逃げ水 2
「何だよ、『大きなかぶ』知らねぇのかよ?『うんとこしょ、どっこいしょ。それでもかぶは抜けません』ってよ。知らねぇのか?」
「………」
ウマじいの言っていることはさっぱり分からない。
が、
裁判
裁判所
それらがこの世界にあり、機能していることは知っている。
しかし、こんな生き方をしてきた自分たちのすぐ隣にそれらがある、関係する、……これまでそんな風に考えたことがなかった。
そして今ここで、自分が助かりたいなどと思っているとは到底思えない。
その時、黙り込んだアオとウマじいの間に、カクゲンが割って入って来た。
「……競馬じいちゃん、見逃してくれよ。僕たち、今から遠くに逃げるからさ」
「おお~!小っちゃい方が喋った!!」
「……僕はアオがいないと困るんだ。いや、困るどころの騒ぎじゃない。生きてけないんだ。アオが刑務所に行くって言うんなら、僕も一緒に行くしかなくなるんだ」
そう言い終わるのと同時に、カクゲンの気配が一気に変わった。
ざわり、と周りを取り巻く空気が蠢く。
「……何だよ。俺まで敵って目で睨んでやがるな。ホホッ!……まぁいいさ」
「………」
何の意見も口出しもできるはずもないアオ。
ただ突っ立ったまま。
「……心配すんじゃねぇ」
「「………」」
「俺ならオメェら2人にこの後の……オメェら2人に未来を見せてやることもできねぇでもねぇ」
……未来……
「オメェらの、2人の夢っていうのは何だ?」
「……夢?」
カクゲンの問いに、ウマじいが答える。
「そう、夢さ。夢っつっても、寝て見る夢じゃねぇぜ?未来を見据えた時、目標っつーかよ、こうなりてーんだ、みてぇなヤツだよ」
……この先どうなりたいか。
もちろん考えたことはある。
朝、決められた時間に目覚まし時計の音で目を覚まし、食事を摂り、必ず決まった時間に家を出る。
毎日決まった色の電車に揺られ、決まった場所へ行き、決められた時間から決められた時間まで仕事をする。
そしてまた、決まった色の電車に揺られ、家に帰り、テレビでも見ながらごはんを食べて、決まった時間に布団に入り、そして決まっている明日に備える。
将来そんな自分になれるんだろうか。
そんな風に考えた、言ってみれば、未来。
口を開かないアオに対し、カクゲンが躊躇いなく答えた。
「……家だよ、家」
「家?」
「……そう。アオと2人で暮らす家が欲しいんだよ。競馬じいちゃんは僕たちが兄弟じゃないって言ったけど……兄弟じゃなくたって、家族は家族なんだ」
「……ッ」
ハッとしてカクゲンを見た。
決められた毎日。
先ほど自分が想像した、こうなりたかった未来。
そこには家族がいても構わない。
……いや、家族こそが相応しい。
「家が欲しいのか。ほ~…立派なもんじゃねぇか」
「……そう」
2人の会話を聞きながら、横たわるカミじいの体を視界に入れる。
「………」
……動きのない自分に興味はない。
後ろめたい自分にも、走った後に引き返す、そんな自分にも。
「……ウマじい」
「おう、デカも自分の夢、言ってみろ」
「ワシは……ワシは今からとんでもない厚かましいことを言うで」
「ああ、構わねぇさ」
「もし……もしこの状況を何とかしてくれるっちゅーんなら、ワシは……ワシらは今後も生きて行きたいんじゃ」
「………」
自分の声の合間に、横たわるカミじいの体が視界に入る。
「……カミじいは、ワシに手を掛けられるようなことをしたかのぅ?」
「何だ、質問か?」
「………」
「…ああ、したさ」
「……まるでワシの体じゃないみたいに……ワシはカミじいを仕留めに行ってしもうた……」
「ああ、そらぁ普通するさ」
「………」
解放のような、静寂のような、かと言って自由ではないような、物音がするような……したことがない心境で、アオはウマじいに望む。
「……金じゃ」
「……金」
「金が要るんじゃ」
ウマじいが言った、金では買えない人の誇りというもの。
それにも届くのではないかというほどの金額。
「3憶円じゃ」
人が一生で稼ぐお金1憶円。
それが2人分。
そしてカクゲンが言った、誰にも邪魔されず、誰にも見つかることなく生きて行くための隠れ家。
カクゲンが自分と暮らすために欲しいと言った、家を買うお金1億円。
さらに、
「プラス1億円じゃ」
「プラス1憶ってーのは何だ?」
「……奪われてしもうた、誇りの1憶円じゃ」
「……話が見えねぇな」
「ワシら2人分の2億円。そして家の1億円。……それからあと1億円、どうしても必要なんじゃ」
1億円、必要な奴がおるんじゃ。
「………」
「ワシの夢は4億円稼ぐことじゃ」
そこで、ウマじいがニコッと笑った。
「4億円かぁ。チョロイんじゃねぇか?」
「チョロイか!?」
「ああ。その気になりゃ、何だってできるさ」
「ワシら、ウマじいと一緒におりゃ、4億円稼ぐことができるっちゅーんか?」
慌てて聞いたこの問いに、また「知らねぇよ」と返ってくると思った。
しかしウマじいは、
「ああ、稼げるさ」
いとも簡単にそう答える。
「その代わり、条件と言っちゃ何だが」
「………」
不思議な思いをしながら、アオは続きを待っている。
「俺もオメェらの仲間に入れちゃくれねぇか?オメェら2人が家族っつーんならよ、俺もオメェらの家族になれるように頑張ろうかって思うんだよ」
「「………」」
大人に執着したのは、おばちゃん。
あの人が初めてだった。
何せワシらは子供じゃけぇ。
そんな、我々にはそぐわない、禁止すべき信念を振り翳し、いつの間にかまたカミじいに執着していた。
でも、これが普通なんかもしれんのぅ…。
子供が大人に執着するんは、普通なんかもしれん。
……ワシらの仲間に入れてくれぇなんて言うてきた大人は、初めてじゃ。
そんなことを思いながら、もうカミじいの方に視線は移らない。
これから、未来が待っている ――――。
「そうそう、マル、その金は置いてってやれよ。こいつらへの餞別によ」
「「………」」
カクゲンがウマじいの言う通り、持っていた札をカミじいの上にぱらぱらと振りかける。
……これが、また稼げばエエっていうことか。
そう納得した。
何年後に、何年で、その3億プラス1億を稼ぎ出すことができるのか聞いてみたかったが、野暮な質問は後にしようと思う。
「さぁ、行こうぜ」
にやりと笑い、ウマじいが声を上げた。
その後を追い、2人もテントを出る。
……人1人分を、1億円を、ワシが代わりに稼いじゃるけぇ。
待っとれよ。
もう心配はいらんけぇ、ゆっくりせぇよ。
声にならない声は、アオの中で実に色濃く繰り返すのだ。
この後、何をも打ち合わせることなく、3人は住人の集うこの公園を後にした。
以降この公園がどうなったのか、メガネとカミじいを含む住人たちがどうなったのか、アオもカクゲンも尋ねることはなく、知ることもなかった。
……これからワシが見るもんは、お前が見れんかった分、ワシが見てやるっていうことでどうじゃ?
見とうないもんを見せてしもうたときは、許してくれぇの。
もうしばらく、もうしばらく待っとってくれ。
何せ、お前の代わりにやらにゃいけんことができたけぇのぅ。
天上には遠く半月。
下弦の月。
宣言した3億プラス1億円。
この時アオは、ウマじいは自分たちに競馬のやり方でも教えてくれるのだと、ぼんやりとそう思っていた。
だが実際は……そう、そんな筈はない。
自分たち2人だけで、約4人分の生涯賃金を稼ぎ出さなければならないのだから。
やはり、そんな筈はなかったのだ。
キリが良いので、ひとまずここまでで一時停止。




