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こぼれおちるもの 8

円満な家庭に、不躾に押し掛けた感は否めない。

しかし離れがたい、あたたかさ。


「おいタダシ!」

それまで大人しく、それでいてガツガツとおかわりを食べていたカクゲンが、隣のタダシの肩をぽんと叩いた。

「んー?」

カクゲンの方を振り返るタダシ。

「お前、こぼすんじゃねぇよー」

タダシの周りはカレーやごはん粒が、まるで乱暴に掻き回したように飛び散っている。

そして、それは床にまで。

「カレーはシャツに色がついたら、なかなか取れねぇんだぞ?」

そう言ってカクゲンは立ち上がり、床に落ちたごはん粒を拾い集めた。

それを見たサクラの母が、

「ごめんねぇ」

タダシの代わりにそう謝る。

「お母ちゃんに言ってねぇよ。…あ、そうだ。お母ちゃん、ちょっとタオル貸してくれよ」

「タオル?」

サクラの母はすぐに立ち上がり、隣の部屋から黄色いタオルを1枚持ってきた。

母の席のすぐ隣でそれを受け取ったカクゲンが、タダシの首に前掛けのようにぐるりと巻く。

「ほら、こうすりゃ汚れねぇぞ。なぁタダシ!」

「んー」

するとアオの隣でサクラが面白そうに笑った。

「タ―くん、赤ちゃんみたいじゃん!」

サクラの母もふふふと笑う。

それにつられてタダシもあははと笑い、アオも合わせるように笑みを浮かべる。

そんな中、1人無表情だったカクゲンがタダシに言った。

「なぁタダシ」

「んー?」

サクラの母を見ていたタダシが、カクゲンに視線を移す。

「お前、障害者だろう」

その一言で、サクラとサクラの母の声と動きが、ピタリと止まった。

アオはその一連を見てはいたが、何故2人が硬直したのかは理解できない。

「なぁ、そうだろ?お前、障害者だよな、タダシ」

「んー」

「な、やっぱりそうだよ。僕の知り合いにもいたぞ。マサキとミチルって言うんだけどな。あいつらもな、障害者だったんだよ」

カクゲンはそう言って、タダシの喉辺りに溜まったタオルを引っ張って整える。

「「………」」

……大きな声で話すことではなかったのかもしれない。

アオには、サクラとサクラの母が俯き加減であるように見えた。

やがて、

「……あのね、タロウくん、」

言いにくそうに何かを言い掛けたサクラの母の声に、しかしカクゲンが被せるように口を開く。

「僕と一緒だよ!」

そうして、ようやく伸びてきた前髪を両手で上げ、タダシの目を覗き込んだ。

「「………」」

その時に漂った言い知れぬサクラ親子の無言の空気は、アオには到底言葉で表すことはできない。

「僕もな、これな、ビー玉みたいなヤツが入ってんだよ。タダシと一緒。障害者なんだー」

カクゲンは右目に嵌り込んだ義眼を指で触り、

「ほら、全然痛くねぇんだぞ?タダシも触ってみろよ、ほら」

「んー」

サクラとサクラの母は黙ったまま、2人の遣り取りを見つめていたが、

「……それ何、タロウ。その目、見えないの?」

そう先に声を出したのはサクラ。

「うん、見えねぇよ。こっちしか見えない」

「何でそうなったの?」

「ああ、机の角にぶつけてなー」

机の角にぶつけるまでの過程は、面倒なことになるから言わないでおく。

それは法律の一つ。

アオは2人のリアクションが気になり、食事どころではない。

何か間違ったか?

そればかりを考えている。

サクラは神妙な顔のまま椅子から立ち上がり、母の後ろを通ってカクゲンに近づいた。

「ねぇ、もっとよく見せて。近くで見ていい?」

「おう」

その時、サクラの母が小さく「こら!」とサクラを叱った。

「サクラ、座りなさい」

叱られたサクラは小さく「はい」と返事をして、自分の席に戻る。

アオは驚いた。

何故サクラが叱られたのか、分からない。

サクラの母はカクゲンを見上げて、

「……痛かったよね。大変だよね」

そう言って、腰辺りをぽんぽんと叩いた。

「べっつにー」

カクゲンは前髪を上げたまま、そう応える。

その時、

「……あら?」

「!?」

サクラの母の不審の声にビクッと体を震わせたのは、カクゲンではなくアオの方。

何事かと見守るアオの前で、サクラの母が座ったままカクゲンに顔を近付け、出しっぱなしの右目を覗き込んだ。

「タロウくん、目が痒いんじゃないの?赤くなってるよ」

「うん、朝からちょっとね」

「大変!お医者さんに行かないと」

「いいよー」

「おばちゃん、今日お仕事お休みだから、連れてってあげるよ。お家に行って、保険証を持っておいで」

「「………」」

ほけんしょう……?

何のことだか分からない。

大人の事情に似た、難しい言葉が出てきた。

アオはこの場から逃げ出そうかどうしようか、考える。

しかし、真剣に考えているアオとはどこまでも違うカクゲンは、実に能天気。

逃げるタイミングなどには気づかない。

「病院って痛いんだろ?ヤだよ!」

「でもそれ、大変なことになってるんじゃない?お家にお薬ある?」

「ないよ」

「え!ないならお医者さんに行かなきゃ!」

サクラの母は本当に慌てていた。

真剣な顔をして、カクゲンの右目を心配そうに見つめている。

左手が意味もなく上へ下へと動いているように見えるのは、多分カクゲンの目元に触れようとして、しかし触れていいものなのか躊躇しているからだろう。

「お医者さんは怖くないのよ?大丈夫、おばちゃんが痛いことしないでって言ってあげるから」

「ヤだよー」

カクゲンを病院へ連れて行こうと、何とか説得を試みるサクラの母。

片目のない人間が珍しいのか……

珍しい?

いや、きっと『保険証』と聞いた自分と同じで、どうしていいか分からないのだろう。

アオは先ほどから緊張の連続。

疎い自分と、疎いと気づかれたくない自分の連続。

カクゲンの余裕っぽい受け答えが羨ましく思える。

そのカクゲンは、そんなアオをとうに放り、サクラの母に首を傾げて強請った。

「じゃあさ、目薬貸してくれよ、お母ちゃん」

「え、目薬?」

「うん。目薬あれば治るんだよ」

「でも何でもいいってわけじゃないでしょう?目薬っていっても」

「何でもいいよ」

「………」

サクラの母は少し考えて、結膜炎の薬があると言い出した。

席を立ち、木の箱の中から目薬を取り出して、カクゲンをテレビの置いてある隣の部屋へと連れて行く。

「タロウくん、いらっしゃい。おばちゃんが点してあげるから。結膜炎の目薬だからね、多分点しても害はないと思うから。こっちへおいで」

「………」

正座したサクラの母の隣に、突っ立ったままのカクゲン。

「立ってちゃ点せないでしょ?ほら、横になって。おばちゃんの膝の上に頭乗せなさい」

「えー、いいよ。自分でやるから」

「いいから早く」

「………」

アオは台所からサクラの母とカクゲンの遣り取りを、何故かドキドキしながら固唾を飲んで見守っている。

嫌がっていたカクゲンはやがて観念したのか、言われるがまま仰向けになり、サクラの母の膝の上に頭を乗せた。

「帰ったら、ちゃんと病院に連れて行ってもらうのよ?」

そう言って1滴、2滴と、カクゲンの右目に目薬を入れる。

「ちょっとこのまま目を瞑って横になっててね。お薬、流れちゃうからね」

「………」

黙って目を閉じたカクゲンの顔は、真っ赤だった。

必要以上にぎゅうぎゅうと目を瞑っている。

彼もやはり大人の女性に慣れていない。

アオは少しほっとしたように、それを確認してしまう。

サクラの母は、カクゲンの目から零れた薬を指で丁寧に拭っていた。

細くて、白い指。

羨ましいと思ったが、それよりも恐れ多さが遥かに勝る。

やがて、それまでアオと並んで様子を見ていたサクラが席を立ち、2人のいる部屋へと歩いて行った。

横になったままのカクゲンを覗き込み、話し掛ける。

「……ねぇタロウ」

「何だー?」

「さっき、物珍しそうにしてごめんね」

サクラはそう言って、謝った。

……分からない。

珍しいものを見たいという気持ち。

当たり前のことではないのか?

何で謝る?

サクラはさっき、どうして母に怒られた?

やはり分からない。

カクゲンもきっと知らない。

通常よりも締めつけられて生活してきたあの場所と、ある種誰よりも自由に生活してきたその後。

サクラの持つ中間は未知の世界。

できれば、今どうして謝ったのかを聞きたかった。

「何だー?何もやってねぇのに謝んじゃねーよ」

カクゲンは真っ赤になった顔を擦りながら起き上がった。

それから、サクラの母の前にもじもじしながら立ち、いつもより明らかに小さな声で、

「……お母ちゃん、……ありがとう」

呟くように、お礼を言った。

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