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ヨリデュインの人魚の歌  作者: 猫洞 文月
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「魔物の海を見たいかえ」

 あのとき浜辺で出会った老婆である。

「夜の海は人の子のものではない。それは魔の棲むところ。さあ、おいで。魔のものに交わろうではないか。おぬしも魔物の子、居心地が悪かろうはずはないて」

 くっくっと笑って老婆はノルスの腕を骨張った手で驚くほどの力で握ってきた。

「待っておばあちゃん、彼はまだ……」

「まだ、なにかえ」

「知らないの、わたし達のことを。だから……」

「知らんのか、それはええ、それはええ」月明かりの下、老婆は目が皺に覆い尽くされるほどくしゃくしゃと笑った。「なにも知らん船乗りの魂も受け入れるわしらじゃ。これほど美しい魔族の子を喜ばぬわけがない」

 はじめて、ノルスはここにいてはいけないということに気がついた。夜の海は――。あれほど危険だ、近づくなと言われていた。逃げなければ。

 後ろを振りかえろうとするノルスの頬に今度は柔らかな手がかかった。

「この子があたしたちのものになるの」

「かわいい」

「あたしにも触らせて」

 くすくす笑う声は、若い女たちのものだった。いつの間にこんな近くに来たのだろう、周りは宙を泳ぐ人魚たちにすっかり囲まれていた。

「ほら見てこの亜麻色の髪、緑の瞳。なんて綺麗なの」

「大丈夫、苦しいのは最初だけだから。そこを過ぎれば楽になるの、ずっと永遠に」

 頬にかかった手がノルスの顔を横に向かせ、潮の香りのする柔らかな髪が顔に触れたと思うと彼の頬に人魚が口づけた。どこかで見た顔もある、と、ぼんやり考えて気がついた。彼女らは陸でウィージュと一緒にいた町娘たちだ。なんてことだ、みんな人魚だったのか。真珠酒か魔女の魔法で一時的に人間になっていたということか。

 だめだ、逃げよう。ウィージュはやはり魔物だったのだ。こんなところにいれば死ぬ。夜の海に引きずりこまれてしまうと、ノルスは足を動かそうとした。

 ところが、その足はいきなり支えを失って水に沈んでいった。ここはもう脚の届くところではない、深い海の中なのだ。満潮のときは海じゃなかったところまで海になるとはこういうことだったのだろうか。 

 あっという間に身体が水に沈み、頭の上まで海につかる。ぶくぶくと息をはいたあとは吸い込む空気がない。なんとか水をかこうともがいて、ごぼっと水を飲んだ。塩辛い水がつんと鼻の奥をつく。

 さっきまでは楽に泳げたはずだった。真珠酒の効果が切れてきたのだろうか。それとも、そもそも海のものである真珠酒の魔法などは海を支配する人魚の前には力を持たないのだろうか。

 必死で手で水をかき、なんとか水面に顔を出して息を吸う。その周りを人魚たちがさざめくように笑いながらまとわりつく。幾本もの腕が身体に絡みつき、なめらかな指が顔を撫でる。

「一気に楽になってしまえばいいのに」

「苦しまないようにしてあげる。あたしたちの腕にいらっしゃい。ほら、力を抜いて」

 眠い。頭がぼうっとする感覚が襲ってくる。こんな命の危機に瀕しているときに自制心を失えば本当に死ぬ。

 おかで死んだというウィージュの母、それは本当に無償の愛のためだったのだろうか、それとも今のようにあらがいようのない力に翻弄されてのことだったのか。人魚が陸で生きられないように人間は海の底では生きていけない。自分も死ぬのだろうか、こんな風に。

 海の波が虹色に逆巻く。光の洪水が意識の無くなりそうな視界を覆いつくす。ごぼっとまた水を飲む。咽喉のどに入って苦しい。咳き込めばまた、入ってくるのは水である。 もうだめなのかと思う。委ねてしまいたい、官能的な人魚たちのかいなに、この身のすべても魂も。そして永遠に海の底に魂を彷徨さまよわせることになってもいい。このまま楽になるのなら――。

「だめ! 待って! 彼はまだ生きているの!」

 きっぱりとした声が響く。あれはウィージュの声。すでに視界はくぐもった水に閉ざされてはっきりしない。その声さえもどこか遠い別の世界のもののようにぼやけて聞こえる。生きている、そんなことにいかほどの価値があるというのだろう。

 また人魚たちが笑う。

「大丈夫。はじめはみんな命あるもの。あたし達の手に落ちれば苦しみのない世界に行ける。もうなにも恐れなくてすむようになるのよ。さあ、早く」

 そう、苦しみのない世界。せっかく今までの息苦しさを、忘れかけてきている。このまま楽になれるのなら、止め立てされる必要などないのではないだろうか。

「ノルス!」

 いきなり顔を両手で挟まれた。唇を柔らかいものがそっと包む。目を開けると少女の閉じた瞳が目の前にあった。同時に頭の中に、天上のものかと思われる美しい旋律が流れ込んでくる。

――苦しくない……。

 唇を離したウィージュは、水中を舞うように泳ぎながらノルスの顔からすこし離れてじっと見つめ返す。

「ウィージュ、ぼくは……」

「掟を破ったわ」

「え……?」

「そう、おまえは掟を破った。死の手前までやってきた者を押し戻すとは」

 腰から下にひれをつけた老婆がいつのまにかやってきていた。こくりとウィージュがうなずく。

「わかってる。きまり通り、あたしは明日には消えていく。でも、すこしだけ待って。朝まではまだ、この形を保っていられるんでしょう?」

「なんて馬鹿なことをしたの、ウィージュ。人間の子に生まれたって、あなたはあたし達の仲間だと思っていたのに」

「人間を本気で愛することなんてできるわけないって、あなたならわかってると思ってた」

 周囲を泳ぐ人魚たちが、ウィージュを囲む。その口調は怒りよりも嘆きのように聞こえた。

「お待ち。まだ思い直す余地はある。まだこの子は海の中、わしらの手の及ぶところにおる」

 老婆が彼に向かって皺だらけの手を伸ばしてくる。その手を遮ってウィージュはノルスをかばうように抱きかかえた。

「いいえ。ノルスはこんなところに来るはずの人じゃなかったの。あたしが悪かったのよ。でも、もう一度だけ、あたしをおかに戻らせて」

「愚かな……」

 怒りと悲しみの混じった老婆の顔がぼやけていく。ごめんね、おばあちゃん、と言った声が聞こえたような気がして、そのまま意識が薄れた。


 心地よい潮騒が耳を撫でていく。目を開くと心配そうにのぞき込むウィージュの碧い瞳と目が合った。穏やかな水をたたえる夜明け前の海の色。

「無事だったんだね」

 元気なままのウィージュの顔。ということは、あれは夢だったのかもしれない。そう思ってノルスは笑みを見せた。ウィージュもまたこたえて微笑む。すこし頭を動かそうとして、ふっくらとした膝に頭をもたせて浜辺に横たわっていることに気がついた。

「人魚の歌のこと、もっと早く教えてあげないといけなかったわ」

「人魚の歌……」

 頭の中に、今も鮮烈にあの歌は残っている。あやなす虹色の水、潮の香り。それまで苦しめていた海の水が急に親しみをもって温かく彼を包んだあの瞬間。はるか昔、生まれる前にそんな場所にいたような気がする。

「ノルヴァロス」

 額にかかる髪をなでながらウィージュがそっとつぶやいた。ノルスの、ここでは言っていなかった本当の名前を。

「どうしてそれを……」

 ふふっと笑ってウィージュは柔らかい指をノルスの唇に当てた。黙ってね、というように。

「魔族は人の言わないことがわかるし、人の言うことがわからない。あなたがどこかの国の大切なご身分で、本当は恋人がいるとか。でも、そんなことはあたしには関係ない。あなたが本気であたしのことを愛しているかどうかだけ」

「恋人ってわけじゃないよ」

 すこし憮然としてこたえた。たしかに親しくしている少女はいる。けれど、今のウィージュに対する気持ちとはまるでちがう。聞きたくないというようにウィージュは頭をふった。鳶色の髪がふわりと揺れる。西の海にまん丸な月が沈もうとしている。

「人魚の歌を忘れないで。忘れないでいられる限り、あなたはどんな水にも溺れない。でも、忘れたらほかの人間と同じよ」

「君がくれたんだね。掟を破ってまで……」

 身を起こしてそっとウィージュの髪をなでた。はじめて触れる柔らかな髪。

「あたしのことは忘れても人魚の歌は忘れちゃだめよ」

「忘れないよ、決して。ね、ウィージュ。なんとかならないの? 君の運命は、もう変えることはできないんだろうか」

「馬鹿ね。魔物との恋なんてなんて夢のなかのことと同じなのに」

 生まれてこのかた、幸せしか知らなかった人みたいに少女は笑う。

「もし夢の中だったとしても、この気持ちは本当だから」

 見つめるウィージュの顔がすこし曇る。伏せた睫毛に宿る光は、海の滴ではなく涙だろうか。

「忘れた方がいいわ。悲しくならない?」

「ウィージュ」

 座ったまま、ノルスはそっとウィージュの身体を抱き寄せる。はじめて出会ったときから惹かれていたさらりとした潮の香りが腕の中にある。訊きたかったけれど真実を知るのが怖かった。でも、知らずにいつの間にかいなくなってしまう方が嫌だ。

「消えると言ってたのはどういうこと」

「大丈夫、消えるわけじゃない。海の泡になって毎日また新しく生まれ変わってくるの。楽しいでしょ? 毎日、生まれたてなの。なにを見ても新しくて面白くて、きっと幸せなんだと思うわ」

 腕の中でウィージュがノルスの肩に手をかける。彼女の声はいつも快活で優しくて――。

「君とずっと一緒にいたい。毎日生まれ変わってくる君と」

「馬鹿ね」

 ぎゅっとウィージュが彼の肩に顔を押しつけた。その肩が濡れるのは、おそらく海水で濡れたためだけではないだろう。

「ウィージュ」

 もう少女は逃げない。そうっと、壊れものを扱うようにノルスはウィージュの顔を両手で挟み、薄紅色の唇に口づけをした。

「返せないんだろうか。君がくれた人魚の歌を。そうしたら君はまた元に戻れないの?」

 答えたのはまた笑い声だった。

「そんな話は聞いたことがないわ」

「ぼくが――」

 自分の命を救うためにウィージュは自分の存在をなげうってくれた。自分が人魚たちに絡め取られてウディロンに連れて行かれてしまっていたら、ウィージュの運命はこうはならなかったのだろうか。

「もう忘れて」

 はじける光の泡のように笑ってウィージュは、ノルスの首に両腕を回して今度は自分から唇を寄せてきた。頭の中に再びあの天上の旋律が流れる。覚えているということは、まだ人魚の歌は自分の中にある。これを返すことができさえすればウィージュは助かるんだろうか。ありったけの想いを込めて口づけを返した。

 黙っているのに笑い声が、銀の鈴が鳴るように響く。そう、この笑い声が好きだったんだ。


 目が覚めると浜辺にひとり横たわっていた。髪も顔も服も塩と砂にまみれていたがもう濡れてはいない。ウィージュはどこにもいない。もちろん海に浮かんだウディロンも。

 夢であればいいと願った。波打ち際からかなり離れた浜辺に、昨日脱ぎ捨てたマントと上掛けとベルトが砂にまみれて転がっていた。昨夜にはここまでが海だった。今は白い浜辺が広く続いている。海ではなかったところが海になり、陸に迫ってきていたのだ。

 潮の香りはまだ心地よく感じる。寄せては返す波のいただきには無数の白い泡ができては消えていく。

 海の泡になるとウィージュは言った。本当にそんなことがあるのだろうか、いくら魔族とはいえ、昨日まではっきりとした人間の形を保っていたあの少女が。薄紅色の唇、そのふっくらと柔らかい感触を今でもはっきりと覚えている。弾力のある腕もその身体を抱いたときの甘さも。

 海へ二、三歩踏み込んで、泡を掌ですくってみた。柔らかく温かい水の感触はしっくりと馴染んだもののように親しい。

「ずっと君を愛している。決して忘れないよ、ウィージュ」

 すくった泡を唇につけてつぶやいた。輝く波の光が、ひるがえる少女の髪のようにやさしく視界を慰め、掌の泡は真珠酒のすっと溶けていく雪の味がした。鈴のような笑い声が聞こえる。確かにウィージュは泡になって生まれてきているのだ。そして自分の中には確実に人魚の歌を宿しているのにもノルスは気がついた。この歌そのものが、自分の愛した人魚の魂であることも。


 水平線の反対側の空へ夜が明けめている。金色の光に染まっていく海を、いつまでも見つめていた。もしかしたら、ウィージュはまた笑いながら現れないだろうか。ちょっとふざけただけなの、と言いながら。彼の腕を取って茶目っ気のある瞳で見あげて、抱きしめようとすればまた逃げる、そんなことをしに戻ってこないだろうか。

 波止場の方から人声が聞こえ始めてきた。早朝の商船や漁船の出航準備が始まったのだろう。いつまでもこんなところにいては怪しまれるかもしれない。

 ひとつため息をついてノルスは、宿の方へ歩き出した。幾度も浜辺を振りかえりながら。

 坂道を登って通りかかった海猫亭はまだ眠っている、あれは全部一人で見た夢で、ウィージュはこの宿の中でゆったりとまどろんではいないだろうか。あの幸せな微笑みは、はじける光のような笑い声は、もう手の届かないところに行ってしまったのだろうか、本当に。

 伯父たちに会うのは妙に気恥ずかしかった。気づかれないうちにベッドに入ってしまおうと計画していたのだが、ドアを開けた途端、カルストルにそっと呼び止められた。

「ノルスかい? 帰ってこないとは思わなかったよ」

「……すみません」

 ふう、とカルストルは布団から出した顔を緩めた。いつになく疲れの色が浮かんでいる。もしかしたら自分の不在を心配して、夜中に探してくれたのかもしれない。今日は帰郷の日だというのに、余計な心労をかけさせて悪いことをしたと心が痛む。

「めくるめく夜を過ごしたのかい」

「ええ」

 伯父の誤解を解く気にもなれなくて、ノルスはうなずいておくことにした。思ったよりもカルストルは驚いた顔を見せた。

「そう」

「死ぬかと思いました」

「それはそれは……」

 伯父はそれ以上は言わなかった。父母に、彼は告げるのだろうか。それとも言わないでおいてくれるだろうか。普段なら気がかりになるところだったが、今はそんなこともどうでもいいような気持ちがした。

「まだ起きるにはちょっと早い。忙しくなるからすこし寝たら」

「そうですね」

 踏み込まないでいてくれるのは、かえって嬉しかった。

 日が昇れば、ミューレイノ河を遡って海から遠く離れた故国へ帰る。海のこと、ウディロンのこと、人魚たちの記憶も、他の記憶と同様にいつか薄れて鮮烈に覚えていられなくなってしまうのだろうか。忘れたくない、彼のためにあれほどの思いを捧げてくれたウィージュのことだけは。

「ねえ伯父さん」

 開け放たれたままの窓から外を見ながらノルスはそっとたずねた。伯父は黙っているが、静かに耳を傾けてくれている。

「もしいつか、たくさんの恋をしたとしたら、この人でなければと思うような人が見つかったら、最初の恋は忘れてしまうんでしょうか」

「そうだね」

 カルストルは起き出してきて、窓際のノルスのとなりに立って空を見た。

「ひときわ輝く星もあるし、目立たず小さい星もある。それと同じさ。ときが経てばもっと輝く星を見つけるかもしれない。でも、小さい星は消えるわけじゃないんだ。小さくても目立たなくても星は星としてずっとそこにあるんだよ。君が見たいと思えば目を凝らせばいい。星はちゃんとあるんだからね」

 明け方のリュスロの空に星々がきらめく。本当の恋というものを、いつか知る日が来るのかもしれない。でも、彼女のことを忘れたくない。人魚の歌を忘れないように、生きている限りずっと、永遠に。

 黄金に輝く白亜の港、海の底の恐ろしくも美しい魔族の宮殿ウディロン、そしてはじけるように笑っていたあの人魚の少女を――。


   (了)

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