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逃げ水 1

どれだけの時間、鼓動の震えに耳を傾けていたのかは計れない。

カクゲンが何故自分の手を握ったのか、真意は理解できないが、とても安心できたことだけは確か。

「……お前、喋れるんじゃんか」

「……うん、そうだよ」

もう大丈夫だから。

そういう意味を込めて、アオから握った手を離した。

「何で……何で黙っとったんじゃ」

何回あって、どのタイミングで、どんな質問だったかは忘れたが、これまで何度も聞きたいことがあった。

「……迷惑掛けちゃうからさ」

「迷惑?」

「……そう。だってほら、僕、バカだろ?バカが喋ると、人を困らせちゃうんだよ」

「困らせるって、何をじゃ」

「……だって、アオの決めたことにケチがつくじゃないか。そしたらアオが悩むじゃないか」

カクゲンがしゃがみ込み、散らかった床を片付け始めた。

「話し合えばエエじゃんか。そういう風に決めとったじゃろ?」

それに、ワシはお前がバカな提案をしたなんてことが一度でもあったとは、思っとらん。

あの家の子供になると言った、あれすらも。

カクゲンは投げ出された本を拾って、表紙を見た。

「……アオ、難しい本読んでるね。僕、知ってたよ」

「何を?」

「……アオがさ、隠れて図書館行ってること」

「……そうか」

カクゲンに知られるのが気恥ずかしくて、借りてきた本も収納ボックスの裏に隠していた。

「……だからさ、僕も1人で、アオがいつも行かない図書館に行ってたんだよ」

「え、そうなん?」

「……そう。だけど思い知ったよ。アオはさ、一度図書館に行くと2~3時間は帰って来ないじゃない。僕はさ、1時間も持たない。アオがどんな勉強の仕方をしてるのか分かんないからさ。僕は1人じゃ勉強の仕方も分かんないってことなんだよ」

「………」

「……僕らは2人なんだ。2人しかいないんだからさ、一党独裁がベストなんだよ。共産主義さ。選挙はいらない。アオに全部決めてもらいたかったんだ」

……リーダーは決めずにいよう、そう言うたじゃないか。

共産主義にも法律がある。

その法律は2人で決めりゃエエじゃないか。

……共産主義……こいつ、そがいな難しいことを言うんじゃのぅ。

「だからってお前、2年も一言も喋らんで黙っとることないじゃろうが!2年じゃぞ、2年!!」

「……そう。たまに話すと声が掠れて出にくかった」

「バカタレ!!」

カクゲンが、カミじいが踏みつけていた○ン○○を拾い上げ、アオに差し出した。

それを受け取り、ぎゅっと握り締める。

……カクゲンはさっき、自分のことを家族だと言ってくれた。

あの場所を抜け出してから、見て、聞いて、感じたものと比べてみても、自分たちは世間一般でいう『家族』というものに何ら遜色ない関係だと思う。

アオはそう冷静に思いつつも、しかしそれだけ。

もう今後のことは考えることができない。

その余地が、頭の中に見当たらない。

辺りにばら撒かれていた札を集め終えたカクゲンが、カミじいの手の中で握り潰されていたお金を引き抜いた。

それを手で整えながら、横たわった2人を見下ろし、

「……死んでるのかな?」

「………」

初めてのことだったのでどうかは分からないが、あの手応えは、恐らく……。

「……えーっと、13万くらいあるのかな。1人、大体6万5千円だ」

「!!」

「……アオ、すぐにここから離れよう」

「………」

アオは黙り、視線を落とす。

やはりこれからの展望に向けるその思考は、著しく劣化していた。

「……1人で行きんさい」

「……はあ?」

「ワシャぁもう終わりじゃ。……今から自首するけぇ」

「……ア」

そうカクゲンが口を開き、何かを言いかけた一瞬後、突然バサリと音を立てて背後の入口が開いた。

「「ッ!!!」」

2人は一斉に、身構えるように振り返る。

外の街灯に背を照らされて現れたのは、今の今までその存在を完全に頭から消し去っていた、ウマじいだった。





―――― 思い出してみよう。

永遠の禁句を。


ただ走る。

ただひたすらに。

その歩幅が今よりも小さいのは確か。


息を切らせ、足元も見ず、我々は走る。

この暗闇の中、そうしている面が笑顔であることに間違いはない。


教会の雑音を気にする者。

焼けた鉛に触れたがる者。

一般を極端に遠ざけたい者。

それらを掻い潜り、真っ直ぐに走り続ける。


七粒ほどの拳は何も持たないのではなく、光るものを握り締めたまま。

光るものはただ光るではなく、赤く染まっている。

その赤は赤が深く、黒にも見え、黒く見えるそれは、隣を走る彼にも付着している。


まだまだ先に行くんだな?

そう考える我々の迷いとは裏腹に、今よりも小さな歩は走り続ける。


分かるぞ!

守れなかったから……

守らなかったから、その拳はこれを握り、赤より赤いのか。

きっとそれは、戦わなくても良い我々に、我々が憧れた進み。



―――― 思い出してみよう。

一時の禁句を。


この先に、日食のように見える光がある。

その影は両手を広げ、まるで我々を手招いているかのような……。


バレはしない傷を見せたがる者。

借りた物を倍数にして返す者。

全てを手に入れた者。

それらを掻い潜り、我々はそこを目指す。


光は近付き、この顔を照らし、

……隠れていたのか? 

あの影は。


衰弱に翻弄されながらも、歩は進み続ける。


愚かしいのは生まれつきだから。

一番好きな物を決めかねているから。

珍しく眠りが深いから……。


あの、光を漏らす影は何?

思い出せる物?

今後出会う事もない者?


いいや……違う。


あれは、我々の最後尾。

特等としてある、最後尾 ――――。





バサリ。

ウマじいが中に入ると同時に、入口が閉まった。

いきなり眼前に現れたこの状況に顔を引き攣らせているのは、もちろん自分。

ウマじいはいつもと変わらぬ佇まいで背を丸め、手を後ろに組んだまま、視線の先も窺い知れない。

これもいつもの通り。

「……くッ…ぅ」

食い縛った歯の間から、低く呻きが漏れた。

つい先ほど『自首する』と、そう言った自分が、この瞬間敵意を持ってウマじいを見た。

「おーおーおー……まぁ、こうなるだろうよ」

ウマじいは2人を素通りし、倒れたカミじいの傍にしゃがみ込む。

カクゲンの心境は分からないが、今、自分は完全に身構えている。

そんなアオに、ウマじいはまたいつものように、見透かしたように、

「何だよ。俺を睨むんじゃねぇよ。……俺も殺っちまうってか?」

「!!」

こもった肩と拳から、力が抜けた。

「自首するっつっときながら、俺まで手に掛けちまうってーのはな、どうなんだ?」

「………」

「ホホッ!オメェらやっぱり野生だねぇ。怖じ気づかねぇのが取り柄さ」

ウマじいはゆっくりとした動作でカミじいの左胸に手を当て、その口元に耳を近付けた。

「…え!ウマじい!生きとるか!?死んどりゃせんのか!?」

ウマじいがカミじいから手を離し、アオを振り返る。

「そんなこたぁ知らねぇよ」

「……ハア?」

「俺は医者じゃねぇからよ。そんなこたぁ分からねぇ」

突いていた膝を離して立ち上がったウマじいは、また後ろに手を組み、2人の前に近づいてきた。

「……で?どうする?」

「「………」」

「何なら裁判で証言してやってもいいぜ?これまでの経緯と、この行為は突発的なものであり、完全な正当防衛だってよ。こいつらが生きてりゃ執行猶予、死んでりゃ実刑何年だろうな……分かんねぇな。2人手に掛けちまったんじゃな」

……しっこうゆうよ……

……じっけい……

「!!な…ッ!違うで!メガネは……メガネは…メガネはワシがやったんじゃない!」

「ほ~…だったら裁判でこう言やぁいい。メガネの首を絞めてるじいさんを見て、メガネをじいさんから助けようとして首を握って引っ張ったらこうなっちまった、ってよ。ホホッ!大きなかぶみてぇになってんじゃねぇか」

「……か……かぶ!?」

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