山城屋
三堀屋に戻ったのはまだ夕刻と言うには早い時間だった。
玄関に入る前に隣の山城屋を見ると、表門に関札が掛かっている。
陣幕が張られていないところを見ると、大名本人ではないということだ。
「紙の関札……ということはあやつも来ているのか?」
久秀は小さく呟いて三堀屋の玄関に入った。
「あれぇ、おかえりなさいまし。今日は早いのだねぇ」
長逗留ともなると仲居の口調も随分と馴れ馴れしい。
「ああ、今夜は道場の先輩と飲む約束があってね。早めに風呂に入りたいのだが」
「風呂ならいつでも入れるよ。ここで飲むのかね?」
「いや、どこか良いところに連れて行ってくれるそうだよ。迎えに来ると言っていたから、もし来たら取次ぎを頼むね」
ニコッと笑って去って行く仲居を見ながら、伝言は無いのだろうかと心配になる。
部屋に戻ると湯の支度をしてさっさと湯殿に向かった。
途中で店の主人が待っている。
久秀は『来た』と思ったが表情は変えない。
「お早いお戻りで」
「ああ、随分汗をかいてしまったんだ。とにかく風呂に入りたくて急いで戻ったのさ」
「それは好都合でございました。本日五つにお約束通りと言付かっております」
「ああそうか。行けば分かるのかね?」
「はい、三良坂様のお名前で整っております」
「ふぅん……そういえば関札が出ていたがどなたが?」
「山名正晴様のご名代で富士屋の大番頭が来ているそうですよ。富士屋又造という男なのですが、それは威張りくさって滑稽ですな。ははは!」
「へぇ、そいつは見ものだな」
正晴の名を出し、富士屋も本名を名乗っていることに驚いた久秀だったが、何食わぬ顔で風呂に向かう。
ザッと汗を洗い流し、湯にどっぷりと浸かる。
檜の天井に溜まった水滴を観ながら考えた。
三番といえど山城屋は本陣だ。
三沢長政でさえ、上の間は使わず書院棟の下の間を使っていたのに、魚屋の大番頭風情が泊まり、三河の商人風情が宴席を設けるとは。
「とはいえ流石に別館だろうしな。しかし札まで掛けたのだから、他の客はいないはずだ」
本陣は例え名代といえど、先触れがあれば他家の宿泊は断る決まりだ。
「なるほど。他の客がいないということは密談に最適だよなぁ。でも俺たちはなぜ入れるんだろう? あっ……やられた」
今回の商談相手である三良坂弥右衛門は、久秀たち剣客を自分の護衛に仕立てたのだろう。
実際に何かあっても護衛として使うつもりなのだ。
「ちっ! 狸親父が」
こうなったらお市達の花代も全部ツケてやろうと思いながら、湯を出た久秀はさっさと体を拭って咲良の仕立てた着物を身につけた。
部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、パタパタと足音がして来客だと言う。
「ああ、わかった。すぐに行くと伝えてくれ」
時刻はまだ暮れ六つになったばかりだ。
愛刀を腰に佩きながら『一刻近くは宇随さんと飲めるな』と思うと笑顔が浮かぶ。
「お待たせしました」
「さあ行くか」
行くといっても歩いても数十歩という距離だ。
山城屋の門を潜ると、若い使用人が駆けてくる。
「ご案内いたします」
先に立って歩き出す使用人の手には行灯がある。
玉砂利は敷き詰められた正面玄関を左にみながら、別館へと案内された。
何度か泊ったことがある久秀は、過ぎし日の三沢長政を思った。
格式ばったことを嫌った長政が、なぜここ島田宿だけは山城屋を使っていたのだろうと疑問が湧く。
通された部屋は裏庭に面した別館の二階で、八畳と六畳の続き間だった。
隙なく部屋を改めて、隠れている者がいないことを確認した宇随は、廊下に控えている使用人を呼んだ。
「後で宇随を訪ねて芸者が来るから、ここに案内してくれ。それと酒と適当に見繕ってくれ」
「はい、畏まりました」
八畳間と襖で仕切られた隣を覗くと、すでに宴席の準備が整っている。
二つずつの座布団が、黒塗りの膳を挟んで向かい合っていた。
「四人か……」
久秀がそう呟くと宇随が口を開いた。
「なあ、俺にも言えんことか?」
「二つのうちのひとつは言えんのです。こいつを鳴らしちまいましたから」
そう言って久秀は刀の鍔を叩いてみせた。
「ああ、それなら聞くまい。言えるひとつは何だ?」
「俺は元主君である山名将全様のご次男、正晴様のお命を狙っております」
「それは三沢様の仇討ちか?」
頷いた久秀は声を落としてあの日の出来事を話した。
「では息子というのは三沢様の?」
「はい、そして妻というのは仮初で、新之助様の専属侍女ですよ」
「あれほど惚れているのに仮初とは……」
「ええ、惚れているからこそ手は出せません。正晴に付き従っている奴がなかなかの手練れで、上手くいって三本に日本。下手を打てば一本とるのがやっと」
「それほどか! 名は?」
「五十嵐喜之助です」
「五十嵐? あの五十嵐か!」
「ええ、人斬り喜之助です」
「師の仇ではないか! なぜそれを早く言わん! それなら俺にとっても仇だろう」
「宇随殿は次期道場主ではございませんか。それにお市さんという人もいる。俺は根無し草だからいいが、あなたはそうはいきません」
宇随がギュッと手を握った。
「あの日の屈辱を忘れたことは無い」
宇随の顔が苦痛で歪んだ。




