家が普通の封建国家ならば、鏡の事業での利益20万貫文があれば十分に天下が取れる。だが貨幣経済国家の楠予家では、収入額も支出額も封建国家の5~10倍におのずと跳ね上がってしまう仕組みになっていた。


今回の決算書を見た次郎は、商人の税金が極端に少ない事に気づいた。


※戦国から江戸時代にかけての統治能力では、商人の利益を正確に把握する術がなく、商人からの税金が極端に少なかったのだ。


これを知った次郎は民間の商人との共存、競争、繁栄と言う考えを捨て、楠予家直属の商人(国営)を容赦なく増やす方針に、切り替えると心に決めた。


正重が静かに言う。


「案ずる必要はない。我らは天下を目指して戦っておる。そのための支出じゃ。倹約に励めば支出を半分にでき利益が倍になる。ゆえに利益が少ない事を案ずる必要はない」


そこで正重はニヤリと笑った。


「それとも、その方たち重臣の役職手当などの経費を削ってもよいか?」


広間に集まる数十人の重臣が言葉に詰まった。

忠誠を示すならば進んで同意すべきであろう。

楠予家の手当は厚い、多少けずられても問題ない。だが元の所領を大きく削られている長宗我部国親や島津貴久などはどう応えるべきか思案した。


源太郎が正重の横で笑う。


「はっはっは、心配せずともよい。

父上の悪い冗談じゃ。楠予家の財政は次郎と玄馬に任せておれば問題ない。見かけの収支などに誤魔化されてはならん。領内や軍が正常に回っておるかが肝要なのだ。収支がよくとも民と家臣が不幸では国は保てぬ」


広間に集まった楠予家の重臣24名が一斉に頭を下げた。


「「ははあ!」」


ーーーーー

1547年11月初旬。


楠予家の6万の大軍が薩摩から肥後へと侵攻した。


総大将は正重。

まず最初の敵は肥後の国の南を支配する相良家である。次に阿蘇家、そして大友を征伐する予定であった。



ーーーーー


肥後国・相良晴広


人吉城の広間には楠予家の侵攻を聞き、鎧を着た重臣たちが集まっていた。


「御屋形様! 薩摩との国境を守る大口城の赤池から伝令が来ました! 楠予軍6万が国境を越えたとの事にござる!」


重臣・犬童頼安が晴広に頭を下げる。


「御屋形様、なにとぞ出陣の許可を。この頼安、最後に御屋形様のため、相良家の名を高めるような、最後の戦いをしとうございます」


晴広は唇を噛んだ。

相良家の石高は15万石。

普段の兵力ならば3000、農民兵を総動員すれば5000を優に超える兵力を集められる。


だが、今は違った。


楠予家の6万の兵が薩摩に常駐していると、商人を通して詳しい情報が肥後国に流れていた。

そのため常備兵すらもが相良家を見捨てて逃亡し、日吉城に集まった兵はわずかに200。

戦う前に負けたのだ。


晴広はもう良いと、首を振った。


「ならぬ頼安。戦えば死ぬ……余に忠義を尽くし、残ってくれた者たちを死なせたくない」


「御屋形様……」


重臣の一人が立ち上がる。


「わしは言うたであろう。島津を見習い、早く楠予家に降伏すべきだと! なのに……いざ楠予家が攻めてくれば、反対した者どもは誰一人も集まらぬとは! ……ぐぐっ!! あ奴ら……許せん……」



相良家は、戦わずに壊滅状態と言う、惨めな降伏の仕方をした。


こうして大友征伐の総大将である楠予正重は戦う事なく人吉城へと入城した。


戦う力のなくなった晴広に安堵された所領は50分の1、僅か3000石に過ぎなかった。


正重は人吉城に半月ほど留まり、相良家から離反した周辺の豪族を降伏させ、城と所領を奪っていった。




ーーーーーー

周防・大内館。


大友義鎮は大内家を訪れ、義隆に頭を下げた。


「この大友義鎮、今日よりは大内義隆様を主君と仰ぎ奉ります。

以後は大友は一兵一卒に至るまで、大内家のために働く所存にござる」


義隆は柔らかい笑みを浮かべ頷いた。


「大友義鎮、その忠誠、まことに悦ばしく思う。

これよりは大内家の家臣として、心を尽くして励むがよい。

我が庇護の下にある限り、そなたの家は大内が守る」


冷泉隆豊が義隆の言うとおりだと頷いた。


「さよう、大内家は楠予家と友好関係にある。大内家の傘下に入った今、大友家は安泰にござりますぞ」


内藤興盛が、そう上手くいくのかと唸った。


「されど楠予家は大きくなった。大隅攻めでは大内家と同じく3万の兵を動かしたと聞く。大友家を家臣に迎えた事、楠予家が異を唱えるやも知れませぬぞ」


陶隆房が鼻を鳴らし、膝を叩く。


「楠予家など、たかだか河野家の被官であった者。大内家とは格が違うわ! 大内はこの数年で、月山富田城の敗戦から立ち直った! 楠予が大友に攻めて来れば、誰が西国の主か教えてやればよいのじゃ!」


陶隆房の声が大広間に響くと、義隆は静かに手を上げて制した。


柔らかな笑みはそのままだが、声には確かな威厳が宿る。


「隆房、言葉を慎め。

楠予家は河野の被官であったとはいえ、今や西国で大きな力を持つ。

侮れば、尼子の折のように再び足をすくわれよう」


義隆はゆっくりと義鎮へ視線を戻す。


「大友義鎮。

そなたが我が庇護を求めた以上、大内はこれを受ける。

だが同時に――楠予家が敵になれば、先頭に立って戦って貰う」


義鎮は一歩後ろへ飛び、ひれ伏す。


「ははあ! この大友義鎮、御屋形様の手足となり、楠予家を滅ぼす所存! なんなりとお申し付けくだされ!」


義鎮は楠予家が大友一族と戸次一族を滅ぼすと聞き、大内家の傘下に入ると言う一大決心をした。

今の大友では楠予家には勝てない。聡明な義鎮にはそれが分かっていた。

そしてまた、大内家だけでは楠予家に対抗するには心もとない事も。


義鎮はさらに言葉を重ねる。


「御屋形様。万が一、楠予家が攻めてくれば、大内家は幕府と手を組むべきにございます。幕府と手を組み、楠予家を幕敵として討伐するのです。さすれば九州勢は大内家に味方し、兵力は5万を超えます。さらに四国を三好の5万が攻めれば、楠予家を滅ぼせましょう!」


義隆は義鎮の必死な進言を静かに聞き終えると、柔らかな笑みを浮かべ、口を開いた。


「……義鎮、その意気は買う。

だが、幕府を動かす必要はない。楠予家は攻めては来ぬ」


冷泉隆豊が息を呑み、内藤興盛がわずかに身を乗り出す。


義隆は続けた。


「それに三好家も楠予家と友好関係にある。幕敵にする事は容易な事ではあるまい」


陶隆房が否定する。


「御屋形様、なにを甘い事を言われておられる! 楠予家は必ず攻めて来ますぞ! 某が楠予家ならば大友が大内に降った今、向ける矛先は大内か三好のふたつに一つにござる」

「隆房……。もう戦の話はよい……」


隆房が床を叩く。


「御屋形様! 大内家はやがて天下を束ねる武家の家! 戦う家なのでござる! かつて天下を目指された御屋形様はどこに行かれたじゃ!!」


大内義隆はスッと立ち上がり、

『本日はここまでとする』と言い、退出するため歩きだした。


「御屋形様! お待ち下され!!」


陶隆房の悲痛な呼び声に義隆が足を止める事はなかった。


義隆の背が襖の向こうに消えると、大広間には重い沈黙が落ちた。


隆房は拳を握りしめたまま震え、冷泉隆豊は目を伏せ、内藤興盛だけが静かに息を吐いていた。


その沈黙の中で、義鎮はひれ伏した姿勢のまま、ゆっくりと顔を上げた。


(これでは楠予家には勝てぬ⋯⋯)


胸の奥で、冷たい現実が形を成す。


義鎮は静かに拳を握った。


(大内だけでは楠予に対抗できぬ。

三好……近畿を支配する、天下人の三好長慶を動かさねば勝てぬ)


その決意は、大内館の静寂の中でひそやかに、しかし確かに固まっていった。




ーーーーー

1547年11月下旬


正重率いる楠予軍6万が肥後の大友領の国境に到達した。


そこで戸次鑑連率いる大友軍2000が、楠予軍に立ちはだかった。


「我が名は戸次鑑連、楠予又衛兵殿を討ちし者だ! ここよりは大内家の領土、侵入する事は許さん!」


楠予軍の先陣3000を率いる大野虎道は眉を寄せる。


「戸次鑑連! 貴様、己の仕える主の家名を忘れたか! 大内ではなく大友であろうが!」


楠予家の兵士から一斉に笑い声が上がる。


戸次鑑連は鼻で笑う。


「違う。大友家は、大内家の家臣となった。

我らは大内義隆様の御家臣として、楠予家の侵攻をここで食い止める!」


戸次が槍を構えると、楠予家の兵たちがどよめいた。


大野が動揺する。


「大友が大内に……? そのような話は聞いておらぬぞ! 豊後の大友が、周防の大内に降ったと申すのか!」


戸次鑑連の横から一人の騎馬武者が出て来た。


「我が名は杉興運すぎおきかず、大内家の重臣である。大友義鎮殿は、確かに大内家に降られた。もはや肥後北部は大内家の御領地。楠予の兵が、ここより先へ進むは許されぬ」


楠予家の兵たちは互いに顔を見合わせる。


「……大友が大内に……? 正重様に、至急お伝えせねばならん!」


虎道は即座に判断し、声を張り上げた。


「全軍、手を出すな!

ここで戦えば、大内家との戦になる! わしは御屋形様に急ぎ報告する!」


楠予軍3000は一斉に動きを止め、大野虎道は馬首を返して全速で本陣へ駆け戻っていった。


残された楠予兵たちはざわつきながらも、誰一人として前に出ようとはしなかった。



ーーーー

楠予軍本陣。


陣幕に覆われた本陣に虎道が駆け込む。

「御屋形様、大変でござる!


本陣を守る渋柿源八が声をかける。


「大野殿、いかがされたのですか?」

「大友が大内の家臣となったそうじゃ! 大内家の重臣、杉興運と名乗る者が申しておったのじゃ!」


楠予兵馬が父を見る。


「御屋形様、これは大友家の策略。時間稼ぎではございませぬか? 大友が大内に降るなど考えられまえぬ」


だが孫次郎は即座に否定した。


「大友義鎮ならばありえます。大内の傘下に入れば、肥後と筑後を失っても大内家に逃げられる。大友は生き延びるために思い切った手に出たのでしょう」


正重は静かに床几から立ちあがる。


軍配を前方に向ける。


「大友は楠予の宿敵。

大内が大友を迎え入れたと言うならば――大内は敵じゃ。

かまわぬ、踏みつぶせ」


その言葉に、重臣たちの背筋が一斉に伸びた。


兵馬が頷き、立ち上がった。


「皆の者聞いたであろう! 大内はこれよりは敵じゃ! 一挙に九州を平定し! 周防、長門、出雲、安芸と駆けのぼるぞ! 天命は楠予にあり!」


その瞬間、本陣に控えていた藤田孫次郎、渋柿源八、河野通宣、長宗我部国親、島津貴久、玉川監物、福田頼綱、宇都宮豊綱、安芸国虎など多くの諸将が立ち上がった。


「「おおおおおっ!!!」」



ーーーーー

大内軍・戸次鑑連陣。


伝令が駆け込み、鑑連の前で膝をついた。


「申し上げます!

楠予軍先鋒・黒岩兵衛より“通告”にございます!」


鑑連が目を細める。


「申してみよ」


伝令は息を整え、声を張った。


「大友が大内家に降った以上、大内は楠予家の“敵”と見なす――よって四半刻の後、大内軍を攻撃する、との事!」


陣中がざわめいた。


戸次鑑連は眉をひそめ、静かに立ち上がる。


「……四半刻後に攻撃、か。

随分とはっきり申してくるものよ」


その横で、杉興運が蒼白になりながら声を震わせた。


「楠予家は正気か……!?

6万と号したとこらで、実際は2万ほどであろう……

大内は西国最大の大名ぞ……まさか本気で大内家と戦うつもりなのか……」


鑑連はちらりと杉を見た。その目は静かで、揺らぎがなかった。


「杉殿、逃げられよ。

ここはそれがしが食い止める」


杉が息を呑む。


鑑連は続けた。


「急ぎ周防へ戻り、

楠予家が“大内を敵と宣した”とお伝え下され。

大友も大内も、もはや退く道はござらぬ」


鑑連の声は静かだったが、その背に立つ2000の兵は、その言葉だけで覚悟を決めた。


杉が去った後、戸次軍2000は衆寡敵せず、敗れた。


しかし戦死者は僅か30人。

この敗戦は戸次鑑連と大友家にとって、大内家を引きずり出すための、薪餌であった。


正重は追撃しなかった。楠予軍はいまや王者の軍の威風を放っていた。

無理な深追いはせず、戸次軍の退却を許したのだ。


それを知ってか知らずか、鑑連はまるで誘うように、堂々と、ゆっくりと兵を退かせた。


そのふてぶてしさに、楠予家の中隊長が追撃しようとしたが、大野虎道が手を上げて制した。


「追うな! あれほど堂々とした退きぶりは並みの将には出来ん。武士たるものかくありたいものよ!」


虎道の言葉に、将兵は頷いた。


戸次軍の足を止めれば、戸次軍を壊滅させられる。だが同じくらい楠予軍も犠牲を強いられるだろうと将兵は感じていた。


楠予家では、人の命は軽くない。

「戦に負けてもよい。

だが死ぬな。

命さえあれば、いくらでもやり直せる」


それが次郎の教えであり、楠予家の根本的思想であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ