116 都の姫君
1543年 12月初旬。
友之丞は父・正重の命を受け、半年ぶりに京の都にやって来た。京の冬は、伊予とは違う冷たさがあると感じた。
友之丞は肩をすぼめながら、武家伝奏・勧修寺尹豊の屋敷へと向かう。
勧修寺尹豊は今年の春に楠予家が官位を賜った折、細川家の紹介で一度だけ顔を合わせた相手であり、友之丞にとって京で頼れる“唯一の公式な窓口”だった。
門番に名乗りを上げると、しばしの後に奥へ通された。
「……久しいな、楠予殿。
伊予の守の任官の折以来であろう。
今日は、いかなる用向きで参られた」
尹豊の声は柔らかいが、その奥に“朝廷の距離感”が漂っている。
「恐れながら――
我が父、楠予家当主の命にて、従兄弟の花嫁となる、やんごとなき御血筋の姫君を探しに参りました。従兄弟は我が父の妹の子で、父系は南朝の小倉宮家にございます」
尹豊の扇が、ぴたりと止まった。
「……南朝の御方、とな。遠国でお血筋が続いておじゃったか……」
「はっ。既に世間では忘れ去られた血筋。名家として存続させるためには、しかるべき姫君を迎え入れ、姫のお血筋に頼る他ないと……」
「……楠予殿、そのような話は、我ら武家伝奏の職掌ではない」
冷たい言葉だが、
それは“公家としての正しい答え”でもあった。
「ならば、せめてご助言を頂けませぬか。もちろんしかるべきお礼は致しまする」
「ふむ……」
尹豊はしばし友之丞を見つめた。
その視線は柔らかいようでいて、どこか探るようでもある。
「……よろしい。では一つ伺おう。楠予家は、いかほどの御身分の姫君をお望みであそばすのか」
「はっ。叶いますなら帝の血を引く尊きお方。降嫁された皇女の姫君を希望いたしまする」
友之丞の言葉に、尹豊の扇がわずかに揺れた。
その揺れは、驚きとも、呆れともつかぬ微妙な色を帯びている。
「……帝の御血を、とな」
尹豊はゆっくりと扇を閉じ、まるで言葉を選ぶように、静かに口を開いた。
「楠予殿。そなたの望みは立派なれど――今の皇室に“降嫁された皇女の姫君”などひとりもおられぬのだ」
友之丞は息を呑んだ。尹豊は続ける。
「平安の御世より、皇女が皇族に嫁ぐ事はあれども、降嫁される事は稀。皇子も皇女も、いずれは御所を離れ、出家されるのが常なのでおじゃる」
尹豊はそこで一度言葉を切り、扇でそっと口元を隠した。
「……もっとも、これは“古き理”の話にてな」
友之丞が顔を上げる。
尹豊は声を落とし、まるで秘密を漏らすように続けた。
「今の皇室が出家を選ばれるのは、政治のためではなく、金のためでおじゃる」
友之丞の目がわずかに揺れた。尹豊は淡々と、しかしどこか哀れむような口調で言う。
「今の朝廷では嫁入りの費用も、宮家を維持する費用も、賄えぬ。ゆえに皇女は尼となり、皇子もまた剃髪される。それが今の皇統の姿なのでおじゃる」
その言葉は、“皇族の血を求める”という友之丞の望みを静かに、しかし確実に打ち砕いた。
友之丞は拳を握りしめた。
「……では、帝の御血を引く姫君は、どこにも……」
尹豊は首を横に振った。
「“皇女”は幾人もおわす。されど“皇女”を望むなどは恐れ多い話。じゃが――」
扇が、かすかに持ち上がる。
「皇族の傍流まで目を向けるならば、話はまったく別でおじゃる」
友之丞の目がわずかに開く。
尹豊は続けた。
「例えば――
楠予家に降った土佐一条家の当主・房基殿。
あの御方の母君は、傍流とは申せど伏見宮家の姫君にてな」
扇の先が、静かに友之丞の方へ向けられる。
「すなわち、皇族の血が“まったく降らぬ”わけではない。
宮家の事情と、そなたの誠意次第では……
道が開けぬとも限らぬ」
尹豊の言葉に、友之丞の胸が一気に熱くなった。
「伏見宮家! では、そこに皇室の姫君がおわすのですね。
ならば、早速――伏見宮家を訪ねてみます!」
勢いよく立ち上がろうとする友之丞。
だが――
「待ちゃれ!」
尹豊の扇が、鋭く空気を切った。
その声音には、先ほどまでの柔らかさが消えている。
「楠予殿、宮家を“武家が直接訪ねる”など、無礼の極みにてあるぞ。
ましてや縁談の話となれば、宮家の体面を損なうにも程があると言うもの」
友之丞は思わず動きを止めた。
尹豊は深く息をつき、扇を閉じて静かに続ける。
「伏見宮家に姫君がおわすのは事実。
だが、宮家は皇族。
武家が門を叩けば、それだけで話は潰れるのじゃ」
友之丞の背筋に冷たい汗が流れた。
尹豊は、今度は諭すような声で言う。
「ゆえに――三条家に頼むがよい。
三条殿は伏見宮家と婚戚。
あの家ならば、宮家の体面を保ちつつ、そなたの意を伝えることができよう」
そして、扇の先で軽く友之丞を指す。
「楠予殿。宮家との縁は、急いてはならぬぞよ。
礼を尽くし、筋を通すことこそ肝要。
それを誤れば、二度と道は開けませぬぞ」
友之丞は深く頭を下げた。
「……尹豊殿、ご教授、痛み入ります」
尹豊は静かに頷いた。
「行くべきは伏見宮家ではない。
まずは三条家。
そこからが、そなたの道でおじゃる」
翌日、友之丞は尹豊に三百貫文の礼金を渡し、代わりに三条家への紹介状を書いて貰った。
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伏見宮家嫡男・邦輔視点
冬の陽は弱く、伏見の山影は早くも薄闇を帯びていた。
父・貞敦親王の御所は、かつての宮家の威光を思わせる造りながら、手入れの行き届かぬ庭木が、今の家の困窮を静かに物語っている。
その日、伏見宮家の嫡男である邦輔第一王子は、書院で古い文書を繙いていた。
宮家の財政をどう立て直すか――若輩ながら、日々その思案に沈むのが常となっていた。
そこへ、侍従が慌ただしく駆け込んだ。
「若宮様、三条公頼様が……武士をお連れにて参上されております」
「伯父上が武士と……?」
邦輔王子は思わず顔を上げた。
伯父・三条公頼は、娘を甲斐の武田家に嫁がせたことで知られている。
公家の中では比較的裕福な暮らしをしており、その財の多くが“縁組”によってもたらされたのだと、宮中ではよく囁かれていた。
――金で娘を売るような御仁、と。邦輔王子は心の奥で密かに軽蔑していた。
「……通せ」
声がわずかに硬くなったのを、邦輔王子は感じた。
やがて几帳の向こうから足音が近づき、三条公頼が姿を現した。
その後ろには、質素ながらも気迫を秘めた武士が控えている。
伯父は深く頭を下げた。
「若宮様、突然の参上、まことに恐れ入ります」
邦輔王子は伯父の顔を見つめながら、胸の内で静かに息を整えた。
――伯父上が武士を連れて来るなど、
尋常のことではない。
さて、何を持って参ったのか。
「伯父上。その後ろの方は……?」
伯父は扇を閉じ、慎重に言葉を選んだ。
「伊予の楠予家の御子息で、名は友之丞。伊予の守の命で、南朝の血を引く、従兄弟の嫁を探しに来たそうにございます。もはや南朝は名家と呼べぬ家、血を繋ぐには、北朝の尊き血を入れるしか道はないと申しております」
胸がわずかにざわめいた。
南朝――かつて敵対した皇統。
百年前の戦を最後に南朝の血筋は聞かなくなったと聞くが、滅びてはいなかったのか……。
伯父の言葉は続く。
「楠予家は、宮家の再興に力を貸す覚悟があると申しております。若宮様、この縁談、宮家にとっても悪しき話ではございませぬ」
伯父上は、何処の誰とも分からぬ者に宮家の娘をやれぬ事も、理解できぬのか。
邦輔王子は友之丞を見た。
武士らしい鋭さの奥に、どこか必死な色が宿っている。
「……そなた、友之丞と申したか?」
友之丞は深く膝をつき、頭を垂れた。
「はっ! 楠予家の四男、友之丞にございます。伏見宮家の姫君に、我が従兄弟との御縁を賜りたく、参上仕りました」
その声音には、作り物ではない誠意があった。
邦輔王子は静かに伯父へ目を向けた。
「伯父上。父上には、すでにお話をしましたか?」
「はい。よき縁とのお言葉を頂きました。楠予家は、この婚礼に二万貫文を出すとの事にございます」
父上が認めた?
それに二万貫文!?
邦輔王子は息を呑んだ。
宮家は懐事情はよくない。
女房衆が産んだ妹たちなど、皆すでに出家の話が進んでいる。
宮家の財政では、妹たちの嫁入り費用を整える余裕がないのだ。
ゆえに出家は“仕方のない選択”だった。
邦輔王子は驚きで身体を仰け反った。
「二万……。伯父上、さすがにそれは冗談でありましょう?」
三条は笑う。
「いえ、真にございます。楠予家はこの話がまとまり次第に一万貫を。婚礼後にさらに一万貫を納めると申しております」
待て待て待て!
上級貴族でも年間の収入は300〜500貫文だぞ!
2万貫文と言えばその数十倍!
父上にも、子供たちにも良い暮らしをさせてやれる! いや、でもそれでは伯父上と同じ……。
「伯父上、よき話とは思います。ですが……娘を武家に嫁がせるとなると……」
三条公頼は頭を振る。
「武家ではございませぬ。武家に庇護されている南朝の血を引く若者にございます。若宮、これは若宮の従兄弟のためでもありますので、どうかご承諾下さい」
「従兄弟のため?」
「はい。土佐の一条房基殿は若宮の父・貞敦親王様の妹君の御子息。若宮の従兄弟にございます。一条殿は今年、楠予家の家臣になったばかりでございます。ここで縁談を断られては立つ瀬がございますまい」
邦輔王子は目を見開いた。
そうか、土佐には従兄弟がいた……。
暫しの沈黙ののち、静かに口を開く。
「……分かりました。父上が認め、従兄弟のためにもなるのならば、娘を嫁がせましょう」
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慶姫視点
邦輔王子の第一王女・慶女王は、齢十五になる。
見目麗しき姫君だが、生母が女房衆のひとりであったため、いずれは出家する定めにあった。
友之丞が伏見宮家を訪れた日の夜、慶姫は几帳の内で、侍女に髪を梳かせていた。
冬の夜気は冷たく、行灯の灯りがわずかに揺れている。
「慶いるか? 入るぞ」
父の声が、襖の向こうから響いた。
慶姫は思わず振り返った。
夜に父が訪れるなど、これまで一度もなかった。
「御父上様……?」
几帳が静かに揺れ、邦輔王子が姿を現した。
昼の会談の疲れが残っていたが、邦輔王子の顔には決意の色が宿っていた。
「慶。少し話がある」
名を呼ばれた瞬間、慶姫の胸がかすかに震えた。
父が“姫”ではなく“慶”と呼ぶのは、幼い頃に庭で手を引かれた時以来だった。
「……はい」
邦輔王子は娘の前に座り、しばし言葉を探すように沈黙し、行灯の灯りが邦輔王子の横顔に影を落とした。
慶姫はその様子に不安を覚えた。
何か良くない事でも起きたのかしら?
「慶。
そなたの出家の件だが……」
慶姫は息を呑んだ。
ついに日取りが決まったのだろうか。
心のどこかで覚悟していたはずなのに、胸が痛む。
しかし、父の次の言葉はまったく違うものだった。
「取り止める。……縁談が決まった」
「え……?」
慶姫は目を見開いた。
邦輔王子は静かに続けた。
「伊予の楠予家より、一族の若者にそなたを娶りたいとの申し出があった。父上もお認めになった。宮家のためにも、悪い話ではないとな」
慶姫の胸に、驚きと戸惑いと、言葉にならぬ感情が渦巻いた。
出家するはずだった。尼となり、静かに生を終えるはずだった。
それが――
私が嫁ぐ?
「……わたくしが、嫁ぐのですか。ですが宮家には……その……費用が……」
私がかすれた声で問うと、父はゆっくりと頷いた。
「慶、心配することはない。費えはすべて楠予家が負うという。
宮家にとっても悪くない、いや重要な縁組なのだ……」
そこで一度、父は言葉を切り、私をまっすぐ見つめた。
「だが――そなたが嫌なら、断ってもよい」
その言葉に、慶姫の胸が強く揺れた。
父が、わたしの意思を問うている。
それは、これまで一度もなかったことだった。
「……相手の方は、どのような御方なのでしょうか」
邦輔王子は静かに目を細めた。
「相手は南朝の末裔、小倉宮家の子孫だ」
え……?
「南朝……!?」
南朝は100年も昔に滅んだと聞かされた。その後も南朝の末裔を自称する人たちがいたけれど、皆偽物だと……。
「……真に、小倉宮家の末裔のお方なのでしょうか?」
「楠予家が保護し、伊予の地でひっそりと血を繋いで来たそうだ」
「……」
邦輔王子は静かに息を吐いた。
「楠予家が虚言を弄する理由はあるまい。
そなたのような姫を望むなら、まずは楠予家の嫡男の嫁にと願い出るところだ。それをあえて、小倉宮家の嫁にと望んでおる――これは楠予家が、本物と信じておる証拠であろう」
慶姫は、胸の奥で何かが静かに動き出すのを感じた。
出家ではなく、嫁ぐという道。
父親は断っても良いと言うが、慶姫が断れる筈がなかった。
「宮家のためになるのなら、私は嫁ぎとうございます」
邦輔王子は慶姫に返事に胸をなで下ろし、ホッとした表情で言う。
「そうか……。
慶、すまぬな。伊予は遠い田舎ではあるが、大内家にも劣らぬほどの富を蓄えた家だと思う。暮らしに困ることはあるまい」
大内家ならば私でも知っている。中国や朝鮮との交易で富を得て、日本でも一、二を争う有名な武家のお家だ。
「……大内家よりも?」
父上は何だか、申し訳無さそうな顔をされた。
「実は……この婚礼がなった暁には、宮家は楠予家より縁組の礼として二万貫を受け取る事になっておるのだ」
え、ちょっと待って?
二万貫!?
宮家の収入がいくらかは詳しくは知らない。
でも、きっと何十年分にもなる大金だわ。
朝廷が費用の工面ができず、遅れることが度々ある御大典――帝の即位式の費用が三千貫もかかるのが原因だと母様に聞いたことがある。
慶姫がぽかりと口を開け、呟いた。
「二万貫……」
父は続けた。
「それだけではない。そなた、摂関家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に行った折、“透き通る器の金魚鉢”を見たことがないか?
あれは伊予の楠予家が世に出した品なのだ」
「まあ……」
透き通った金魚鉢。
九条家の晴子様に見せていただいたことがある。
あの不思議な器が、伊予で作られていたものだったなんて知らなかった……。
父はさらに言葉を重ねた。
「まだあるぞ。最近宮中で評判の“金平糖”と呼ばれる砂糖菓子。
あれも楠予家で作られていると、三条の伯父上が申しておった」
「え……」
金平糖――。
近衛家の玉栄様が、歌会でお友達に一つづつ振る舞われたとても貴重なお菓子。あの折、私も頂いた。
白くて星のような、不思議な形でとても甘かった。
あれも楠予家で作られていたのね……。
父は感嘆したように息をついた。
「楠予家は、まことに恐ろしい家よ。
そなたの賄料――衣装や化粧、女房たちの給金に充てる費えも、年に五百貫文を出すと申しておった」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
五百貫文――。
宮家では到底用意できない額。
母様がいつも、衣装の布地ひとつ選ぶにも苦心していたのを思い出す。
「……そんな、大金を……私のために……?」
声が震えた。
驚きだけではない。
信じられないような、申し訳なさと、どこか温かいものが入り混じっていた。
父は静かに頷いた。
「そうだ。そなたを迎えるにあたり、楠予家は一切惜しまぬと申しておる。伯父上のように娘を売るようで気が引けるが、これほどの家ならば慶にも悪い話ではないと思ったのだ」
その言葉に、父がどれほど私を案じてくれているかが滲んでいた。
わたくしのために、そこまで……。
「……父上」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
父はどこか優しく目を細めた。
「慶は、宮家の娘である前に、わしの娘だ。誰であろうと粗末には扱わせぬ」
こうして私の嫁入りは決まった。
だがこの時の私は、
この縁組がやがて伏見宮家を窮地に追いやることになるとは、想像もしていなかった。




